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原子炉・加速器で癌を治す 第4回 治験

取材・執筆:下山進

 BNCTはいよいよ薬事承認をめざす治験に入る。まずは脳腫瘍と頭頸部癌がその対象だ。頭頸部癌は腫瘍の縮小を治験の主要評価項目におけたが、脳腫瘍は無理だった。

 アルゼンチンでBNCTを国家的プロジェクトとして進めようとしていたアマンダ・“ マンディ”・シュイントは、2000年代の国際学会での日米の研究者の対決を今でも思い出す。

 2000年代を通じてアメリカの研究者は日本のやりかたに常に批判的だった。

 彼らの批判のポイントのひとつは、日本の臨床研究は、背景がそろっていないので、評価のしようがないということだった。

 ある日本人の研究者が学会で発表した際に、アメリカの研究者はこう批判した。

「その臨床研究は無意味だ。なぜなら、臨床研究に共通のプロトコルをもってやっているわけではないから。ばらばらにやっている臨床研究のひとつの事例がいくら集まっても、再現不能だ。再現性がない。あなたたちには共通のプロトコルが必要だ」

 このときの日本の研究者の切り返しはこうだ。

「われわれは、患者一人一人のプロトコルを持っている」

 なんという素晴らしい答えだろうとマンディは思った。マウスではない人間の患者なのだ。まずは患者を救うことが第一という日本人の医者の矜持を感じた。

 そしてなんといっても臨床例の数で日本はアメリカを圧倒していた。2013年までに、日本は京都大学原子炉実験所だけで、416例のBNCTの実施例を数えていた(日本全体では、539例)。アメリカは、1950年代からのものを数えても、99例。しかも2000年以降は実施例がなかった。

 たしかに共通のプロトコルはない。たとえば2001年12月に世界で初めて頭頸部癌の照射をおこなった67歳の女性は、合計5回照射を行った。これは、腫瘍が一回に中性子をあてる範囲を超えるぐらい大きかったために、最初は二度にわける必要があったことや、退縮不良の箇所にあてる必要があった(3回目)り、それでもその照射範囲の外から、腫瘍が増殖してきたことを認めたために照射(4回目、5回目)をしたということになる。

 これはみな患者のためだった。

 京大原子炉実験所で行った416例のなかには、それまでの脳腫瘍や悪性黒色腫にくわえて、肝腫瘍 、乳・胸壁腫瘍、肺がん、眼窩腫瘍、中皮腫もあった。たとえば中皮腫の患者では、腫瘍が神経を圧迫し、患者はモルヒネも効かないほどの苦しみを味わっていた。BNCTをやっても助かるものではなかったが、しかし、腫瘍を小さくして痛みをとりのぞければと照射をし、患者は痛みの苦しみからは解放されることになったという。患者の死亡は防ぐことはできなかったが、患者のために臨床研究という名の治療を行っていたのである。

 しかし、これが治験となると違う。アメリカの研究者がいうように、条件を厳しく設定し、その目標である治験の評価項目を定めなくてはならない。それをクリアできるかできないか、その一点だけを規制当局は見るのである。

アルツハイマー病の治験との違い 

 このBNCTの取材を始めた当初、前著でアルツハイマー病の研究の取材と執筆にどっぷり漬かっていたため、がんの治験がアルツハイマー病とはまったく違うことがなかなか理解できなかった。

 たとえば、後に承認されることになる頭頸部癌へのBNCTの適用。その治験のフェーズ2は、21名の腫瘍の縮小を評価項目にして行っている。対象となっている再発した頭頸部癌というのは、たいへん厳しい癌で、その時点で、化学療法も手術も駄目で、放射線療法も、限度いっぱいあびてもうできないという患者だ。2001年12月の女性の劇的な治癒事例を見ているだけに、なんで、こんな厳しい例ではなく、初発の癌でやらなかったのだろう、と考えてしまったのである。

 その理由はこういうことだ。

 アルツハイマー病は、治療法がない病気だった。90年代後半にエーザイのアリセプトという薬が承認されたが、これは対症療法薬で、病気の進行そのものを止めるわけではない。だから、プラセボ(偽薬)群と実薬群にわけて治験をすることが容易だった。患者や家族としたら治療法がないのだから、治験に入って実薬にあたれば、という期待があるので治験に入るのだ。そしてフェーズ3で1500人規模の治験をふたつやってその結果をもって承認申請に進める。

