日本フェンシング 世界最強への軌跡(上)「太田雄貴を見出した革命児」〜形より実践重視、外国人コーチ招聘で変わった選手の意識
足立真理
相次ぐメダルラッシュー。
パリ五輪でのフェンシング日本代表の歴史的な快挙は、ファンを大いに沸かせた。加納虹輝が男子エペで、個人種目としては日本初の金メダルを獲得。団体でも男子フルーレが金、エペが銀、女子団体もフルーレ、サーブルで銅と、合計5つのメダルを手にした。本家フランスをも破る偉業を達成した。
筆者もかつて、フェンサー(=フェンシング選手)だった。
白いリボンの騎士のような先輩方に憧れ、高校からフェンシングを始めた。1980年代のことだ。卒業生やコーチに日本代表選手がおり、自分も「他の競技よりはインターハイに行ける確率が高いかな」という邪念もあった。
技術、戦略、相手の裏をつく攻略が面白くてはまり、留学先のアメリカの大学でもプレーを続けた。ただ、その当時の感覚としては、日本と世界の競技レベルの差は相当かけ離れていたように思う。
日本のフェンシング代表が初めて五輪に参加したのは1952年のヘルシンキ大会。半世紀以上を経て2008年、北京五輪で太田雄貴が悲願のメダルを獲得した。
競技人口が少ないマイナー競技だが、北京五輪以降、レベルは急激に向上し、今やメダル常連国としての地位を確立している。
国際舞台で日本フェンシングが躍進を遂げた背景には、選手たちの努力はもちろんだが、その裏に競技団体の変革がある。資金確保や外国人コーチの招聘など、世界を見据えた多角的な取り組みに奔走した人々がいた。
中でも黎明期にあって、周囲の反対を押し切り、信念を曲げず一心に突き進んだ革命児とも呼べる存在がいた。齊田守(56)である。
日本代表の青木雄介監督が「炎のように熱い人」と絶賛する齊田のリーダーシップは、どのようなものだったか。世界のトップレベルに導いた手腕について探ってみたい。(敬称略)
「スポーツのチェス」に次世代続々
「オンガルド(構えて)、エヴプレ(準備はいい?)アレ!(試合始め)」
2024年8月下旬、東京・練馬にある「NEXUSフェンシングクラブ」では、子どもたちのにぎやかな声が響いていた。パリ五輪で敷根崇裕、永野雄大(男子フルーレ団体・金)、見延和靖(男子エペ団体・銀)という3名ものメダリストを輩出した名門クラブである。小学生向けのレッスンに20名近い生徒が集まっていた。
レッスンはではまず軽く準備運動を済ませると、コーチは集めた子供たちに攻撃の種類や形について問い始めた。
「この時の攻撃方法は正しい?どっちが勝ちなのかな?」。すると、子どもたちは次々と手をあげた。「Kくんが最後に剣を叩いて、リポスト(防御して突く)しているから、Kくんの勝ちだと思う」。ある子の答えに、「いや、Sちゃんが先にアタック権(攻撃の権利)を持っていたから、Sちゃんの方の勝ちだと思う」とすぐさま反論が出た。
子どもたちに考えさせる問いを投げかける。フェンシングが「スポーツのチェス」と言われる所以がここにある。
瞬発力や体力が必要なのはもちろんだが、フェンシングは単に先に突けば良いというものではない。さまざまな攻撃のパターンの組み合わせやステップ使い、相手の裏をかくなど攻略法は無数にある。
フェンシングは通常、リーチの長い(腕の長い)高身長な選手ほど有利だとされるが、日本選手はそのハンデを巧みな戦略でカバーしている。頭脳戦で秀でているのだ。
レッスンは実践に移った。ちょうどその時、金メダリストの永野雄大がふらりとレッスン場に現れ、子どもたちの目が一層輝いた。
「わぁ、雄大さんだ!一緒にプレーしたい」子どもたちが競うように試合形式のレッスンをねだる。ちょっと照れたように永野もそれに応え、剣を交える。「お!その攻め、早くていいねえ。」 オリンピアンに褒められた子どもは嬉しそうだった。
ここのクラブには今、体験や入会を希望する問い合わせが相次いでいる。