「弾薬庫で泡消火剤を使用したことはない」はウソだった! 汚染の調査を求める東広島市と広島県の異例の要望に米軍は応じるのか
前回の記事では広島県東広島市の井戸水汚染の現状を明らかにした。汚染域に隣接する米軍・川上弾薬庫は大量の泡消火剤を処分していたが、関係はあるのか。行政が情報公開請求に応じない背景を明らかにする。
米軍が回答を全面撤回「泡消火剤を使用したことがない」はウソだった!
9月6日、PFAS汚染をめぐる米軍からの二度目の回答が公表された。東広島市と広島県による再三の要請にようやく応えた。
米軍は、周辺できわめて高濃度のPFAS汚染が見つかった川上弾薬庫の過去の記録を調べたところ、以下のことが判明したという。
1991〜2009年の間、PFOSを含む泡消火剤を使った訓練をしていた。
訓練はおもに基地北東部のヘリパット周辺で行っていた。
基地内で消火活動に使ったり、事故で泡消火薬剤が漏出したりした記録はない。
当初、「泡消火薬剤を如何なる消火活動及び訓練においても使用したことがない」としていた説明はまったくの嘘だったのだ。
18年にわたって繰り返された消火訓練により、泡消火剤はそのまま周辺に放出されていたことになる。
6日後、広島県知事はコメントを発表した。
<弾薬庫敷地内における環境調査の必要性がさらに高まったものと考えています>
その文面に「抗議」や「遺憾」など、知事がどう受け止めたかを示す言葉はないまま、以下のように締めくくられていた。
<国に対して(略)原因が弾薬庫内にあると考えられる場合の対応方針の公表など必要な対応の実施およびその公表を米軍へ働き掛けるよう求めて参ります>
米軍の弾薬庫となった経緯
東広島市八本松町にある弾薬庫の敷地は約260万平方メートル。東京ドーム5個分にあたる一帯は、かつて旧川上村宗吉の住民の所有地だった。接収したのは 旧海軍である。
「寝耳に水だったが、従うしかなかった」
そう語っていた祖父の言葉を伝える新聞記事を、小川憲作さん(77)はいまも持っている。
地元の史誌によれば、1940年6月、海軍呉鎮守府の主計大佐が小学校に住民を集め、「ここを買収して海軍の施設を造る。今年いっぱいで集落ごと立ち退くように」と告げたという。対象は44戸で、施設とは弾薬庫だった。
祖父は自宅だけでなく田畑や山林を手放さざるをえなかった。
記事によれば、戦後、弾薬庫には米軍が進駐したため、元地主たちは国に土地の「払い下げ」を求める活動を始めた。「将来、不用になったら、必ずや 国家は優先的に皆さんに返すだろう」と言っていた、主計大佐の言葉を信じていたからだ。
祖父は1951年、地元選出の故池田勇人衆院議員(後の首相)に嘆願書を手渡した。「今は無理だが、機運が熟せば力になる」。しかし、前年に勃発した朝鮮戦争によって、川上弾薬庫は米軍の重要な戦略拠点に組み込まれ、機運が熟すことはなかった。
その後、ベトナム戦争や湾岸戦争でも弾薬を供給し、極東有数の弾薬庫になった。21世紀になって突如、もちあがったのがPFAS汚染だった。
市と県の再三にわたる要請にも…
汚染が発覚した昨秋から、東広島市は広島県とともに、汚染源の調査などを米軍に求める要請文を3度にわたって出してきた。今年6月には、高垣廣徳・東広島市長と湯崎英彦・広島県知事が防衛省を訪ねて、要望書を直接、手渡した。
舞台裏を、政府関係者が打ち明ける。
「じつは汚染発覚からまもなく、市長は防衛省への訪問を求めたものの、防衛省が受け入れず、実現するまで半年かかったんです」
いずれにしても、米軍はようやく泡消火剤の使用を認めた。ただ、正確に言えば、漏出を認めたわけではない。
11月27日、広島県の湯崎知事は再び上京し、防衛省などの省庁を回るとともに、在日米大使館に足を運んだ。米軍ではなく、米政府の窓口である大使館に以下の点について直接、訴えた。
泡消火薬剤の保有と使用(時期・場所・量・漏出の有無等)についての詳細な調査の実施と公表
弾薬庫内ヘリパッド周辺における水質土壌調査などの実施と数値の公表
弾薬庫内に原因があると考えられる場合の対応方針の公表
PFAS汚染をめぐって地元の首長が在日米大使館に申し入れをしたのは初めてだろう。
広島県によれば、面会はおだやかに進んだというものの、米軍に「汚染源」であることを認めさせるようなやりとりはなかった。
米大使館のニューエン安全保障政策担当参事官はこう応じたという。
「住民の健康は非常に重要だということは理解している」
「難しい問題だからといって調査しないことにはならない」
はたして、言葉どおりに実態が明らかにされるのだろうか。
汚染をめぐって東広島市が負担した水質調査、水道管敷設工事などの費用は総計で約6千万円に上る(来年度見込み額含む)。
そのうえ、弾薬庫周辺の住民たちは自宅敷地内への水道管敷設のために計440万円の身銭を切っている。なにより、生活に欠かせなかった地下水をもう、口にすることは叶わない。
※前回の記事はこちらから
諸永裕司(もろなが・ゆうじ)
1993年に朝日新聞社入社。 週刊朝日、AERA、社会部、特別報道部などに所属。2023年春に退社し、独立。著者に『葬られた夏 追跡・下山事件』(朝日文庫)『ふたつの嘘 沖縄密約1972-2010』(講談社)『消された水汚染』(平凡社)。共編著に『筑紫哲也』(週刊朝日MOOK)、沢木耕太郎氏が02年日韓W杯を描いた『杯〈カップ〉』(朝日新聞社)では編集を担当。アフガニスタン戦争、イラク戦争、安楽死など海外取材も。
(ご意見・情報提供はこちらまで pfas.moro2022@gmail.com)