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加熱式たばこでハームリダクション…二者択一を迫らない依存症との向き合い方

薬物やアルコール、たばこへの依存に対して、私たちの社会はどのように向き合えばいいのでしょうか──。

解決策の1つになり得るのが「ハームリダクション」。一定の害があるものを完全に断つのではなく、害をなるべく減らしながら上手に付き合っていこうとする考え方です。

スローニュースが11月20日に開催したオンラインセミナーでは、このハームリダクションをテーマに、経済学者の安田洋祐さん、医療記者の岩永直子さん、ジャーナリストの堀潤さんがそれぞれの立場から議論を展開。経済学、医療政策、ジャーナリズムという異なる視点が交差する中で、依存症や社会的孤立といった社会課題の解決のための新たな道筋が見えてきました。

ハームリダクションは、包摂的な社会を実現するためにどのように機能するのでしょうか。そして、メディアが果たすべき役割、報道の在り方とは──。

前編では、ハームリダクションの有効性や社会的インパクトについての議論をお届けします。

本記事は、一般社団法人「新時代戦略研究所」の協賛を得て、スローニュースが開催したオンラインセミナー「ハームリダクションと孤立しない社会の構築―アカデミズム×ジャーナリズムで社会を変える―」の開催レポートです。モデレーターを当社代表の瀬尾傑が務めました。登壇者の詳しいプロフィールはこちら

構成 スローニュース


なぜハームリダクションが有効なのか

ヨーロッパやカナダ、オーストラリアなどを中心にハームリダクションが広がっている背景は何なのでしょうか。依存症専門のオンラインメディア「Addiction Report(アディクション・レポート)」の編集長である岩永直子さんは次のように説明しました。

岩永:
依存症に苦しむ人に対し、対象物質や対象行為を完全に断たせる治療を選んだ場合に、本人にとって必ずしも有益でないと分かってきたからです。

たとえば、幼少期に虐待を受けた人がトラウマを和らげるため、自己治療のように薬物を使って依存症になるケースがあるとしますよね。薬物を完全に断たせたとしても辛さは残ったままなので、本人が自死を選んでしまう場合もあります。それは必ずしも本人にとって有益な治療法とは限りません。

さらに、断酒や断薬など「完全なゼロ」を目指しながら失敗した時に、当事者が「自分はダメな人間だ」「こんなダメな人間は生きちゃいけない」と自己嫌悪に陥り、治療から遠ざかってしまう懸念もあります。

大切なのは、量を減らしながらでも医療機関とつながって治療を続けること。こうした背景からハームリダクションを治療方針とする医師が増えています。

【ハームリダクション】
「害(ハーム)を減らす(リダクション)」という意味の言葉。薬物、アルコール、たばこなど依存性があり、完全に断つことが難しいもののダメージを減らし、健康や社会経済上の悪影響を減少させることを目的として、欧米を中心に広まっている考え方。依存症に苦しむ人に「やめる/やめない」の二者択一を迫るのではなく、その間にある緩やかな選択肢を示すことで、精神的なストレスを軽減しながら自分のペースで害を減らすことができる。

医療記者の岩永直子さん

加熱式たばこのベネフィット

どのようにハームリダクションを実現するのか──。イベントでは身近な嗜好品であるたばこから議論を始めました。

喫煙はがん発生の上位要因であり、健康リスクを低下させるためには本来であれば禁煙が望ましいと言えます。しかし、誰もが実行できることではありません。たばこの葉に含まれる成分「ニコチン」に中毒性があるからです。

一方で、たばこ関連の疾患の最大の原因はニコチンではなく、煙に含まれる他の化学物質だと言われます。その代表例が発がん性物質として知られる「タール」。タールが煙として吸い込まれ肺に蓄積すると、肺の機能を低下させ、肺がんのリスクを高めます。

そんな中で注目を集めるのが「加熱式たばこ」や「電子たばこ」。火を使わないためタールの量が劇的に減ります。紙巻きたばこから加熱式たばこへのシフトではニコチンの量が変わらないため、喫煙頻度は減りませんが、タールの量が大きく違うため健康への害を減らすことができるのです。

