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【江東区議×記者の二刀流】「地盤・看板・カバンなし」の私が実践した3つの準備と東京23区メディアへの挑戦
記者や編集者のキャリアについて考える企画「私のメディア転職」。第3回では、日刊ゲンダイと毎日新聞で記者経験を積んだ井川諒太郎さん(33)に話を伺いました。現在は東京・江東区の区議として若者の声を区政に届けようと活動しています。
生まれ育った江東区で政治家の不祥事が相次ぎ、「政治はこのままでいいのか」と思いを募らせた井川さん。政治部出身ではなく、選挙で必要な3要素「地盤(組織力)」「看板(知名度)」「カバン(資金力)」もない中、選挙戦をどう勝ち抜いたのでしょうか。実践した「3つの準備」に迫ります。
さらに江東区の地域ニュースを集めた『江東人情新聞』の発行を手掛ける理由を尋ねると、「東京23区メディアが必要だから」と答えが返ってきました。その真意とは──。
聞き手 韓光勲
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「困っている人を支えたい」
──最初にメディアに進んだのはなぜですか。
井川:
「困っている人を支える社会にしたい」と思ったからです。そう考えるようになったのは、私の育った家庭環境にあると思います。
小学校に入学する前、父が病気で亡くなりました。それからは看護師の母が女手一つで姉と私の2人を育ててくれました。
保育園のお迎えは日が暮れた後でいつも最後でした。宿直の日は深夜まで仕事で、一緒に食卓を囲めない日もありました。家事と仕事を両立させて懸命に働く背中を見ながら、「困難を抱えて生きる人を手助けしたい」と考えるようになりました。
また、政治に近いところで仕事をしたかった。中学時代から戦国時代や幕末の歴史が好きで、日本史の勉強に熱中しました。歴史とは政治の連続ですから、その流れで「現代政治を学びたい」と思うようになりました。大学時代は、インターンとして国会議員や地方議員の選挙活動を手伝いました。
最終的にメディアに進みたいと思ったのは、「困っている人を支える社会にしたい」と「政治に近い仕事をしたい」という2つの軸を、報道の仕事なら実現できると気付いたからです。
議員インターンで記者と接する中で閃きました。それからは「絶対に記者になる」と譲りませんでした。就職活動では新聞社と出版社だけ受けました。
全国紙には縁がありませんでした。保守的な考えの学生だったので産経新聞を第1志望とするも、最終面接落ち。途方に暮れる中、私を採用してくれたのが日刊現代でした。希望通り、記者として歩み始めることができました。
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駆け出し時代に学んだ現場の大切さ
――日刊現代(2014年4月入社)での仕事はどのようなものでしたか。
井川:
ニュース編集部に所属し、夕刊紙「日刊ゲンダイ」の記事を執筆しました。社員数が全体で100人程度の会社ですから、編集部の人数も大手メディアに比べて小所帯。全国紙でいう政治部、経済部、社会部が合わさったような部署で、事件事故の取材を3年間担当しました。
印象的なのは、「相模原市障害者施設殺傷事件」です。神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、入所者19人が刃物で殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負いました。
殺人などの罪に問われた植松聖死刑囚は、横浜地裁の裁判員裁判で「意思疎通のできない障害者は不幸を生む」などと差別発言を繰り返しました。この事件は発生直後から耳目を集め、現場は住民より報道陣が多い程でした。
大手メディアと違うのは記者クラブへのアクセスです。加盟社ではないため、警察当局への取材はほとんどできません。その分、現場での聞き込みを大切にしました。加害者の人間性を追うことが多かったので、友人や親族など関係者に取材し、筋立てを考えるという事件取材の基本を学びました。
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事件取材を深めるため全国紙へ
――2017年4月に毎日新聞へ転職した経緯を教えてください。
井川:
「事件取材を深めたい」と考えたからです。現場から出発することの大切さを日刊ゲンダイで学んだ一方、一人前の事件記者になるには、事件の捜査に日々当たっている警察当局への取材経験が不可欠だと思いました。
全国紙3社を受けて、内定を得たのが毎日新聞。全国紙に絞ったのは、いずれ生まれ育った東京・江東区に戻る選択肢が欲しかったからです。
毎日新聞で配属されたのは、山梨県の甲府支局。初めての地方での生活に胸が高まりました。
当局取材もできました。連日の夜討ち朝駆けは大変でしたが、警察官と食事したり記事を巡って議論したりと充実していました。事件の背景など捜査当局でないと知り得ない部分に触れることができ、貴重な経験が積めました。
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「メディアは社会を動かせる」
──東京本社の社会部や経済部での思い出深い仕事を教えてください。
井川:
最後に在籍していた経済部では、三菱電機の不正検査を一面でスクープしたり、就活セクハラの問題を掘り下げたりと色んな仕事を経験できました。
一方で、最も思い出深いのは、社会部とうきょう支局での仕事。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(1858~1954年)ゆかりの洋館(東京都世田谷区)が取り壊されそうになり、近隣住民らが保存を呼びかける運動を始めました。そのことを独自記事で報じたのです。
この洋館は、尾崎が東京市長だった1907年に建てられたもので歴史的な価値があるもの。しかし、2020年に所有権が住宅メーカーに渡ると、メーカー側から解体すると告知されました。
これに地元住民らが猛反対。保存を呼びかける署名活動や買取りのための資金集めをインターネット上で始めたのです。
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毎日新聞の東京都内版で記事化(2020年7月8日付)すると、保存運動の輪が徐々に広がっていきました。最終的には、4000人超の署名が集まったほか、買取りについても資金提供者が現れたことで目途が立ちました。住民たちの保存運動が成功したのです。この取材を通じて、メディアは社会を動かす力があると実感しました。
同時に感じたのは、地域の課題解決のために政治が果たす力の大きさです。保存運動には地元の世田谷区議たちが関わっていました。住民に寄り添って活動する姿を見て、地方議員の仕事に興味を持ち始めました。
この先は会員限定です。江東区議への立候補を決めた井川さんは、自らに①費用の準備②家族や友人の理解③自民党の公認──という「3つの準備」を課しました。具体的な進め方や江東区の情報発信を始めた理由に迫ります。