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【スクープ】日航ジャンボ機墜落39年目の新証言!「エスコートスクランブル要請」はなぜ記録から消されたのか

単独の航空機事故としては世界最大の520人の犠牲者を出した1985年の日航機墜落事故から8月12日で39年がすぎた。現場となった群馬県・御巣鷹山ではこの時期、慰霊に訪れる人が絶えない。一方で、インターネットなどでは事故機の捜索や事故原因をめぐり、デマも混ざったさまざまな言説が飛び交っている。

スローニュースでは昨年、事故当日に航空自衛隊のレーダーサイトで当直司令官を務めていた元自衛官が、緊急事態を受けて前例のない「民間機へのエスコートスクランブル」によって救助をしようと上申していたことを報じた。エスコートスクランブルとは、自衛隊機がスクランブル=緊急発進をして、事故機をエスコートする、つまり、随伴して飛行しながら助言をすることだ。これまでの政府答弁にはなかった新たな証言で、事故機を誘導したり、早期発見したりすることができた可能性が浮かび上がった。

その後の取材で、この「エスコートスクランブル」について、実は事故機と交信していた運輸省の東京航空交通管制部(東京ACC)からも自衛隊に要請が入っていたことが新たに判明した。事故当時、航空自衛隊 入間基地で全国の救難情報を集める中央救難調整所(入間RCC)で当直員を務め、実際に東京ACCとの交信をしていた元自衛官が、初めて証言した。

佐藤 等/取材協力 宗澤俊郎、Y・A


「また起きたのか!」当初は自衛隊機と民間機の事故を想像した

証言したのは、当時1曹だった沼田正巳氏(80)。定年までのほとんどをRCCで勤め上げた救難のスペシャリストだ。

元自衛官 沼田正巳氏(撮影:佐藤等)

沼田氏は事故が起きた8月12日に、空自入間基地内にあったRCCの作業室で、午前8時から翌8時までの24時間の当直勤務に当たっていた。部屋には海上自衛隊の救難連絡員も1人。緊急事態発生の一報が入るまでは、いつもと変わらない時間が流れていた。

午後6時34分ごろ、管制指令台(コンソール)の信号ベルが鳴りだした。中部航空方面隊の防空管制所(ADCC)からの電話だ。受話器を取ると警戒管制員が告げた。

「エマージェンシー機、日航ジャンボ操縦系統故障。位置は……」

すぐに、航空幕僚監部運用課に報告し東京ACCに問い合わせた。

「乗員・乗客524名。ドアの調整がきかないようで、尾翼の方らしい。詳しいことは不明」

沼田氏は岩手県雫石町の出身で、1971年に雫石町上空で起きた全日空機と自衛隊機が衝突し、乗客乗員162人全員が死亡した「全日空機雫石衝突事故」の時もRCCで勤務に当たっていた。2度も大きな航空機事故の任務を経験してしまった。「最初は『また起きたか』と思った」という。

沼田氏が当直をしていた航空自衛隊 入間基地。この中に全国からの救難情報を集める中央救難調整所=入間RCCがある(入間基地のサイトより)

その後の20分は、ADCCから位置情報を収集したり、空自百里基地の救難隊に情報を伝達したりするなどを行った。

「エスコート機を上げてくれ!」

午後6時56分、今度は東京ACCから連絡がきた。

「重大な状態にある。パイロットは何か叫んでいるが、よく分からない。エスコート機を上げてもらいたい」

沼田氏の知る限りでは、民間機へのエスコートスクランブルの要請は自衛隊史上、初めてだった。受話器先の声も慌てている。時間はなさそうだ。「すぐに(救難機を)上げないといけない」。即座にADCCに伝えた。

ただ日航機の機影がレーダーから消えたのはこの要請とほぼ同時刻の午後6時56分だった。

午後7時、「ターゲット、ロスト」と再び東京ACCから連絡が入る。「ロストと聞いて墜落したとしか考えられなかった」と思ったという。実際、この時点で日航機は墜落していた。

ADCCからF4の2機がスクランブル発進したと連絡を受けたのは午後7時3分だった。「間に合わなかったか」。沼田氏はショックで呆然となったと振り返る。その後のことはあまりよく覚えていない。

「もう少し早くエスコートスクランブルの要請があれば、とも思う」

墜落現場での自衛隊の捜索

政府答弁には存在しないエスコートスクランブルの要請

今回、防衛省が事故の対応についてまとめた政府答弁の想定問答集を情報開示請求で入手した。それには18時57分に事故機がレーダーから消えたことや、それを受けて19時1分にF4が緊急発進した経緯について書かれているが、エスコートスクランブルの要請があったことについては触れられていない。他の答弁書にも見当たらない。

政府答弁資料より

空自峯岡山分屯基地(千葉県、通称「峯岡山レーダ―サイト」)で当時、当直勤務をしていた吉田勝氏(85)の証言で、自衛隊の現場でもエスコートスクランブルの実施を模索していたことも分かっている。(スローニュース 2023年8月15日の記事を参照のこと)2つの現場でエスコートスクランブルが検討されていたのだ。なぜ日航機が墜落する前にできなかったのか。

エスコートスクランブルができるチャンスはあった

沼田氏と吉田氏の証言から、エスコートスクランブルに関する事実関係を時系列に並べてみよう。吉田氏が日航機の緊急信号を受信したのは午後6時26分。操縦不能の「アンコントロール」と聞いたのは、その数分後。さらに数分後に、吉田氏は上官にエスコートスクランブルを上申していた。

ここで、エスコートスクランブルを実施する最初のチャンスがあった。

新証言と政府答弁資料などをもとに作成(制作:内田惟志)

さらに東京ACCから、沼田氏がいた入間RCCにエスコートスクランブルの要請があったのは午後6時56分。レーダーロストとほぼ同時刻のことだった。

結局、空自がF4戦闘機2機を百里基地からスクランブルをさせる命令が出たのは墜落後の午後7時1分。離陸はその3分半ほど後(当時の加藤紘一・防衛庁長官による国会答弁)だ。

政府はスクランブルが迅速に行われたと強調しているし、確かにF4のスクランブルについては評価する声もある。背景には今回の新証言で明らかになった航空管制の側からの要請も影響したかもしれない。ただ、一刻を争う事態のなかで、その前にチャンスがあったことを、証言は示唆している。

スローニュースでは、2つの重要な新証言と、新たに開示された公文書などから、なぜエスコートスクランブルができなかったのかを検証しています。

佐藤 等(さとう・ひとし)

地方紙記者。警察や自治体、自衛隊の取材を担当し、調査報道を長く続ける。