隠蔽された「最悪事故の真相」をスクープ!東電が福島原発事故直後に米軍の「注水支援」を断っていた
添田孝史・木野龍逸/フロントラインプレス
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の津波によって、東京電力・福島第一原子力発電所は稼働中だった1~3号機がすべての交流電源を失って原子炉の冷却ができなくなった。
東電は自動車のバッテリーを集めて電源確保に努めたほか、消防車で原子炉の冷却を試みたが、原子炉のメルトダウンが進み、3月12日15時36分に1号機が爆発。その後、2号機、3号機もメルトダウンするなど世界史上最大の原発事故になった。
しかし原発事故直後に何が起きていたのかは、現在も完全には明らかになっていない。政府、国会はそれぞれ事故調査委員会を設置し、報告書をまとめているが、不明点も残っている。
今回、事故調査報告書にも書かれていない新事実が明らかになった。1号機の爆発直後、米軍が支援を申し出ていたのに、それを日本側が断っていたというのである。
結局、東電が米軍の支援を受け入れたのは申し出から2日後、3号機で水素爆発が起きた3月14日で、米軍が機材を搬入したのは15日から16日にかけてだった。
東電が断ったことで「後手を踏んだ」と後悔
早い段階から外部の手も借りて適切に対応していれば被害を小さくできたのではないか――。それを示す当時の政府幹部のメールを政府の事故調査委員会が収集していたことが、内閣府に対する公文書開示請求でわかった。
開示された文書によると、福島第一原発の1号機が2011年3月12日午後3時36分に爆発した後の夕方、原子力安全・保安院は東電に対し、米軍が援助したいとの意向を持っている旨を伝えた。ところが、東電はこれを受け入れなかった。その後、3号機が水素爆発したほか、2号機からは大量の放射性物質が放出された。
保安院の審議官(当時)は、2号機から放射性物質の放出があった後、「後手を踏んだ」と述べていたこともわかった。
この資料を読んだ専門家は取材に対し、東電が支援を受け入れていれば被害を抑えられていた可能性があると話している。
実は、当事者の間では、12日の米軍支援を断ったことで事故対応が「後手」に回ったとの見解が事故の渦中で交わされていたのだ。