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「記者はつぶしがきかないなんて大間違い」ヒューマン・ライツ・ウォッチ笠井哲平さんがメディアで学んだ仕事の原点

記者の仕事はつぶしがきかない──。そんな諦めにも似た声をメディア業界ではよく耳にします。しかし、それは本当なのでしょうか。自分で可能性や選択肢を狭めているだけなのではないでしょうか。
 
実はメディアの仕事で培ったスキルや経験は、他の業界でも十分に通用します。大切なのは、ちょっとした視点の変え方や親和性のある他のスキルとの組み合わせ。この連載企画「私のメディア転職」では、メディア出身者のキャリアに焦点を当てながら、記者/編集職で得た技術や知識の活かし方、転職術、リスキリングについて取り上げます。
 
第1回目は、国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」のアジア局プログラムオフィサー、笠井哲平さん(33)。これまでIT大手グーグル、ロイター通信記者というキャリアを歩んできました。

外資系で華麗なる転身を遂げてきたように見える笠井さんですが、意外にも転職するにあたっては不安が尽きなかったそう。「記者として培ったスキルをどうアピールすればいいのか」。悩みながら答えを見出してきました。

今回のインタビューでは、他業界に転職したからこそ見える記者出身者の強み、転職術を余すことなく話してくれました。キャリアに悩んでいる人にとっては、目から鱗のヒントが詰まっています。
 
まず前編では、笠井さんがジャーナリストを志した理由やロイター通信での働き方について振り返ります。


聞き手 韓光勲

ヘミングウェイに憧れた高校時代

──これまでのキャリアや現在の仕事について簡単に教えてください。

笠井:
新卒ではグーグルに入社して、動画投稿サイト「YouTube(ユーチューブ)」に曲を配信する音楽会社のサポート業務を担当しました。グーグルの仕事もやりがいがあったのですが、高校生の頃から抱いていた「ジャーナリストになりたい」という目標を捨てきれませんでした。

そんな中でポジションにたまたま空きが出たロイター通信に応募して、記者としてのキャリアをスタートさせました。今は、国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」のアジア局プログラムオフィサーとして、アジアにおける人権問題に関する調査を行っています。最近では中国政府の人権弾圧の実態について調査し、レポートを発表しました。報告書をもとに、日本の外務省などに対して政策提言を行うこともあります。

【ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)】
アメリカ・ニューヨークに本部を置く人権監視NGO。1978年に設立され、世界各地の人権団体と協力しながら、人権問題の調査と政策提言を行っている。スタッフは地域専門家や法律家、ジャーナリストなど多様なバックグラウンドを持つ。公正で正確な事実調査と人権侵害の解決に向けたアドボカシー活動に定評があり、1997年にはノーベル平和賞を受賞。世界各国を調査し、年間40冊の報告書を発表している。財源は個人や私的な財団からの寄付。独立性を守るため、いかなる政府からも資金援助を受けていない。東京オフィスは2009年に設立された。

取材に応じるヒューマン・ライツ・ウォッチの笠井哲平さん/東京都内で2024年11月/スローニュース撮影

 ──高校生の頃にジャーナリストを志したきっかけがあるのでしょうか。

笠井:
私は日本で生まれた後、父の仕事の都合で、小学校1年生から高校卒業までをアメリカ西海岸地域のカリフォルニア州で過ごしました。アメリカの高校は4年制なのですが、最終学年の時に出会った英語の先生がとても良い先生で、僕が書いた文章をすごく評価してくれたのです。自分の書いた文章が評価されるのはこんなに嬉しいのだと気付きました。

また、英語でいろんな本を読む中で文章表現の面白さにも関心を持ちました。一番好きなのは、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899―1961)の『武器よさらば』。第一次世界大戦中のイタリア戦線を舞台にした小説で、ヘミングウェイ自身の従軍経験に基づいています。彼は第一次大戦中に赤十字の一員として、第二次世界大戦では従軍記者として、戦地に赴いています。ヘミングウェイは元ジャーナリストで、すごく的確な言葉を選んで表現する点が印象的でしたね。

