見出し画像

【文壇史発掘】「昭和の怪物」今東光が残した未公開書簡が語る川端康成、谷崎潤一郎との交友、そして「謎の一言」

ベストセラー作家にして、天台宗の大僧正でありながら、ときにはエロ坊主、失言政治家として悪名をとどろかせ、文壇、宗教界、メディアに君臨した「昭和の怪物」今東光(こんとうこう)(1898~1977年)。亡くなって半世紀近くがたつ今年、『今東光【全年譜】』が刊行されました。
川端康成、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴との書簡をはじめとする未公開をふくむ膨大な資料から、文壇史に新しい事実を発見した、執筆者で在野の今東光研究家、矢野隆司さんに、今回はじめてわかった今東光の日常、交友関係について、寄稿してもらいました。
                      

執筆:矢野隆司(今東光研究家)

今春、『今東光[全年譜]』を刊行した。直木賞作家で天台宗大僧正、参議院議員だった今東光(こん・とうこう)の生涯を生まれた日から書き起こし、死去した日までをなるべく克明に記録しようと試みた一冊である。

かつては毒舌和尚、エロ坊主の代名詞でもあった今東光。その経歴に裏打ちされた経験と知識の底知れぬ豊富さ、そして歯に衣着せぬ語り口は多くのファンを惹きつけ、かくなる筆者もその一人だったが、今となってはよほどの文学マニアか往年の東光ファンぐらいしか知る人もいない。すでにその小説などの作品群も書店から姿を消して久しい。

3年がかりで編纂した本書ではこれまで未公表だった資料類を駆使した年譜と発表作品一覧、対談相手一覧、出演した主なテレビ・ラジオ番組一覧、家系図、そして年譜中に登場する3200名に及ぶ人物索引を付した。

教師への暴力で中学を退学、『文藝春秋』創刊に参加

1898年横浜で生れた東光は父親が内外航路の船長だったことから幼時より日本各地の港町に転居。その後、神戸で中学に進学するが、女子学生との交際や教師への暴力などの問題行動から立て続けに退学となり中学中退のままで上京した。

当初は絵画の道に進むべく勉強を重ねたが関根正二、東郷青児を知って画業を断念、時期を合わせるように佐藤春夫、谷崎潤一郎、さらに芥川龍之介らの知遇を得たことから文壇への足掛かりを得た。

折しも東大入学前の川端康成とも知り合い、続いて菊池寛を知って『文藝春秋』の創刊同人として参加。古今東西の書から得た知識を使った創作類は新感覚派と呼ばれた。

菊池寛が文藝春秋創刊の際に同人に送ったオノト社製万年筆

しかし菊池と離反すると『文藝春秋』に対抗するように文芸誌を相次ぎ創刊したり、坂東妻三郎に請われその映画製作にかかわったりしたが、いずれも首尾を得ず左傾化。しかしそこでも居場所を失い、突然出家し天台宗僧侶となった。東光33歳であった。

司馬遼太郎を見出した文化人タレントの先駆け

出家後は、天台宗における僧侶の地位改革に取り組む一方、和漢の宗教書を閲読。だが結果を出すには至らず、次に易学研究に没頭した。

戦後、大阪近郊の寺院住職に任ぜられて移住。そこで裏千家機関誌に連載した時代小説「お吟さま」で直木賞を受賞すると「奇跡のカムバック」と評され、それまで蓄積していた創作意欲を一気に噴出するように小説、随筆などを相次いで発表した。

その作品は主に「河内もの」と呼ばれる大阪・八尾に題材を取った創作類で、特に「悪名」は映画化されて大ヒットし、主人公役の勝新太郎の人気を不動にした。

また社長を務めていた宗教紙の小説執筆陣に司馬遼太郎を起用。その連載小説が司馬の直木賞受賞作品となって司馬の文壇デビューを後押しした。

司馬遼太郎が今東光に送った手紙

1960年代以降の全盛期には何本もの連載を抱え、テレビやラジオにも冠番組を持ち、聞く人を飽きさせない話しぶりはお色気説法と相乗して講演でも人気を博す。これらは折から普及してきたテレビ文化とマッチして一気にマスコミの寵児となり、まさに文化人のタレント化の先駆け的人物となった。

「喧嘩坊主」「スケベ坊主」と呼ばれた偽悪の人

元来サービス精神の旺盛な東光は舌禍も多かったが、僧侶としては着実に昇進し大僧正となり、岩手の名刹中尊寺貫主に就任。さらに「毒舌で政界をただす」と参議院議員選挙に出馬するや全国区4位で当選。当選同期に石原慎太郎、青島幸男がいた。

在任中、その人気ゆえに総選挙(1969年)では132人から応援演説を頼まれ「オレは女郎じゃないぞ」と党本部で発言したり、ヤジや自衛隊を巡る演説で国会が紛糾するなどしたが体調の悪化もあり一期で引退。

その後奇跡的に回復すると若者向け人生相談「極道辻説法」を週刊誌に連載する一方、フジテレビではレギュラー番組「今東光の世相を斬る」を持ったが1977年、死去。瀬戸内寂聴の師僧でもあった。未完となった晩年の連載小説に「十二階崩壊」「帝国劇場」などがある。

大人気の「極道辻説法」は本人の語りでレコード化、のちにCDにもなってる

柴田錬三郎は東光の死後、その生涯を「八面六臂」と形容したが、その歩みを俯瞰した評伝類は今日に至るまで皆無に等しく、ケンカ和尚、助平坊主といった印象だけが流布されている。

実弟の今日出海(こん・ひでみ、初代文化庁長官)はかつて東光を「偽悪の人」と呼んだ。

すなわち自らを語る随筆や自伝的小説の書きぶりが現実より遥かに悪ぶって表現されていたからで、また時系列を無視して自身の経験を小説に取り入れたので事実としてそのまま受け入れられないという〝落とし穴〟も多く存在する作家だった。

今東光と川端康成はいつ出会ったのか?

筆者はかつて論文「今東光と関西学院」(『関西学院史紀要』)などで東光年譜を発表した。新事実を多数含めたため谷崎や川端、横光利一、小島政二郎の研究書などでは先行研究として引用や参考資料として紹介されたがその後、内容の誤りがいくつか判明。その修正こそが今回の刊行の狙いでもあった。

幸い東光のご遺族、そして川端康成記念会(以下、川端記念会)の力添えもあり、本書では東光自らが綴った『日録』(日々の行動等を簡潔に記載した手帳)をはじめ今家旧蔵の膨大な資料群、そして川端宛東光書簡(川端記念会蔵)を新たな礎として年譜の再構築が実現した。

これらの新出資料はこれまで不明確だった近代文学史上の事項や東光が語ってきた自身の過去についての検証を可能とした。

それらの事項の幾つかを拾い出してみると、まず東光の生涯で一定しなかった最大の謎が東光と川端が出会った年月日だった。

川端康成が自殺した翌日の日録。佐藤(栄作)総理の名前も読める

初公開の川端康成の手紙、谷崎潤一郎が残した謎の言葉、大物右翼との関係など、ここからは会員向けです。ぜひ登録をお願いします

ここから先は

2,125字 / 4画像

購読プランとプレミアムプランの2種類からお選びいただけます。

購読プラン

¥500 / 月

プレミアムプラン

¥1,000 / 月