東広島市で飲まれていた井戸水はなぜ汚染されたのか? 「大量の泡消火剤を処分した」米軍・川上弾薬庫との関係は?
環境省が公表していない「目標値超えの汚染」とは
環境省は11月末、全国の水道水に含まれるPFAS濃度についての調査報告をまとめ、「現時点で目標値を超えるところはない」と発表した。これを受けて、あたかもPFAS汚染は収束したかのようにも受け取れる報道が相次いだ。
しかし、環境省が「集計中」という理由で公表していない数字がある。飲用に使われていた井戸の濃度だ。
PFAS汚染列島のなかでこれまでにもっとも高い濃度が出たのは、広島県東広島市の米軍・川上弾薬庫から約200メートル圏内にある井戸だ。
40年前から暮らしているという古老の住宅にある飲用井戸から15,000ナノグラム(1リットルあたり)、国の目標値のじつに300倍の濃度のPFOS・PFOAが検出されたのだ。
発端は昨年夏、広島市内を流れる瀬野川からPFASが検出されたことだった。上流にある東広島市は広島市から連絡を受けて、調べることにした。
その結果、川の上流、つまり川上弾薬庫のある集落あたりで最も高くなっていることがわかった。計12カ所の井戸のうち1カ所をのぞいて目標値を上回り、最高が前述の15,000ナノグラムだった。
米軍は「泡消火剤は使っていないが4年前に処分した」
衝撃的な数値が出たことを受け、東広島市が防衛省を通じて米軍にたずねたところ、問い合わせから約3週間後の今年2月に回答が返ってきた。
これまで泡消火薬剤を如何なる消火活動及び訓練においても使用したことがない
基地内外においてPFOS等の漏出を確認したことがない
泡消火薬剤については、2020年に約2200ガロン(約8300リットル)処分した
泡消火剤は一切保有していない
消火活動でも消火訓練でも泡消火剤を使ったことはないと否定しながら、大量の泡消火薬剤を4年前に処分したというのである。
これを受けて、東広島市は飲用井戸の使用中止を求め、代わりに水道管を敷設した。ただし、各戸につなげる個人の敷地内での工事費は住民が負担した。なにより、住民たちはもう地下水を飲むことがかなわなくなった。
自宅の井戸から10000ナノグラムの汚染が!
その一軒、道代さん(仮名、78歳)の自宅にも2本の井戸がある。市の調査で1本から1,300ナノグラムが検出された。
もう1本は飲用には使っていなかったため測ってもらえず、自費で業者に依頼したところ、5桁の数字が出た。
<10,000ナノグラム>
炊事、洗濯、風呂、庭の水やりまですべて井戸水でまかってきただけに、衝撃は大きかった。活性炭による除去はできないかと水道業者にたずねると、こう言われた。
「活性炭で取れるのは8割ほどなので、どうしても2割ほどは残ってしまう。濃度にすると2,000ナノグラムということになります」
活性炭を使ったとしても、なお国の目標値の40倍もの汚染が残ると聞き、あきらめた。
「米軍のほかに汚染源は考えられないのに…。また、水を奪われてしまった」
思い浮かんだのは、原爆投下直後、水を求めて川に殺到した人々のことだった。
道代さんは1942年春に広島市内で生まれ、原爆が落ちたときは3歳だった。実家は原爆ドームから川をはさんで300メートルほど離れたところにあった。
ただ、印刷業を営んでいた父は、出張で広島を離れていた。道代さんも母に連れられて福岡の祖父母の家に行っていて難を逃れた。翌日、母とともに広島に向かうと、一面の焼け野原で鉄道も止まっていったため、再び福岡へ戻った。
それからしばらくして、当時、広島市内にいたという叔父が父に連れられて福岡にやってきた。布団に横たえられた叔父の裸足の足の裏は真っ黒で、雑巾で拭いても落ちなかった。叔父はまもなく息を引き取った。
原爆という名前を知ったのも、詳しい経緯もあとから聞かされた。ただ、焦げた足の黒さだけははっきりと覚えている、という。
1972年、夫ともに川上弾薬庫近くに移り住んだ。水道が通っていなかったため井戸を掘った。その後、自宅を建て替えたときに、もう1本も掘った。
「うちの井戸は、亡くなった主人が残してくれた財産だと思っていました。水が、ほんとにおいしいんですよ」
その飲み水が汚された。でも、米軍は、消火活動も消火訓練もしていないという。ではなぜ、8200リットルもの泡消火剤を処分したのか。そもそも、なぜ大量の泡消火剤を保有していたのか。
誰が情報公開を止めているのか
疑問に思った私は、今年4月、PFAS汚染をめぐる中国四国防衛局とのやりとりなどに関する文書の開示を東広島市に求めた。
しかし、1カ月たっても反応がない。問い合わせると、担当者は「市内在住でないため『情報公開』ではなく『任意的公開』の対象となりますが、これには回答期限が設けられていないため、まだ準備できていません」という。
7月になって、ようやく回答が届いたものの、すでにホームページで公開されている資料しかなかった。
再検討をうながし、8月5日に東広島市役所を訪ねた。だが、開示されたのは1枚だけ。「現在、確認中の公文書は別途回答する」と伝えられた。その理由をたずねると、「関係機関に照会しているため」という。
照会が必要な相手は限られる。防衛省が止めているのか、米軍が認めないのか。いつ開示されるかの見通しをたずねても「お答えできません」と繰り返すばかりだった。
それから1カ月ほどして、なんの前触れもなく「広島県・市町共同利用型電子申請システム」からメールが届いた。
開示文書が添付されていたが、中国四国防衛局との間で交わされたメールの内容は大半が黒塗りされていた。東広島市が開示の是非について照会した中国四国防衛局の意向と見られる。
じつは、その1週間前、防衛省の四国中国防衛局の担当者が東広島市を訪れていた。米軍から得た2度目の回答を伝えるためだった。
説明を受けた東広島市の担当者は驚いた。その内容が7カ月前のものとは一変していたからだ。詳しくは次回報告する。
年の瀬を迎え、今年のノーベル平和賞が「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」に贈られた。授賞式でのスピーチで、代表委員の田中熙巳さんはこう訴えた。
<1994年12月、(略)「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います>
米軍からもたらされた被害に対し、国はなにもしない。原爆による被害と同列に論じることはできないが、PFAS汚染をめぐる国の姿勢はいまも変わらないように思える。
(次回につづく)
諸永裕司(もろなが・ゆうじ)
1993年に朝日新聞社入社。 週刊朝日、AERA、社会部、特別報道部などに所属。2023年春に退社し、独立。著者に『葬られた夏 追跡・下山事件』(朝日文庫)『ふたつの嘘 沖縄密約1972-2010』(講談社)『消された水汚染』(平凡社)。共編著に『筑紫哲也』(週刊朝日MOOK)、沢木耕太郎氏が02年日韓W杯を描いた『杯〈カップ〉』(朝日新聞社)では編集を担当。アフガニスタン戦争、イラク戦争、安楽死など海外取材も。
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