 だが、がんの場合は、手術、抗がん剤、放射線などの標準治療がすでにある。それで助かる患者は、わざわざ新しい治療法を試す治験には入らない。

 だから、新しい治療法の場合、難しいケースでシングルアームという方法をとる。シングルアームとは、比較対象群をもうけない、ということである。大規模なフェーズ3をやらずとも、フェーズ2の20人規模の結果で承認申請までもっていける。しかし、比較対象群をもうけてないということで、圧倒的な成績を収めることが求められるのだ。

 また癌の場合は、部位別にまったく違う種類の病気として、治験も別々に行い部位ごとに承認をとる必要があった。

膠(にかわ)のように正常細胞に根をはる

 最初に治験に入ったのは、脳腫瘍に対する適応だった。脳腫瘍のうちでも、グレード3とグレード4の悪性神経膠腫というもっとも難しい患者を対象にする。グレード4のものは悪性膠芽腫と呼ばれた。

 フェーズ1、フェーズ2を通して治験の責任医師、調整医師となったのは、大阪医科大学脳神経外科学教室の宮武伸一である。

 宮武は、小野と同じ京都大学医学部の出身だ。小野が放射線治療からBNCTに入ったのに対して、宮武は、脳神経外科からBNCTに入った。

 宮武は、大学院生の時に、指導の教授から「脳腫瘍の担当の人間がいないから」と言われ脳腫瘍の担当になったのがきっかけで、この病気にのめりこむ。そして医局では、悪性脳腫瘍の担当になった。

 脳腫瘍のグレード3、4には治療法がない。

 画像をとると正常細胞とがん細胞の境目がわからない、膠(にかわ)を張り付けてとろうとした時のように、癌細胞が正常細胞に根をはっているように見えることから膠芽腫と名付けられた。つまり手術でとりようがないのである。「芽」という字は何にでも分化しうる悪性度の高いものものという意味がある。

 どうやっても癌細胞は残る。そして患者は死ぬ。

 まだ京都大学医学部の放射線科にいた小野公二にさそわれて、97年ごろから、BNCTに関わりだす。しかし、当時の照射は熱外中性子ではなく、熱中性子。中性子の届く深度は2.5センチ。また、第三回で紹介したBPAというホウ素化合物をつかっていなかった。開頭手術をして照射をしてもはかばかしい結果はでなかった。10数例をやったが、ことごとく効き目はなかった。

 だからBNCTも駄目だと宮武は考えていた。

 ところが、それが変わるのは、67歳の頭頸部癌の女性の患者が照射をうけた2カ月後の2002年1月に熱外中性子とBPAで、脳腫瘍の患者にその照射を行ってからである。

 画像でみると照射48時間後に、腫瘍がきれいに消えていたのである。

宮武伸一 (写真提供 宮武伸一)

画像診断は意味がない 

 2012年10月から始まった脳腫瘍の治験は企業主導治験だ。治験の費用は、医療機器としての承認をえようとする住友重機械工業、ホウ素剤として「ステボロニン」の承認をえようとするステラファーマの二社が出す。宮武によればステラファーマはフェーズ2で当初、腫瘍の縮小を治験の評価項目にすることにこだわったという。腫瘍の縮小であれば、BNCTを行ったあとの3カ月後の腫瘍の状態をみることでわかる。

 それだけ治験の期間が短くて済み、早く承認申請までもっていけるということだ。

 が、宮武はそれには反対した。というのは、脳腫瘍の場合、腫瘍の縮小を画像で把握するのは不可能だと宮武はわかっていたからだ。

 脳腫瘍の場合、BNCTを行うと、脳の壊死という問題がおこることはすでに述べた。1950年代から60年代の米国の臨床研究が失敗したのは、脳の壊死による患者の死という事態を招いたからだった。

 BPAというホウ素剤を使えば、癌細胞は健康細胞よりも3.5倍多くホウ素をとりこむので、死亡というようなことにはならないが、それでも脳細胞は放射能に対する感受性が強いので、軽い壊死は起こる。宮武は、アバスチンという抗がん剤を投与することで、この軽い壊死は治癒すると考えて、実際にそうしてきた。だが、画像上は、この壊死も腫瘍も同様にうつってしまうので腫瘍が大きくなったように見えるのだった。これを疑似進行(Pseudo-Progression)と呼ぶ。

 2002年1月の脳腫瘍の照射のケースも48時間後にいったん画像上の腫瘍は消えた。しかし、その後、画像上では腫瘍が再び勢いをもりかえした。が、これは実は放射線壊死だったことは、患者の死後の剖検をとってわかっている。