小説にのめり込んだ理由の1つは、アメリカで人種差別を受けたからでした。当時住んでいたのは、カリフォルニアの中でも白人がマジョリティを占める保守的な田舎町。小学生の頃にボールの壁当てで遊んでいると、白人の友達に「お前はよそ者だ」という心無い言葉をぶつけられました。初めて体験した人種差別でした。もっと大人になってからは、アジア人特有の外見を揶揄されたり、身体的な暴力を受けたりしたこともありました。

大学進学を機に日本への帰国が決まりました。当初は数年のはずだった海外赴任が長くなるにつれて、両親が「高校を卒業するまでは」とタイミングを調整してくれたようです。ただ、帰国が迫る中である種の孤独感というか、「アメリカの友達とはしばらく会えないんだ」という現実への寂しさもありました。差別的な言動をする人がいる一方で、大切な友達もたくさんできましたから。

アメリカという場所にそんなアンビバレントな感情を持つ中で、私の心の拠り所になったのがヘミングウェイの小説でした。彼の小説に励まされ、言葉で表現することの素晴らしさを教えられました。「ジャーナリストになって、色んな人に会って物を書きたい」という気持ちが芽生えました。

笠井さんが大学時代を過ごした早稲田大学/東京都新宿区で/スローニュース撮影

多角的に学んだマイノリティーの視点

──大学ではどういう勉強をされたのですか。

笠井:
入学した早稲田大学の国際教養学部は、専門教育よりも学際的な知見の習得を目指す「リベラルアーツ教育」に主眼を置いていました。海外留学が必修になっていたので、私はアメリカのカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)に1年間留学しました。

留学中は、国際関係論やアジア系アメリカンの歴史に関する授業を受けました。現代のテロリズムの背景について分析する授業があった一方で、同時多発テロ事件以降のアメリカによる「対テロ戦争」がイスラム教への偏見を生み、ヘイトクライム(憎悪犯罪)が発生している実態も学びました。

──アジア系アメリカンに関する授業はどのようなものでしたか。

笠井:
アジア系移民の歴史を網羅的に学びました。日系移民がどうやってアメリカに来たのか、その背景となる歴史に加えて、太平洋戦争中の強制収容の歴史も学びました。韓国系や中国系など移民の歴史や問題についても視野が広がりました。この授業に関心を持ったのは、私自身が共和党支持者が多い保守的な地域で高校生までの時間を過ごし、アジア系のマイノリティーとして差別を受けた経験があることに起因していると思います。

ロイター通信時代にデモの取材をする笠井哲平さん/東京都内で2016年冬(本人提供)

取材に応じてくれた路上生活者の女性

──ジャーナリストになるという思いは大学時代も変わりませんでしたか。

笠井:
変わりませんでした。大学4年生の時、ロイター通信とアメリカのテレビ局CNNの東京支局でインターンシップをしました。特にロイターでのインターンシップで、今でも自分の原点になっている取材があります。

当時は「ネットカフェ難民」や「マクドナルド難民」という言葉をニュースで聞くようになった頃で、「様々な事情で家を持てない人たちの問題が大都市では可視化されにくい」という現実がありました。この問題を世界の人に伝えたいと思って提案すると、企画が採用されました。そして、炊き出しなどの支援がさかんな「新宿中央公園」(東京)に足を運びました。

多くの人が口を閉ざす中、ある1人の路上生活者の女性がインタビューに応じてくれました。その女性が教えてくれたのは「福祉にアクセスしようにも自分に合わないものであったり、手続きが煩雑だったりしてうまくいかなかった」という自身が置かれた状況。その苦境を伝えたいと思って取材を重ねました。そして、編集者の力を借りながら何とか記事を配信することができました。

ニュース配信後、その女性から手紙が届きました。そこにあったのは<男の人にぼうりょくされました。しゅざいしてください>という助けを求める声でした。他の路上生活者の男性に暴力を振るわれていると訴えていました。

