悲劇の科学者 ラエ・リン・バーク 前編
取材・執筆:下山進
財前五郎は、「癌の専門医が自分の病状の真実を知らないでいるのはあまりにも酷だ」と内科医里見脩二に訴え、その病名を知る。ラエ・リン・バークの場合、最初に気がついたのは彼女自身だった。
科学者であるラエ・リンは通勤のドライブの最中いつも簡単な数学の問題を頭の中で解くことを趣味としていた。ハンドルを握りながら、簡単な掛け算をくりかえす。そうすると心が落ち着いてくる。
ところが、その日はごく簡単な計算ができないのだった。勤め先のSRIインターナショナルのあるメンローパークに向いながら、恐怖に似た感情がつきあげてきた。
自分はアルツハイマー病なのではないか?
というのは、祖母も叔母もアルツハイマー病にかかって死んでおり、自分もいつかはと恐れていったからだった。
2007年の夏のことである。
ラエ・リンはこの1年後に、専門医の診断を娘と一緒にうけて、初期のアルツハイマー病と診断されるが、アルツハイマー病は科学者としての彼女にとっても特別な病気だった。
というのは、ラエ・リンは、アメリカの製薬会社バイオジェンが現在、米国、欧州、日本で承認申請をしている根本治療薬「アデュカヌマブ」につながる最初の治験薬「AN1792」の開発に参加していたからだ。
AN1792
AN1792はアルツハイマー病研究の地平を変えた薬だった。それまでアルツハイマー病には対症療法薬の「アリセプト」しか市場になかった。これは日本の製薬会社エーザイが90年代に開発した薬だが対症療法薬。8カ月から2年、症状を緩和する働きをもつが、病気の進行自体を止めるわけではない。
AN1792は病気の進行自体に直接介入する「疾患修飾薬」または「根本治療薬」と呼ばれる薬だ。
その仕組みはこうだ。
遺伝子工学の発展によって90年代までに、アルツハイマー病が起こるメカニズムがわかり始めていた。
まず脳内にアミロイドというタンパク質がたまり、それが固まって神経細胞の外にアミロイド斑(老人斑)となって付着する。ついで神経細胞内に、神経原線維変化という糸くずのようなものができ始める。アミロイド斑と神経原線維変化このふたつがそろうと、神経細胞が死んで脱落していく。そうすると認知症と呼ばれる症状が起きる。
この一連の過程は、ドミノを倒すカスケードのように起こることから、「アミロイド・カスケード・仮説」と呼ばれていた。
その最初のドミノの一枚を抜いてしまおうというのが「AN1792」だった。そして、このAN1792はワクチンだったのである。
アルツハイマー病をワクチンで治すとはいったいどういうことなのかいぶかる読者もいると思うが、それを考えついたのはラエ・リンと同じくサンフランシスコの医療ベンチャーアセナ・ニューロサイエンスで活躍していたデール・シェンクという産業科学者だった。
デールは、アミロイドを直接筋肉注射をすれば、それに対する抗体ができて、アミロイド斑を除去するのではないか、と考えたのだった。
これは突拍子もないアイデアで、アセナ・ニューロサイエンスでも実験の優先順位の最後列におかれたにすぎない。ところが、一年たつとアルツハイマー病を発症するように遺伝子改変したマウスにアミロイドを注射すると、アミロイド斑ができなかったのである。それどころか、次にアミロイド斑がすでにできたマウスに注射すると、アミロイド斑はきれいさっぱり消えてしまった。
この実験結果がネイチャーの1999年7月9日号に掲載されると、研究の現場を超えた社会的な反響となった。
人類は初めてアルツハイマー病の進行を逆にした。アルツハイマー病は治る病気になる。
科学の殿堂UCSF
AN1792はこうして生まれたワクチンだったが、人の場合難しかったのが、どんなアジュバントを選ぶかということだった。アジュバントというのは、免疫機能を喚起させるための物質である。たとえばインフルエンザのワクチンでも、人によっては免疫がつかず罹患してしまう場合がある。その免疫機能を喚起させるのがアジュバントなのである。
このアジュバントを選ぶための専門家として外部から招聘されたのが、ラエ・リン・バークだった。
ラエ・リン・バークは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)で1970年代後半に分子生物学を学び、80年代カイロンという医療ベンチャーに就職する。ここでワクチンの研究をした。
