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「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず 

広島、長崎への原爆投下から、今年で79年。体験者たちにとって「あの日」は過去のことではない。

4歳で原爆を体験した松尾栄千子(えちこ)さんは、病に倒れた両親を介護し、家事を一身に担うようになった。炊事に洗濯、畑の仕事まで。「あかぎれだらけになった私の手を見て、母は泣いていました」。83歳になった今でも、思い出しては涙をこぼす。

自身も闘病しながら、高校進学もあきらめて家族を支えた日々。彼女は、原爆が生んだ「ヤングケアラー」だった。その苦しみは、今に至るまで取り残されている。

ジャーナリスト 小山美砂


爆風に吹き付けられて

数分歩けばそこは海、というような長崎市の網場(あば)町に松尾さんは生まれた。当時は日見村の一部で、町名には魚を捕るために網を仕掛ける場所、という意味がある。潮風が流れ、山にも近い。

船大工の父とそれを手伝う母、2人の姉と兄のもとに松尾さんは生まれた。太平洋戦争が始まったのは、1歳になってまもない頃。長崎も市街地を中心にたびたび空襲に見舞われたが、彼女自身は「戦争」を理解してはいなかった。戦争末期には妹が生まれ、松尾さんは4歳になっていた。

松尾栄千子さん。生まれ育った家に、今も暮らしている。2023年6月13日、長崎市網場町で

近所に、仲良しのお友達がいた。1つ年下のシンコちゃんだ。きょうだいとは年が離れていたから、彼女と人形遊びやおままごとをして、1日中一緒に過ごした。

1945年8月9日の朝も、シンコちゃんを誘って近くの海へ。兄たちはパンツ一丁で気持ちよさそうに泳いでいたが、まだ幼かった松尾さんたちは、海に入ってはいけないと言いつけられていた。打ち上げられた石を拾い集めたり、道に絵を描いたりして遊んでいた。

午前11時2分、米軍爆撃機「ボックス・カー号」が投下した原子爆弾が上空500mでさく裂。松尾さんがいた地点は爆心地から約8km離れていた。

ピカッと光り、吹き飛ばされそうなほど強い風が吹きつけた。海を見ると、泳いでいたはずの兄たちがいない。爆風で押さえつけられて、海中に沈んだようだった。

巻き上げられた砂利や小石がからだに当たる。「痛い、痛い」と言いながらシンコちゃんの家へ逃げ込んだ。トタンの壁が揺れ、ギイギイと音を立てながら外れて飛んで行く。内部の土壁も、ポロポロと崩れ始めていた。

まだ幼かったからだろうか、「怖い」という感情はそれほどなかった。玄関のすき間から外を見ると、大きな木が弓のように曲げられて、折れもせずに倒れている様子が見えた。爆風の衝撃に、ただただ驚いていた。

まもなく父が迎えに来てくれて、暗渠(あんきょ)に避難してから家へ帰った。窓ガラスが割れ、外れた障子やふすまがあちこちに散乱してぐちゃぐちゃになっていたのを母は片づけていた。幸いにも兄たちは海から避難し、先に家に帰っていて無事だった。

何時ごろのことかは覚えていないが、パラパラと雨が降ってきた記憶もある。芋の葉っぱから、黒いしずくがぽたぽたと落ちるのもその目で見た。灰が降って裏手の山も白っぽくなり、畑で育てていた野菜にも降りかかっていた。だが、当時は「被ばく」のことなど思いもしなかった。

次々病に倒れていく

翌日、松尾さんのからだにはひどい発疹が出た。皮膚が赤く腫れあがり、ぶつぶつとできものがからだ全体にできた。その他の不調は覚えていない。しかし、小学3年生になると急に具合が悪くなってきた。松尾さんは当時をこう振り返る。

「起き上がりきらんのですよ、座ることさえできない。ごはんを食べる時なんかも、布団を重ねてそれにもたれるようにして、父や母が口に食べ物を入れてくれました。いつも横になっているような感じで、学校にも行くことができませんでした」

ひどい貧血状態にあったと思われる。しかし、病名は誰も聞かせてくれなかった。小学2年生になったシンコちゃんも、同じような病と闘う日々を続けていた。母親たちはそれぞれの家を行き来し、似た症状に苦しむ互いの娘を見舞った。ある日、シンコちゃんの母親は枕元で「こがん病気の、この頃多か」と話していた。

原爆投下直後の様子を説明するために松尾さんが描いた絵。『《被爆体験者》とされた被ばく者の叫び 戦後67年目の証言 内部被曝』(岩永千代子編、2012年)収録

どれだけ療養していたのか、はっきり覚えていない。

「だけど、床を上げて外に出た時、ものすごく外が懐かしかったですね。近所の子どもたちに会えるのも、すごく久しぶりという気がしました。シンコちゃんはまだ悪いのに、自分はこないして起き上がれたな……と思いましたね」

