がんで逝ったのは汚染された水を飲み続けたせいなのか…岡山県吉備中央町、全国初の自治体による血液検査を前に
8月31日午前4時すぎ、あたりはまだ薄暗かった。
和室に敷いた布団の中で、池本睦子さん(65)は目を覚ました。襖をはずして隣り合う八畳間のベッドには、末期がんの夫、武志さん(65)が横になっている。おはようと声をかけたが、反応がない。
あわてて2階にいる息子(42)を呼び、夫の手首に血圧計を巻いた。「E」。エラーを示す文字が出て、計測不能という。もう一度試すが、変わらない。口元に耳を近づけると、もう息づかいは聞こえなかった。
1カ月前、がんの進行度を示す腫瘍マーカーは正常値の500倍を超えていたが、体調は落ち着いていた。その後、カツ丼とラーメンを平らげて、訪問看護師を驚かせたこともあった。1週間ほど前には、玄関先まで歩いて出て、風にあたりながらタバコの煙をくゆらせた。3日前には、普通に言葉もかわせた。それだけに、思いがけない最期だった。
「膵臓がんです」
病気がわかったのは10カ月あまり前。腰の痛みを訴えて近くのクリニックを訪ねた夫は、大学病院での検査を勧められた。
昨年10月17日、大学病院に二人で出向き、医師と向き合った。
「膵臓がんです」
正式な診断名は「膵鉤部癌」。しかも「多発リンパ節転移」「多発肝転移」「多発骨転移」もあり、ステージⅣ。転移は胸椎、腰椎、骨盤、左肋骨にまで広がっていた。「切除不能」で手術はできず、2種類の抗がん剤を使った治療を効果がある限り続ける、と言われた。
あまりに突然のことで受け止めきれずにいると、医師からたずねられた。
「残された時間についてお知りになりたいですか」
説明を聞いただけで、そんなに長く残されていないことは明らかだった。「けっこうです」。夫はそのまま入院した。
その前日、突然、水道の供給が止められた。自宅のある岡山県吉備中央町の円城浄水場管内で、国の目標値の27倍ものPFOAが検出されていたことがわかったためだ。いつから汚れていたかはわからない。
「がんは汚染された水のせいだと思いたくなる」
1カ月ほどして、血液検査を受けてみないか、と知り合いから声をかけられた。20年以上、PFAS研究を続けている小泉昭夫・京大名誉教授がきて、採血してくれるという。
PFOAによる健康への影響について、腎臓がん、精巣がん、甲状腺疾患、潰瘍性大腸炎などのほか、脂質異常症(高コレステロール)との関連も指摘されているという。
池本さん自身も3年ほど前に高コレステロールと診断され、薬を飲んでいた。そこで血中濃度を調べてもらうと、PFOAだけで348ナノグラム(血漿1ミリグラム中)。日本人の平均値の174倍、検査を受けた27人のなかでもっとも高かった。
27人の平均値も、米ウェストバージニア州にある大手化学メーカーのデュポン工場周辺で最も汚染が深刻な地区に迫るようなものだった。
夫は入院中で検査を受けることができなかったが、こう漏らした。「がんは、(汚染された)水のせいだと思いたくなるな」。がんの家系ではなかったのに、夫の母親は6年前に卵巣がん、夫の父親も8年前に膀胱がんで亡くなっている。
集落ではあちこちで……
同じ集落を取材して歩くと、あちこちで「がん」という言葉を耳にする。いずれもPFOAとの因果関係が示されているわけではないが、50歳の女性は子宮頸がんと大腸がんの疑いあり、その父親(87)は食道がん。さらに、近くの男性は飼っていた3歳のウサギを昨秋、悪性腫瘍で亡くした。小さな体で毎日、水を500ミリリットルは飲んでいたという。
1キロたらずのところには、前立腺がんの夫と乳がんの妻の夫婦がいる。妻は11年前に発症して手術を受け、5年後に女性には珍しい膀胱がんが見つかった。さらに昨年になって、乳がんが再発。肺への転移も見つかり「末期」と診断されたという。
今年の正月、池本さんの夫は餅つきに笑顔を見せ、雑煮も食べたが、黄疸が色濃くでるようになった。5月のゴールデンウィークが終わると、これ以上、受けられる治療はない、と告げられた。緩和病棟を勧められたが、訪問看護を受けながら自宅で過ごすことを選んだ。
週に2、3回、自然療法を受けるために倉敷まで通った。抗がん剤で抜けた毛も戻り、調子はいいようだった。7月、家族3人で鳥取の温泉に泊まった。その後もう一度、夫婦ふたりで鳥取まで足を伸ばした。片道2時間半ほどのドライブを楽しんだ。
このままよくなっていくのではないか。池本さんはひそかにそう思っていた。でも、望みは絶たれた。
「すべてPFOAのせいというつもりもないし、因果関係はわかりません。ただ、まったく関係ないとは思えないのです」
提出されなかった健康調査票
夫が亡くなる直前、池本さんのもとに町から茶封筒が届いた。以前の研究者による血液検査とは違い、全国で初めて行政によって行われる血液検査のための健康調査票が入っていた。
血液検査については、環境省が実施に否定的な姿勢を続けてきた。
今年1月に開かれた住民説明会では、町の設けた「健康影響対策委員会」を代表して国立環境研究所の中山祥嗣氏が説明に立った。環境リスク・健康領域エコチル調査コアセンター次長と曝露動態研究室室長を兼ねるPFASの専門家だ。
「みなさんのご不安はよく分かります。可能性やリスクはすごく低い、だけど自分ががんになったら、それは0か1か、ということもよく分かります。ですが、医者としてみなさんの目を見てお話しするんだったら、『心配しないでよい』と言います」
住民の説得だけでなく、町にも事実上、圧力がかかった。山本雅則町長は「この間、環境省や岡山県から『(血液検査は)慎重に』と言われてきた」と打ち明ける。それでも町は実施に踏み切った。
対象は、円城地区の住民のほか、通勤・通学などで水を飲んでいた人なども含めた2千人あまり。希望者に対して、11月にも血液検査をする。その後、18歳未満のこどもからも採血する。町は健康影響についての分析を岡山大学と川崎医科大学に依頼し、長期的な健康調査と紐づけて観察する。
PFOAを高濃度に含んでいた水源はすでに切り替えられ、水道水はいまは汚染されていない。それでも、体に取り込んでしまったPFOAは長く残り続ける。美しい山間の町からPFOAの影が消えたわけではない。
池本さんの手元には、夫用の健康調査票が空白のまま残っている。
不安を抱える住民たち。スローニュースでは池本さんと同じように汚染された水を飲んでいた人たちが、去年11月に京大の研究者による血液検査を受けた結果を独自に明らかにしています。
諸永裕司(もろなが・ゆうじ)
1993年に朝日新聞社入社。 週刊朝日、AERA、社会部、特別報道部などに所属。2023年春に退社し、独立。著者に『葬られた夏 追跡・下山事件』(朝日文庫)『ふたつの嘘 沖縄密約1972-2010』(講談社)『消された水汚染』(平凡社)。共編著に『筑紫哲也』(週刊朝日MOOK)、沢木耕太郎氏が02年日韓W杯を描いた『杯〈カップ〉』(朝日新聞社)では編集を担当。アフガニスタン戦争、イラク戦争、安楽死など海外取材も。
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