さらに加熱式たばこによるハームリダクションは、個人だけでなく社会全体でも経済的な恩恵をもたらすと言います。大阪大学の安田洋祐教授(経済学)は、最新の研究論文をもとに次のように説明しました。

経済学者の安田洋祐さん

安田:
「日本における生活習慣の改善が社会保障費用と経済に及ぼしうる効果」を調べた論文があります。この中では、非健康的な生活習慣として、①塩分の過剰摂取②喫煙③飲酒④脂肪の過剰摂取⑤食物繊維、果物、野菜などの不十分な摂取──の5項目を対象にしました。

喫煙に関して言えば、①70%の喫煙者が加熱式たばこに移行②加熱式たばこは30%健康リスクが低い──と仮定。その結果、2019年の単年で、喫煙習慣を改善することで約3659億円の医療費と経済損失を削減できた可能性を指摘しています。さらに、喫煙者が紙巻きたばこから加熱式たばこに切り替えれば、将来的にはさらなるコスト削減が期待できるとしています。

安田さんの発表資料より

健康への影響をどう評価するか

安田:
2つ目に紹介したいのが「日本における紙巻きたばこから加熱式たばこへの移行が健康と医療費に及ぼしうる効果」を調べた論文です。

この論文では、①慢性閉塞性肺疾患②虚血性心疾患③脳卒中④肺がん──の4つを対象疾病にしています。50%の喫煙者が加熱式たばこに移行し、加熱式たばこは70%健康リスクが低いと仮定した上でシミュレーション。
その結果として分かったのは、
・毎年約1200万人の喫煙関連疾患の患者が減少し、医療費が4540億円削減されると期待される
・脳卒中と虚血性心疾患の発症率は29%減少、肺がんの患者数も20%減少が予測される

ということでした。

安田さんの発表資料より

以上のことから、喫煙分野のハームリダクションが社会経済的に非常に大きなインパクトをもつことが分かります。

経済学、医療政策、ジャーナリズムという異なる視点から活発な議論が交わされた

医療記者の岩永さんは、加熱式たばこへの移行を考えるうえでの健康との関係性、社会的視点の必要性について論点を示しました。

岩永:

2点ほど指摘しておきたいと思います。
1つ目は加熱式たばこへの移行が本当に健康に良いのかどうか、結論を出すまでにはもう少し時間が必要だということです。

加熱式たばこへの切り替えが健康に与える影響を研究している東北大学の田淵貴大准教授によると、室内での喫煙が紙巻たばこより増えてしまい、受動喫煙が増えたり、低出生体重児が増えたり、子どものアレルギーが増えたりといったデータがあると言います。

2つ目は、依存症を個人の問題ではなく、社会の問題として考えていくことの必要性です。生活習慣病対策として、日本ではメタボ検診を大々的に導入しています。しかし、莫大な公費を使う一方で、費用対効果が低いということが研究で証明されています。

「生活習慣病」というと、個人の生活習慣に問題があるのだと思われがちです。しかしながら、その人が置かれている社会状況についても考える必要があります。

新鮮な果物や魚を買えるのはお金持ち。経済的に困窮していたり、非正規雇用だったりすると、カップラーメン1つで夕食を済ませることもある。そうすると、塩分摂取量が高くなるかもしれないし、体にも悪いかもしれない。

でも、それが個人の責任なのかという点はぜひとも問いたい。社会的な状況によって、ある種の生活習慣に陥らざるを得ないということはあるわけで、このような社会経済的な背景についても議論する必要があるでしょう。

〇堀:
これまでの話を伺っていて、災害大国である日本では災害復興やレジリエンスの観点でも、ハームリダクションが重要だと思いました。たとえば、長引く避難生活によって食生活の習慣が変わって塩分を過剰摂取してしまったり、喫煙や飲酒で寂しさ、孤独を紛らわしてしまったりということもあります。「平時の健康管理だけではなくて、有事の際に強靭性のある社会を作るうえでハームリダクションがどう有効なのか」という議論の形をつくることも大切でしょう。