ワクチンの専門家のいないアセナ・ニューロサイエンスでは、アジュバントを選定する方法がわからなかった。その話を聞いた同社の研究者リサ・マッコンローグが、デール・シェンクらにラエ・リンを紹介し、ラエ・リンはアジュバントを選定することになったのだった。
リサ・マッコンロードとラエ・リンはUCSFのポスドク時代以来の親友だった。
ラエ・リンの参加で、プロジェクトは一気に進んだ。アジュバンドには、QS-21というチリ原産の石鹸樹脂から抽出精製したものが選ばれる。
このようにして、最初のアルツハイマー病のワクチンAN1792は誕生したのである。
匂いがしない
AN1792の治験は、フェーズ1を通過し、アメリカと欧州で372人の患者にAN1792を注射する治験フェーズ2が2001年9月に開始された。ところがこのフェーズ2で深刻な副作用、急性髄膜脳炎を発症する患者が出て治験は中止される。症状は、頭痛や発熱、吐き気、患者によっては錯乱をおこし、昏睡状態に陥る患者もいた。半身が一時的に不随になる患者や、失語症におちいる患者もいた。
後にこの髄膜脳炎は、感染によっておこったものではなく、免疫機能が誤作動して、自身の髄膜を攻撃したことによるものとわかった。この失敗した治験をおこなった施設のひとつチューリッヒ大学の医学部が、この失敗から、現在日米欧で承認のための審査が行われている根本治療薬「アデュカヌマブ」を発見するのだが、今は、ラエ・リンの話を続けよう。
ラエ・リンはAN1792の開発に参加したあと、2004年にスタンフォード大学によって設立された世界最大級の研究機関SRIインターナショナルに就職し、感染症のチームを統括をしていた。
その3年目に病気がわかったということである。
まだラエ・リンは六〇歳になったばかりだ。
が、考えてみると、妙なことは起こっていたのだった。一年以上前から、突然匂いを感じなくなることがあった。しばらくたつと元に戻るが、まったく何の匂いも感じないのだ。
そのことは夫のレジス・ケリーにも言ったことがあった。
「匂いがしないんだけど」
夫のレジス・ケリーはもともと妻が匂いに敏感だったので、妻からの訴えをよく覚えている。
また、こんなこともあった。
お互いに再婚での結婚生活で、楽しみにひとつは、セイリングだった。自分たちが購入したヨットを操って船旅に出る。サンフランシスコはベイエリアとよばれるくらいなので、セイリングを趣味とする人は多かった。
「2006年か、2007年のことだったと思う」と夫のレジス・ケリーは言う。ふたりで自分たちのヨットでメキシコまで帆を張って旅をし、再びベイエリアに帰ってきたときのことである。
妻が、ウインチのあたりであたふたしている。ラインにウインチに巻きつけることができないのだった。セイリングをふたりで始めて、四、五年もたっている。その間にラインのウインチへの巻き方は何度もやってわかっているはずだった。なのに、まごまごしているのだ。
レジス・ケリーは、かわってウインチにラインをまきつけ収納したが、おかしなことがあるものだと思った。
しかし、夫は、この妻の奇妙なできごとをアルツハイマー病という病気にその当時は結びつけていない。
なにしろ、スタンフォード大学の研究所で、感染症のチームをひきいている妻だ。二人の間の会話は、いつもサイエンスのことだった。レジス・ケリーは同じUCSFの生物学のラボでの指導教官だった。同じ科学コミュニティーで育った二人のカップルは、当時の知事とも親交のあるサンフランシスコのパワーエリートでもあった。
パーティーに出れば、他の研究者と、誰がいけているか、どんな研究がホットか、についての話になる。そうした社交もこなしている妻とアルツハイマー病を結びつけることは夫にはできなかった。
夫に病名をつげる
「初期のアルツハイマー病」そう診断をうけたラエ・リンはショックをうける。そのことを夫に言ったらば夫は自分のもとを去るのではないかと恐れた。
夫のレジス・ケリーは、妻が突然自分に冷たくなったように感じた。これまでのような会話が少なくなり、うちとけている感じがしない。
最初は、自分のことを嫌いになった、もっと言えば、他に男ができたのではないか、と疑った。あれだけ、毎晩のように、サイエンスの話をしていた妻が、しなくなったのだ。
ところがある晩の夕食の席で、妻は告白したのだった。
自分は、アルツハイマー病と診断されたのだ、と。
その夕食の席での話を、レジス・ケリーは、私に言葉すくなに語っている。