改めて話を聞こうと公園に行ってみたものの、その女性を見つけることはできませんでした。他の路上生活者に聞いてみると、「彼女は亡くなったらしいよ」という言葉が返ってきました。

その女性が本当に亡くなったのか。今でも確認することはできません。「自分がもっと取材して、問題を追及できていれば何か違う結果があったのではないか」と今でもふと思い出します。

一方で、この経験があったからこそ、ジャーナリズムの役割やその重要性について再認識しました。自分が取材しなかったら、彼女の存在やその苦境は誰にも知られなかったかもしれないのですから。

彼女からの手紙は今も大切に保管しています。あの時に感じた思いを忘れたくないからです。読み返す度にあの頃の初心を思い出すことができます。

取材に応じてくれた路上生活者の女性から届いた手紙/笠井さん提供/写真は一部加工しています

全国紙の内定を辞退しグーグルへ

──そんなジャーナリストとしての原体験がある中で、どうしてファーストキャリアでグーグルへの入社という選択をしたのでしょうか。

笠井:
実は日本の全国紙1社から内定を頂いていました。ただ、日本式の就活にはとても苦労しました。当時はエントリーシートが全て手書きだったからです。

私は小学校から高校までアメリカの現地校に通い、土曜日に日本語の補習校に通っていました。日本語を読んだり話したりすることは問題ないのですが、今でも手書きはちょっと苦手です。手書きで応募書類を何とか提出できたのが、全国紙と通信社の計2社だけでした。

全国紙の方からは内定を頂いたものの、最終的には辞退することに決めました。面接時には問題なかったのですが、内定者向け懇親会の雰囲気がどうしても肌に合わなかったのです。

それまでは丁寧に接してくれていたのに、「おい新人、こっちに来て飲めよ」というような態度に変わった。フレンドリーに接してくれていたのかもしれませんが、仲間に一度入ったら、その場の雰囲気に合わせて行動しないといけない空気がありました。日系企業にある独特の同調圧力というのでしょうか、それが嫌でした。「この会社に入ると、せっかく身に着けた英語も使えないし、私生活を投げ打って働くだけのサツ回り(警察取材)の記者人生か」と思うと気が滅入ってしまったのです。それで内定を辞退しました。

そんな頃に私のビジネスSNS「LinkedIn(リンクトイン)」を見たリクルーターから連絡があり、グーグルの募集要項を教えてもらいました。実際に応募した後、通常のテストや面接を経て採用してもらえました。グーグルでは9カ月間働きましたが、「ジャーナリストになりたい」という気持ちはずっと持っていて、外資系メディアでポジションの募集が出れば応募しようと考えていました。

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年の節目に向けて取材する笠井さん/福島県で2016年2月(本人提供)

日本のことを世界に伝える責任

──それでロイター通信に移られたのですね。

笠井:
外資系メディアは新卒一括採用ではないので、ポジションが空いた時にしか募集がかかりません。募集時には「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」と呼ばれる書類に職務内容が詳しく記載されていて、仕事の範囲が決まっています。日本のメディアでは記者は警察取材から仕事をスタートさせることが多いですが、外資系メディアでは警察取材を強要されることはありません。職務記述書で取材する範囲が決まっているからです。また、希望していない転勤も基本的にはありません。

──ロイター通信での働き方はどのようなものでしたか。

笠井:
ロイター通信に在籍した4年間のうち、最初はペン記者として、後に映像記者として働きました。基本的な勤務時間は平日の午前9時から午後6時ぐらいまで。自然災害や事件の発生に備えての週末勤務はありましたが、順番で回ってくるだけなので頻度は数カ月に1度ぐらいでした。ペン記者時代は「1日8時間」の中で働いて、映像記者になるとフレックスタイム制となり、夜遅くまで働けば翌日は昼頃に出勤するような形で時間を自由に使えていました。