 頭頸部癌の場合であれば、腫瘍の縮小を主要評価項目における。が、脳腫瘍の場合はそれができない。

 宮武は、全生存期間を治験の主要評価項目にすべきだと主張した。治験に入り、照射をうけた患者がどれくらい照射後生きたのかを、期限をくぎって確かめ、その平均値をとるのである。これが、本当の意味でその治療法の適否がわかる方法だ。

 が、ステラファーマは、早く結果をだすことにこだわった。それで、脳腫瘍のフェーズ2は、BNCT照射後一年の生存率を主要評価項目にすることになったのである。製薬会社側が、治験費用を出す企業主導治験であるので、治験のプロトコルの最終決定権は企業側にある。

「外科医は癌は切ればいいと思っている」

 脳腫瘍の治験に遅れること1年5か月、頭頸部癌の治験は、川崎医科大学の平塚純一を責任医師として2014年3月から始まった。

 川崎医科大学というのは岡山にある大学だ。平塚純一はもともと、神戸大学医学部で放射線医療を専門にしていた。同じ大学の皮膚科でBNCTをきりひらいていた三島豊の研究班に入ってBNCTと出会うことになる。

 平塚はBNCTを術後のクオリティオブライフの面から、なんとしても実用化したいと思うようになった。

 平塚が見せてくれたスライドで、足の裏にできた悪性黒色腫を外科的な手術で切除した患者の例があった。この患者は、たしかに外科的手術で、悪性黒色腫をとることができたが、足の裏の皮膚をとるだけで、その後歩けなくなってしまった。歩くと激痛が走るので車椅子を使うしかないのである。

 平塚はBNCTがなかなか進まない理由のひとつに、外科医に癌は切るのが一番という考えが根強くあるからだと考えている。

「なんでそんなものに高い金を出してやらなきゃいかんのか。手術でとってしまえばいいではないか」

 ということだ。しかし、平塚は手術の場合術後のクオリティオブライフが著しく落ちてしまうことがあることをよく知っていた。耳下腺の癌だと、手術でとることで、嗅覚が失われたり、唾が出なくなったりする場合がある。

 BNCTはそれを回避できる治療法だと考えていた。

 川崎医大は岡山大学の系列になる私立の医大だが、それほど大きな大学ではない。なのでこのような治験をやったことはない。しかし、平塚は、これまでの研究者人生をかけて、この治験に取り組むつもりでいた。

 フェーズ1は、9人の患者を対象にした安全性を主に見る治験だった。2012年の段階では、京大原子炉実験所にしか加速器はなかったので、川崎医大の耳鼻咽喉科を窓口にして、患者のリクルートを行い、岡山にある川崎医大から、患者を熊取にある原子炉実験所に運んでBNCTを照射した。

エビデンスがあるのか?

 ステラケミファの深田が19億円を出すことを決断した2007年当時には、京大原子炉実験所に、病院施設を併設する計画もあったのだが、結局それは無理ということになり、病院に併設した加速器の建設が待たれていた。

 そうでないと、頭頸部癌のフェーズ1のように遠方から患者を熊取まで運ばなければならないからだ。

 京大原子炉実験所がある大阪府が音頭をとる形で、2014年5月から 「BNCT(ホウ素中性子捕捉療法)実用化推進と拠点形成に向けた検討会議 」というものが開かれた。脳腫瘍の治験を行っている宮武伸一がいる大阪医科大学が手をあげる形で、附属病院に隣接するBNCTセンターを立ち上げようということになった。

 大阪医科大学の脳外科はいい。宮武がもともといるからだ。しかし頭頸部癌を担当することになる耳鼻咽喉科はこのBNCTセンター構想に猛烈に反対した。

 先頭にたったのは、耳鼻咽喉科の教授の河田了だった。

 河田は外科医。耳下腺癌の権威で、これまで207の手術の執刀例がある。

 検討会議では、すでに大阪医科大学にできるものという規定路線がひかれていた。しかし、そもそもこの検討会議のメンバーが、京大原子炉実験所の小野公二や川崎医大の平塚純一などもともとBNCTを研究者人生のほぼ大半をかけてやってきた人物で占められていることに河田は違和感をもった。自分の研究分野はかわいい。それはわかるが、はたして客観的なエビデンスをもとに物を言っているのかを慎重に見極める必要がある。

 大阪医科大学の耳鼻咽喉科はシビアな頭頸部癌(耳下腺癌)をこれまで扱ってきたわけだが、河田が最初に危惧したのは、医療経済的な問題だ。BNCTセンターをつくるとすれば、ハードの部分でも64億円かかるという。年間のランニングコストが数億円。それにみあうような患者がくるのか、ということだ。

