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原爆製造にも使われていた「テフロン」開発した科学者は36年前に初来日した際、何を語ったのか

二つの原爆が投下されてから79年になる。

長崎に落とされた原爆の製造に関わっていたのが、いまやPFAS汚染の代名詞ともいえる米大手化学メーカーのデュポンだった。その過程では、直前に発見されたフッ素樹脂の「テフロン」も使われたという。

戦後、民生品に欠かせない物質としてデュポンの経営を支える生命線となったテフロンは、のちに深刻な健康被害や環境汚染を引き起こすことが明らかになり、21世紀には経営を脅かす爆弾へと変わった。

日本を訪れていた「テフロン」開発者

「魔法の物質」の発見から50周年にあたる1988年、生みの親であるデュポンの科学者、ロイ・プランケット博士は静岡にある清水工場を訪れた。

78歳にして初めて日付変更線を超えたという博士の姿をとらえた、稀少な記録映像が手元にある。

それは、歓迎会が開かれた老舗料亭で対面する場面から始まっている。

デュポン側はプランケット博士夫妻ともう一組の夫妻の計4人。迎える工場関係者8人とにこやかに握手をかわし、豪華な料理が並んだテーブルを囲む。

プランケット博士は白髪で黒縁メガネ、ワインレッドの半袖シャツとズボン姿。歓迎ムードに包まれるなか、ビールで乾杯する。まもなく、日本側の紹介が終わると、通訳を兼ねる幹部社員がこう持ちかけた。

「みんな、あなたの声が聞きたいので、簡単な自己紹介をしてもらえませんか」

プランケット博士はいまさら私に自己紹介させるのか、というように一瞬、怪訝な表情を浮かべるものの、口を開く。

アイルランド出身で、マンチェスター大学に進んだものの経済不況で仕事がなかったため、すでに渡米していた父親を追いかけるようにアメリカへ渡った。その後、話は魔法の物質を見つけたときのエピソードへ移っていく。

失敗したはずの実験で発見

映像には、談笑するほかの出席者たちや給仕する女性の声などが重なったり、編集によって一部が切り取られたりしていることもあり、聞き取りづらい。そのため、デュポンによるPFAS汚染を克明に描いた『毒の水』(ロブ・ビロット著)から補う。

同書によると、入社2年目、27才だったプランケット博士は、新しい冷媒を見つける任務を与えられていた。小さなスチール管に、TFEと呼ばれるガスを入れたが、何も起きなかった。試験管を逆さまにして振ると、白い粉が雪のように落ちてきた。実験が失敗したことがわかり、やり直さなければ、と考えたという。

Image by Bruno from Pixabay

念のため試験管を切断すると、内側にはなめらかで滑りやすい物質がついていた。実験室のノートにこう記した。

<高分子化合物と思われる白い個体が得られた>

調べてみると、水によって腐ったり、膨らんだり、溶けたりしない。日光で分解されない。カビや真菌も発生しない。他のプラスチックが解ける温度でも持ちこたえる。

<プランケットは失敗したはずの化学実験で、偶然にもテフロンを発明したのだった>

清水の宴席を写した映像の中で、その日付をプランケット博士は誦(そらん)じてみせた。

「1938年4月6日」

後半は、翌日に開かれた工場内の会議室でのセレモニーを映している。

グレーの背広に身を包んだプランケット博士は、20人ほどの従業員たちを前に、あらためて開発秘話を披露した。その後、薄紙に包まれた額を取り出すと、工場の代表者に手渡した。

「あのとき、つけていた研究用の記録ノートです」

偶然、魔法の物質が生み出されたときのノートのコピーが額装され、テフロンの発明50周年を記念して贈呈されたのだった。

テフロンの公式サイトは現在、ブランケット博士のことを次のように紹介している。

<世界中の科学界、学術界、市民社会がプランケット博士の貢献を広く認めています。1973年にはプラスチック業界殿堂(Plastics Hall of Fame)、1985年には全米発明家殿堂(National Inventors' Hall of Fame)に殿堂入りし、トーマス・エジソン、ルイ・パスツール、ライト兄弟といった名高い科学者・イノベーターと肩を並べています>