松尾さんよりも症状の重かったシンコちゃんは入院することになり、そのまま息を引き取った。病名は白血病だったという。まだ幼かった松尾さんはその死をよく理解することができなかったが、シンコちゃんの妹たちが泣いている光景はよく覚えている。いつも遊んでいた友達がいなくなってしまった、という寂しさが胸に広がった。

松尾さんが回復すると、今度は母が倒れた。中学2年生になる頃、母は体調によって寝たり起きたり、という状態になった。具合が良くなれば畑に出て、また数日たてば悪くなって寝る。松尾さんは、学校を出ると一目散に母のいる畑へ向かい、そのまま仕事を手伝った。母は、骨がんに侵されていた。

看病に、家事に……15歳の少女に降りかかった負担

「母はひどお苦しみました。それはそれは、痛がっておりましたね。痛みのある太ももを伸ばして、私に『足を捕まえとけ』って、言いよりました。少しでもビクッと動けば、痛いそうなんです。その後、頭の方にもみかんくらいの大きさの腫瘍ができて、それも痛がりよりました」

松尾さんは看病に追われるようになる。夜中であろうと痛がるので、母が眠れるように足を押さえてあげた。頼れる家族は、誰もいない。父も結核を患って入退院を繰り返していた。乳飲み子を抱える一番上の姉が家にいたが、母との折り合いが悪く、家のことはほとんどしなかった。もう1人の姉と兄は、結婚や仕事ですでに家を出ていた。

よって、家事の一切が中学生の松尾さんに降りかかってきた。しかも、4つ下の妹とまだ赤ん坊の姪の世話、そして病に倒れた母の看病まで担わねばならなかったのだ。

「カレーライスはどうやって作ると?」
「そうめんはどうやって湯がくと?」

近所の人に聞いて回っては、なんとか家族を食べさせるための食事をつくった。しかし、まだ子どもと言える年齢で経験もない。

「ろくなものを食べさせていませんでしたよ……」

学校から帰ると料理をし、風呂をたく。机に向かって勉強をする時間は、とても取れない。五右衛門風呂に薪をくべる時の明かりを頼りに、木切れで灰に字を書いて覚えた。試験の前日には、就寝前のわずかな時間に布団の中で教科書を開いた。

そして朝は、午前2時に起きて仕事を始める。人の糞尿を腐熟させて肥料にしたものを汲み取って、畑にまく作業をしてから、学校へ向かった。洗濯ももちろん松尾さんの仕事だ。

家事を担い、母を介護してきた松尾さんの手元。皮膚がんも発症した。2023年6月13日、長崎市網場町で

「手が痛かったですよ。特に冬ですね。もう、血がさーさー流れよりました。あかぎれができて、節々がぱりぱり割れるんですよ。洗濯や畑仕事で、水を使いますからね。私の手を見て母は泣いていました」

そう言うと、松尾さんは目元を真っ赤にして口元を押さえた。お母さんはなんと声をかけてくれましたか、と問いかけたが、胸が詰まって答えられないようだった。

松尾さん自身も、体調を崩しながらの家事、看病だった。重い貧血症状が引き続き出ていたのだ。

「だけど、大変だと思ったことはないですよ。自然と自分に降りかかってきたことだから……当たり前でしたからね、当時は」

原爆が生んだ「ヤングケアラー」たち

松尾さんは、いま社会問題化している「ヤングケアラー」だったのではないか? インタビュー中、そんな考えが浮かんできた。

こども家庭庁によるとヤングケアラーとは、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どものことを指す。勉強や部活、友人との他愛ない時間など、本来享受できたはずの「子どもとしての時間」と引き換えに、家庭内のケアを担っている子どもたちのことだ。

その存在に光が当てられて支援の必要性が議論されるようになったのは近年のこと。政府は2024年6月、「子ども・子育て支援法」を改正して支援に務めるべき対象に初めてヤングケアラーを明記した。このような子どもたちは以前からいたはずなのに、サポートする対象としてこれまで認知されてこなかった。

松尾さんが、当時を振り返って「大変だと思ったことはない」と言うのも、その負荷に気付くための視点が社会に存在しなかったためではないだろうか。

原爆が投下された当時に遊んでいた場所の付近に立つ松尾栄千子さん。2023年6月13日、長崎市網場町で

原爆被害者の家族(特に子どもたち)がどんなケアを担わされてきたのか、この点を掘り下げた調査を筆者は見つけることはできなかった。

しかし、朝日新聞社が1967年に刊行した『原爆・五〇〇人の証言』の中に、こんな証言があった。広島原爆で高等女学校への通学途中に被爆した女性は、被爆から4日後に母親と再会。ところが、ひどいやけどを負っていた母親は半月しか命が持たなかった。

〈母が死んだあと、弟たちの世話をしなければならず、食料の配給など、近所の人たちに頼んで通学していましたが、苦情が出て、とうとう学校をやめました。あのころは、自分のことだけで、みんな精いっぱいだった〉