 小野公二の会議での説明では、頭頸部癌は年間1万3500人の患者が生まれ、そのうち3分の1がBNCTの適用になる、とのことだった。最初に感じたのは、そもそもそんなに適応になる患者がいるだろうか、ということだった。

 河田は長年頭頸部癌の患者について見てきた。それだけに、この癌が、転移という問題を抱えていることをよくわかっていた。つまり局所で治癒したとしても、他の部分に転移してしまうということだ。そうなればBNCTをやっても意味がないということになる。

 また、小野が成功例として示した2001年12月の女性患者の件についても疑問をもっていた。担当していたのは阪大歯学部附属病院の口腔外科の人間、つまり歯科医だ。頭頸部癌の専門ではない。その担当医加藤逸郎の論文も読んでみたが、癌を組織学的にみた検討がない。そもそもほおっておいても7年は生存する種類の癌だった可能性もある。

 河田は「外科医が切ることだけを考えている」という批判をばからしいものだと思っていた。大阪医科大学の耳鼻咽喉科はベッドをもっている。だから、放射線、抗がん剤と手術を総合的に見てきている。BNCTは、画像では見えない癌も叩くというが、外科も他に癌細胞が散っている可能性があれば手術をしない。

 河田はエビデンスをもって医学は考えなければだめだという信念があった。このようなまだ承認されるかどうかも、患者数が見込めるかどうかもわからない治療法に64億円の金をかけていいのか、そう正直に会議では言った。

 しかし、すでに結論は理事長の中で決まっており、大阪医科大学に関西のBNCTの拠点がつくられることが決まったのである。

 竣工は2013年。完成は2018年。

 しかし、それでは実は頭頸部癌のフェーズ2には間に合わなかった。

河田了

川崎医大はフェーズ2に参加できず 

 当初頭頸部癌のフェーズ2は、フェーズ1をやった平塚純一の川崎医大がやることになっていた。川崎医大の耳鼻咽喉科を窓口にして、患者を岡山から大阪・熊取まで運んで京大原子炉実験所の住友重機の加速器で照射をするというやりかただ。

 これは企業主導治験なので、住友重機側がお金を出して治験実施会社を雇って、川崎医大側と調整しながらやることになる。

 しかし、平塚によれば、川崎医大の治験センターとこの治験会社がうまくいかず治験に入る前に話が壊れてしまった。

「うちの治験センターがあまりにうるさいことをいうから、治験会社のほうが音(ね)をあげてしまったんです。これまでうちの大学がうけてきたのは、実薬と偽薬を二重盲検試験で比較するといったごく普通のもの。患者を大阪まで運んで、そこで照射をうけてまた病院まで戻ってくるなんてことはやってなかった。だから治験後PMDA(医薬品医療機器総合機構)の検査が入ったらどうするとびびってしまった」

 実際住友重機械工業の佐藤岳実に確認すると、川崎医大の治験センターの女性の担当者が、「書類の一字一句になんくせをつけ『こんなことでは治験はできません』とだめだしを続けられた」のだという。治験会社の担当者二人が、まいって「(担当を)変えてほしい」とまで言うようになってしまったのだった。

「そこで、私と部下で川崎医大にいって『うちの不手際で申し訳ありません。もううちがやるのは無理です』とお断りしたんです」(佐藤)

このとき、住友重機が、治験をやることになっていた川崎医大を断ってしまうことができたのには理由があった。すでに、他で加速器を備えつけた病院の手当てがついていたからである。

 それが、福島県郡山市に本部を置き、一都一府四県で100以上の医療・介護・福祉施設を展開する医療グループの総合南東北病院だった。

ワンマン理事長の決断 

 総合南東北病院をここまで大きくしたのは、理事長の渡邊一夫である。渡邉のワンマン経営で、一糸乱れぬ統率をほこってきた。

 その渡邉は福島県立医科大出身の脳外科医だった。30年以上「365日24時間患者と向き合ってきた」なかで、外科医でありながら、手術の怖さを知るようになった。

 脳の手術は針の穴を通すほど精巧な技量がもとめられ、かつ細心の注意が必要だ。命を助けるはずのメスが、目や耳、歩行などの神経に間違って触ってしまうと、術後生活自体が困難になる場合もある。骨を削ってしまって外見が変わり術後外出できない、話せない等の後遺症が残ってしまう場合もある。手術は、命は助かっても患者のQOL(クオリティオブライフ)が著しく下がってしまう問題を常にはらむ。