ジャーナリストの堀潤さん

20.8億円の行政コストが削減(2021年試算)

たばこの害をいかに減らせるか。健康への影響のみならず、火災の発生件数や死亡者数にも議論が広がりました。安田教授は次のように説明しました。
 
安田:
消防庁の「加熱式たばこ等の安全対策検討会報告書」によると、加熱式たばこは紙巻きたばこよりも火災リスクが低いことが確認されています。

さらに独自に試算した結果、2016-21年の間に加熱式たばこが普及したことで、
・出火件数は5527件
・火災対応の行政コストは73.9億円(人件費のみ考慮)
・火事による損害額は66.9億円
・火事による死者数は253人

抑えられていた計算となることが分かりました。

たばこ火災による損害額と死者数:各年の総務省消防庁『消防白書』をもとに作成
(安田さんの発表資料より)

また、2021年単年でみたところ、
・出火件数は1446件
・行政コスト20.8億円
・損害額は17.4億円
・火事による死者数は67人

抑えられていたことが分かりました。
極端な話で言えば、紙巻たばこから加熱式たばこに全員が移行すれば、これらの損害を全てゼロにできる可能性あります。加熱式たばこの普及は、それくらいメリットがあることなのです。

税率改定とハームリダクションの関係についても議論が交わされた

たばこの税率改定が及ぼす影響とは

今、国内では、防衛費の財源確保に向けた増税に伴って、たばこ税の見直しが議論されています。

具体的には、加熱式たばこの方が紙巻きたばこに比べて税負担が低いため、加熱式たばこの税率を上げて、この差を解消しようとするものです。その影響について安田教授は次のように説明しました。

安田:
経済学の世界では、価格を1%上昇させたときに需要が何%減少するかを「需要の価格弾力性」という言葉で表現します。

たばこの価格弾力性について諸外国の数字をみると、おおよそ価格が1%上がると、需要が0.3~0.4%減ると言われています。

日本国内では、加熱式たばこの価格弾力性について、信頼できるデータを使った推計がまだありません。

一方で、グローバルでは推計が出始めている。紙巻きたばこの価格弾力性が0.3~0.4なのに対して、加熱式たばこは、1を超える推計値がたくさん出てきているのです。

これが意味するところは、税率改定で加熱式たばこの価格が1%上がれば、需要が1%以上減るということです。加熱式たばこが広く普及している日本では、諸外国と比べて弾力性の値は小さいことが予想されますが、それでも値上げによって加熱式たばこの需要が大きく減る可能性があるのです。

懸念するのは、今、日本国内で加熱式たばこのユーザーの割合が増えて、ここまで説明してきたようなハームリダクションの社会経済的なインパクトが見え始めているのに、紙巻きたばこへの回帰が起きて、これまでの動きと逆行してしまうかもしれないということです。

税率改定とアルコールの関係について指摘する岩永さん

岩永:
税率改定とハームリダクションの関係というのは非常に興味深い視点だと思います。同じことがアルコールにも言えるでしょう。

たとえば、「ストロング系」と呼ばれるアルコール度数が高い缶チューハイは、ビールより税率が低く、価格も安くて手軽に酔えるとあって、若者や低所得者層を中心に人気を集めてきました。

一方で、アルコール依存症の人たちにも広がり、症状を悪化させているとして社会問題化しました。たばこもアルコールも少額で簡単に気分転換できるもの。日々の生活に疲れていて、お金がない人は、こうした手っ取り早い遊びや嗜好品を選びがちなのです。そんな状況を、税率のコントロールで是正できるのであれば、それは非常に興味深い施策だと思います。

(写真は、「©豊永和明」)

イベントでは、依存症を巡る報道の在り方についても議論が及びました。開催レポートの後編では、マスメディアの課題や責任についてお届けします。