詳細は記されていないため不明だが、父親は出征中で帰還していなかったようだ。彼女もまた、原爆が原因で「ヤングケアラー」になっていた。

広島への原爆投下当時12歳だった女性は、一家そろって自宅で被爆。母は寝たきりとなり、姉は1年足らずで他界したため、以降は「家事一切が私の肩にのしかかってきました」という。

Webサイト『NHKアーカイブス』で公開されている手記には、次のようにある。

〈13歳の夏以降、私は一家の主婦となり、弟の入学式にもオカッパ頭の私が付き添いました。この時は参列したお母さん方からジロジロ見られて恥ずかしい思いをしました。このころから、学校を休みがちになり、昭和22年(1947年)の学制改革で誕生した中学校には結局一度も登校できませんでした。というのも、家事の忙しさとともに、何とも言えない倦怠感(けんたいかん)や貧血によるものか立ちくらみなどが再々起こったためでした〉

肉親を失って「原爆孤児」となった子どもたちも、自分たちの力で生きていかねばならなかった。

広島で被爆後、大病を患った父母を続けて失い、兄と2人で自活した少年が、『生きる―被爆者の自分史— 第六集』(原爆被害者相談員の会・被爆者の自分史編集委員会、2022年)に体験を書き残していた。兄は働いて生活費を稼ぎ、家事のすべてを少年が担った。そこには、涙ぐましい努力の跡が見て取れる。

〈ご飯は炊飯器で炊き、おかずはプロパンガスでつくりますが、母がいたころは時々焼き飯をソーセージ、玉ねぎ、卵を入れてつくったくらいで何も習っていませんでした。きゅうりなますを酢と砂糖、醤油を入れて作ったり、アジを直接プロパンにアミで焼いたため外は焦げるが中は生のままだったりと四苦八苦していました〉

〈兄からお金をもらい買い物をしたり、電気代、新聞代などを支払っていましたが、安月給でしたのでしょう。時々、手持ち金がなくなり買い物ができません。(中略)ある時、番茶が無くなり親戚へお茶をもらいに行くと、出し殻を干していたのを使うように言われ、新しいお茶をもらうことができませんでした。悔しくて情けなかったので帰るとすぐに捨てました〉

例に挙げてきた「ヤングケアラー」たちはみな、子どもたち自身も被爆者でありながら、家族の介護や家事を請け負っていた。自らもいつ病になるかわからない不安を抱えながら、あるいは実際に体調不良に苦しみながら、その生活を続けなければならなかった。

なぜ被爆者の子どもたちが家事や介護を担わされたのか? 原爆被害の本質は、ここにある。原爆放射線の影響は解明されていない部分もあるものの、被爆直後の下痢や嘔吐といった急性障害に加え、数年後、数十年後に重い病気を発症する晩発性の影響が指摘されている。日常生活が困難になるほどの病気になるおそれがあり、多くの被爆者が命をも奪われた。原爆後の「ヤングケアラー」の存在は、この事実を改めて思い起こさせてくれる。

しかし、その苦しみは認められない

松尾さんの母は1957年、約2年の闘病の末に50歳でこの世を去った。亡くなる前、長崎大学病院に入院した。5、6人の医師が取り囲んで検査する様子は「まるで実験道具」にされたように見えた。「原爆病」だと告げられて、退院後も日々の経過を手紙で送るよう求められた。治る見込みはなく、痛み止めを飲んで耐える日々。母は毎日、「もう殺してください」と、手を合わせていた。

「母が死んで、ほっとしました。ようやく母ちゃんが楽になったー、って。寂しいっていう気持ちもなかったです」

松尾さんはその後、洋服の生地を売る店で働き、見合いをして24歳で結婚。松尾さんの生家で夫と暮らしながらクリーニング屋を経営し、息子を2人授かった。幸せをかみしめる日々だったが、病は松尾さんを解放してはくれなかった。

48歳の時に乳がんが見つかり、以降、手術を3回受けた。皮膚がんも10回ほど患い、下まぶたに腫瘍ができた時には失明するのではないか、と恐れた。重い貧血は60歳まで続き、病院に行くと医師や看護師に心配されたが、そのつらさにはもう慣れ切っていた。

皮膚がんができた部分を指さしながら、病の苦しさについて語る松尾さん。2023年6月13日、長崎市網場町で

「被爆者」の証ともいえる被爆者健康手帳を持っていれば、医療費の自己負担分が無料になる。健康管理手当や介護手当など、総合的な支援も受けられる。

ところが、彼女は「被爆者」に認められていない。「原爆病」と指摘されて苦しみながら逝った母も、今の制度では援護対象から除外されているのだ。この原稿の中で、彼女たちのことを一度も「被爆者」とは表現していないのはこのためだ。

長崎で原爆を経験し、病を繰り返してきた松尾さんは、なぜいまだに「被爆者」として認められないのか。広島の「『黒い雨』訴訟」を取材してきたジャーナリストの小山美砂さんが、長崎原爆における課題を指摘します。ここから先はスローニュースで詳しく報じています。

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)
1994年生まれ。元毎日新聞記者。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞。2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続ける。