 渡邉は外科医でありながら、なんとか開頭手術しないで治療することはできないか、ということを考えていた。

 まず2004年にガンマナイフを導入した。東京大学医学部附属病院が1990年に初めて導入した設備だが、渡邉はそれが欲しくてたまらなかったのだ。

 ガンマ線によって脳腫瘍や脳血管障害を治療する特殊な装置だ。さまざまな角度から照射するガンマ線を病巣に集中させることで、病巣以外の脳の大切な機能を残すことができる。

 2007年には陽子線治療装置の導入も決意し、翌2008年10月から、民間病院としては初の陽子線治療も開始している。陽子線治療装置ですべてのがんを治療できる訳ではないが、従来の放射線治療では照射できない部位の治療ができる。手術をしないので働きながら治療したいといった要望にも応じることができる。

 しかし、最後に課題として残ったのは、グレード3、グレード4という脳腫瘍のなかでも、何をやっても治らないタイプの癌の治療だった。

 渡邉は、米国で脳腫瘍に対するBNCTを行った草分けの研究者畠中坦がハーバードにいた時代にハーバードに留学していた古和田正悦(こわだ・まさよし)という研究者についていたことがあった。この古和田からBNCTのことを聞いたのが最初だった。

 しかし、原子炉での臨床研究の時代には、民間の病院ではどうしようもない。それが、住友重機が、京大の原子炉実験所と加速器を共同開発し、この加速器を使ったBNCTの治験を始めるという。脳腫瘍のグレード3、グレード4(悪性膠芽腫)を対象にして。

 2011年、福島を福島第一原発の事故が襲った。このことで、世界各国の原子炉を医療用に使うBNCTの運命は決まった。各国で原子力発電からの離脱の動きがおこり、医療用につかうなどとはとんでもないということになった。しかし、福島では、政府が巨額の震災復興資金を用意したことで、加速器の道が開けるのである。この震災復興資金の中に「医療関連産業集積プロジェクト技術開発等補助金」という項目があったのだった。これに「福島にBNCTの拠点をつくる」として申請することを渡邉は決断した。

 この予算申請がとおり、43億円の助成金をうけることになった。残りの40億円を病院を運営する財団が負担し、2013年には着工され、翌年には住友重機の加速器をそなえた「南東北BNCT研究センター」が完成していた。

「官公立の病院と違って私がやりたいと思えば、誰の許可も取らずに機器を導入することも、施設を拡充することもできる」(渡邉一夫)ということだ。

 頭頸部癌の治験のフェーズ2は、この「南東北BNCT研究センター」が一手にひきうけることになる。

 その開始は、2016年6月。

 大阪医大の宮武伸一が責任医師を勤めた脳腫瘍のフェーズ1は無事安全性を証明し、2016年2月にフェーズ2に入っていた。こちらのほうは、大阪医大、国立がんセンター、京大原子炉実験所、総合南東北病院の4者の共同治験となった。宮武はその4者を調整する治験調整医師となった。

 治験の評価項目は、頭頸部癌と脳腫瘍でまったく違う。

 頭頸部癌のほうは、BNCT照射後、3カ月の腫瘍の縮小の度合いを治験の主要評価項目とし、脳腫瘍のほうは、1年後の生存率を主要評価項目においたのである。

つづく

証言者・主要参考文献

Amanda E. Schwint, 宮武伸一、小野公二、平塚純一、河田了、佐藤岳実、渡邉一夫

「医薬品製造販売承認申請書 添付資料 2、7、6 個々の試験のまとめ」 ステラファーマ

「脳腫瘍に対するBNCTの展開」 宮武伸一

“Boron neutron capture therapy using cyclotron-based epithermal neutron source and borofalan ( B10) for recurrent or locally advanced head and neck cancer (JHN002): An open-label phase II trial”

Katsumi Hirose , Akiyoshi Konno, Junichi Hiratsuka, Seiichi Yoshimoto, Takahiro Kato, Koji Ono , Naoki Otsuki, Jun Hatazawa, Hiroki Tanaka, Kanako Takayama , Hitoshi Wada , Motohisa Suzuki, Mariko Sato, Hisashi Yamaguchi , Ichiro Seto, Yuji Ueki, Susumu Iketani , Shigeki Imai , Tatsuya Nakamura , Takashi Ono, Hiromasa Endo, Yusuke Azami, Yasuhiro Kikuchi , Masao Murakami , Yoshihiro Takai, Radiotherapy and Oncology, FEBRUARY 01, 2021

冒頭のサムネイル Photo/Gettyimage