戦争のたびに成長した化学企業

この2年前に刊行された『デュポン経営史』(小沢勝之)によれば、デュポン社は1802年にアメリカで火薬製造会社として創業し、南北戦争をへて、総合化学メーカーへと脱皮する。平時には、防湿性に優れた「セロファン」や丈夫な合成繊維「ナイロン」などを生み出し、第一次世界大戦や第二次世界大戦など、戦争によって業績を伸ばしてきた。

<第二次大戦では、弾薬供給のほかに、パラシュートなど大量の戦需品を納入し、また政府の「マンハッタン・ディストリクト」(原子爆弾製造計画の暗号名)に参画して世界最初の核兵器製造に成功するなど、デュポン社が第二次世界大戦で得た利益総額は7億4千万ドル、じつに第一次世界大戦の3倍以上にも達したのである>

戦争のたびに潤い成長する化学企業は、いつしか「死の商人」と呼ばれるようになる。

1923年に完成したデュポン・ビル 2015年までデュポンの本社があった

同書によると、挙国一致体制が敷かれるなか、デュポンには1942年、秘密の新兵器用の原料を大量に生産するための工場の建設・運営が依頼される。このとき、デュポンは二つの条件を示したという。

「この計画に対して特許権を取得することはしない」
「手数料は年額1ドル」

デュポンが損得を無視した「愛国者」の態度を示したのは、成長が見込まれる原子力産業にいち早く関わることで技術上の機密やノウハウを手にすることができると踏んだからではないか、と記されている。

原爆に使われるプルトニウム製造に不可欠だった物質

西海岸のワシントン州ハンフォードに、プルトニウムの製造工場を建設したデュポン。しかし第二次世界大戦における同社の貢献は、それだけではなかった。前出の『毒の水』には、次のように記されている。

<プルトニウム製造過程で使われた腐食性の高い化学物質はパッキンやシールを腐食させたが、テフロンだけがびくともしなかった。
 戦時中、デュポンのテフロン製品は全て政府の使用に割り当てられていた。そのほとんどはマンハッタン計画に使われた。デュポンのプルトニウムが「ファットマン」原子爆弾として長崎上空で炸裂した頃、デュポンはすでに平時操業計画を練っていた>

そのなかには、PFAS汚染の震源地ともいえるウェストバージニア州の工場計画もあったという。

ウェストバージニア州にあるデュポンの工場(2023年9月)

ここで、プランケット博士が見つけたテフロンが安定的に製造できるようになったのは戦後のことだ。大規模生産を可能にしたのが、当時まだ知られていなかったPFOAだった。

その後、その用途は焦げつきにくいフライパンの加工をはじめ、「台所から宇宙まで」と言われるほどに広がった。同時に、深刻な汚染を撒き散らすことになる。

プランケット博士が清水工場を訪れた1988年時点で、デュポン社はすでに、社内の研究所の動物実験から、PFOAが深刻な健康被害を引き起こすことがわかっていた。その危険性が公にされるのは2000年以降になってからだった。

プランケット博士はどのように認識していたのだろう。40分ほどに編集された清水工場訪問の記録映像のなかで、伝説の「ミスター・テフロン」が魔法の物質がもたらす影について言及する場面はなかった。

プランケット博士が訪れた清水工場で何が行われていたのか。スローニュースでは工場内の機密文書を入手、詳しく伝えている。

諸永裕司(もろなが・ゆうじ)

1993年に朝日新聞社入社。 週刊朝日、AERA、社会部、特別報道部などに所属。2023年春に退社し、独立。著者に『葬られた夏 追跡・下山事件』(朝日文庫)『ふたつの嘘  沖縄密約1972-2010』(講談社)『消された水汚染』(平凡社)。共編著に『筑紫哲也』(週刊朝日MOOK)、沢木耕太郎氏が02年日韓W杯を描いた『杯〈カップ〉』(朝日新聞社)では編集を担当。アフガニスタン戦争、イラク戦争、安楽死など海外取材も。スローニュースで『諸永裕司のPFASウオッチ』を毎週連載中。(https://slownews.com/m/mf238c15a2f9e
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