「とても辛い夜だった。彼女にとってのほうが辛かっただろう」
二人とも、アルツハイマー病と診断されるということがどういうことなのか、科学者なのでよくわかっていた。できることが年々少なくなり、やがて自分のことも夫のこともわからなくなる。それは不可逆的な変化なのだ。
だが、ラエ・リンは、一方でこんなことを考えていたのだという。
それは不可逆的な変化なのだろうか? 自分はやがて廃人になるしかないのだろうか。
このときラエ・リンの胸に去来したのは、かつて自分がフリーランスの時代に心血を注いだあのワクチンだった。
AN1792。あのワクチンは、マウスで確かにこれまで不可逆とされた病気の進行を逆にした。老人斑をきれいさっぱりとり去ったではないか・・・。
後継薬の治験に自ら参加
AN1792が失敗したのは、ワクチンによって自己免疫疾患が起こされたからだ。そうであれば、ワクチンによって生ずる抗体をマウスでつくりそれを「ヒト化」したものを投与すればよい。
その考えのもとで、デール・シェンクらは、いくつかの抗体薬を開発していた。そのうちのひとつバビネツマブが、フェーズ3の大規模な治験を行うという。このころまでにアセナ・ニューロサイエンスは、アイルランドのグローバル製薬会社エラン社に買収されていた。
ラエ・リンは、夫のレジス・ケリーとUCSFのアルツハイマー病の専門医アダム・ボクサーに相談をした際にこの薬の治験のことを知らされる。
ラエ・リンはエラン社のデール・シェンク、ピーター・スーベルトにも相談をしたうえで、すでに始まっていたバピネツマブの治験に被験者として入ることを決断する。
こうして、ラエ・リン・バークは自分が開発した薬の第二世代の治験に自ら被験者として参加をすることになった。
不可逆とされるこの病気の進行を逆にすることを信じて。
次回につづく
主要参考文献・証言者・取材協力者
Regis Kelly, Lisa McCconlogue, Peter Seubert, Dale Schenk
An Alzheimer’s Researcher Ends Up on the Drug She Helped Invent, Alice G Walton, The Atlantic June 19,2012
Going from Alzheimer’s researcher to patient, Erin Allday, July 30, 2011 San Francisco chronicle
Peripherally administered antibodies against amyloid β-peptide enter the central nervous system and reduce pathology in a mouse model of Alzheimer disease
Frédérique Bard, Catherine Cannon, Robin Barbour, Rae-Lyn Burke, Dora Games, Henry Grajeda, Teresa Guido, Kang Hu, Jiping Huang, Kelly Johnson-Wood, Karen Khan, Dora Kholodenko, Mike Lee, Ivan Lieberburg, Ruth Motter, Minh Nguyen, Ferdie Soriano, Nicki Vasquez, Kim Weiss, Brent Welch, Peter Seubert, Dale Schenk & Ted Yednock
Nature Medicine August 2000
下山進
ノンフィクション作家。著書に『アメリカ・ジャーナリズム』(丸善)、『勝負の分かれ目』(KADOKAWA)、『2050年のメディア』(文藝春秋)、『アルツハイマー征服』(KADOKAWA)、『2050年のジャーナリスト』(毎日新聞出版)がある。サイエンスについては、編集者だった時代から興味をを持ち、ジェニファー・ダウドナの『クリスパー 究極の遺伝子編集技術の発見』(文藝春秋)をノーベル賞受賞の2年前に出版していたりした。元慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授。上智大学文学部新聞学科で「2050年のメディア」の講座を持つ。