一方で、取材の現場では記者クラブにアクセスできないなど、中央省庁や警察への取材がほとんどできなかったり、制限があったりしました。ロイター通信は日本の主要メディアの報道を引用する形で報道することもあり、その意味では日本のメディアの方々に支えられている面もあります。

北九州豪雨の取材をする笠井さん/福岡県で2017年7月(本人提供)

──ロイター通信で思い出深い仕事があれば教えてください。

笠井:
ロイター通信時代には本当に多くの経験をさせてもらいました。「子どもの貧困」や「性暴力問題」などの社会問題を幅広く取材しましたし、北九州豪雨や東日本大震災から5年の節目の取材など災害の現場にも足を運びました。

ペン記者時代の思い出深い仕事の1つは、過激派組織「IS(イスラミック・ステート)」に殺害された湯川遥菜さん(享年42)の人物像に迫った記事です。

当時はISが暴力による恐怖でシリアやイラクを中心に勢力を伸ばしていました。各地で残虐行為を繰り返し、「従来の国家秩序を否定する過激派組織の台頭」ということで、多くのメディアは国際社会共通の脅威としてISの動向を報じていました。

そんな中で、湯川遥菜さんがシリアで拘束されたというニュースが飛び込んできました。取材当時はまだ安否不明の状態だったのですが、「湯川さんがなぜシリアの紛争地帯に身を置いていたのか」と疑問に思いました。そして、湯川さんの親族や知人、ブログなどをたどると、湯川さんが人生の再出発を探りつつ、海外に夢を追い、紛争地での「生きがい」に辿り着いたという人生の軌跡が見えてきました。

笠井さんがロイター通信時代に取材執筆した湯川遥菜さんに関する記事

ISは当時、アメリカ人らを殺害する様子を写した動画を次々に配信していました。湯川さんは2015年1月、フリージャーナリストの後藤健二さんと共に殺害されてしまいました。ロイター通信東京支局の記者として、湯川さんの軌跡を世界に伝える仕事は大きな意義があったと考えています。

──外資系メディアは世界に日本のことを伝える仕事ですが、その意義はどのように捉えていましたか。

笠井:
日本のメディアとはオーディエンス(読者、視聴者)の規模が違います。英語でニュースを配信すると、全世界の人に届くわけです。国内向けのニュースだけにとらわれず、海外の人に本当に知ってほしいニュースは何かを考えて仕事をしていました。

全世界の人に届く分、プレッシャーも大きなものでした。国際社会が日本に持つイメージに影響を及ぼす可能性があるので、偏見や先入観に基づいた発信ではなく、必ずファクト(事実)に基づいたニュースにしようと常々考えていました。

後編(12/18配信)では、ロイター通信記者として活躍していた笠井さんがなぜHRWへの転職を決めたのか。そして、記者時代に培ったスキルや知識が現在の仕事にどのように活きているのかに迫ります。


笠井 哲平(かさい・てっぺい)

【略歴】
1991年生まれ。早稲田大学国際教養学部卒業。カリフォルニア大学バークレー校への留学を経て、2013年Googleに入社。14年ロイター通信東京支局にて記者に転身し、「子どもの貧困」や「性暴力問題」をはじめとする社会問題を幅広く取材。18年4月より国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチのプログラムオフィサーとして、日本国内外の人権問題の調査や政府への政策提言を行っている。

ライター:韓 光勲(ハン・カンフン)

【略歴】
1992年大阪市生まれ。在日コリアン3世。2016年、大阪大学法学部卒業。2019年、大阪大学大学院国際公共政策研究科博士前期課程修了。2019年4月から2022年7月まで、毎日新聞で記者として働く。2023年3月から約1年間、韓国で留学生活を送った。現在、大阪公立大学大学院文学研究科博士後期課程に在籍。日本学術振興会特別研究員(DC1)。専門は社会学、朝鮮半島地域研究。2019年、大阪大学大学院国際公共政策研究科優秀論文賞受賞。2020年、スマートニュースアワード2020報道部門ベストコンテンツ賞受賞。JBpress、CINRA、『放送レポート』、『抗路』等で記事を執筆している。