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「押せるボタンをすべて押せ」 漁船沈没の謎をつきつめる調査報道『黒い海』をなぜ書くことができたのか

ノンフィクション作家 伊澤理江

「その漁船の事故、ほとんど誰も知りませんよね? そんな事故の本をいったい誰が読むんですか?」

今から2年前,2021年5月、講談社の編集者と会ったときに言われた言葉です。「誰も知らない事故」「無名の書き手」では、書籍化に難色を示すのも無理はありません。それでも私は諦めることができませんでした。

千葉県沖での漁船沈没事故の謎を追った『黒い海 船は突然、深海へ消えた』(講談社)が話題になっています。第54回大宅壮一ノンフィクション賞、第71回日本エッセイストクラブ賞なども受賞しました。SlowNewsでの連載から調査報道の傑作を生み出したノンフィクション作家、伊澤理江さんに大宅壮一ノンフィクション賞受賞に際し、その思いを寄稿してもらいました。

ノンフィクションの本を出す難しさ

誰も知らない事故だけど、光を当てるべき闇はいくつも見えている。その問題意識は多くの読者と共有できるはずだし、共感も呼ぶのではないか、と。そう思い続けました。

その後、私がどんな言葉で翻意を迫ったか、正直、よく覚えていません。しかし、数回の面会を重ねた末に、編集者が「じゃあ、やりましょう」といった瞬間を私は忘れることができません。

調査報告書に掲載された事故直後の浮遊油(海上保安庁撮影)

大宅賞受賞の知らせを受けたのは、やはり5月でした。その晩、にぎやかな店の一角で編集者はビールを片手にGOを出したあの時を振り返りました。

「もう逃げられないと思ったんですよ」

つまり、前のめりのGOではなかった、と。どうしても書きたいという私の“執念”に寄り切られたようです。ノンフィクションが売れないと言われるなか、本を出すことの難しさを改めて感じました。

「鉄の扉を素手でこじ開けろ」

思えば、『黒い海』の取材は、そうした熱量によって扉を1つずつ開けていく営みの連続でした。

壮絶な体験をした生還者、事故調査に関わった専門家や官僚たち……。あえて取材に応じる必要などない人たちばかりです。むしろ、応じたくない人のほうが多かったでしょう。

「国(運輸安全委員会)がすでに結論を出しているのに、今さら、何をしようとしているのか」

「センセーショナルに騒ぎ立てたいだけではないか」

取材を申し込むと、そんな言葉も戻ってきました。でも、めげてもいられません。

いぶかしがる人たちに向けて、「なぜこの事故を取材しているのか」を手紙にしたため、丁寧に説いたのです。すると、協力者は少しずつ増えていきました。

沈没した漁船が所属していた福島県小名浜漁港

私がメンバーとして加わっているフロントラインプレスの高田昌幸代表からは常々、「鉄の扉を素手でこじ開けろ」「押せるボタンはすべて押せ」という言葉を呪文のように聞かされていました。

断られたところから、いかにして取材にこぎつけるかが勝負だ、と。いつの間にかその教えが体に染み込んでいったようです。

生存者の体験を無視した報告書

「黒い海」は、2008年に千葉沖で発生した第58寿和丸沈没事故を題材としています。この船には20人の乗組員がおり、沈没で17人もの犠牲者を出しました。助かったのはわずか3人です。

沈没海域には大量の黒い燃料油が漏れていたため、発生当初から事故原因として船体破損が疑われていましたが、国の調査機関が出した結論は「原因は波」。

生存者の実体験や僚船の乗組員らの証言が無視され、客観的な状況とも大きく食い違う報告書がなぜ生まれたのか。『黒い海』は、その矛盾を突き詰めていく調査報道です。

沈没の真相については本書をじっくりと読んでいただく他はありませんが、本当に大勢の方々の協力を得ることができました。

専門家の解説を録画して何度も見直した

普段、海の上にいる漁師たちは、いつ、どこの港に入るかわからないため、取材のアポも取りにくい。あるときは八戸、あるときは銚子。港に入ったタイミングを逃さず連絡を取り、取材に何度も応じてもらいました。

海にも船にも縁遠かった私は最初、言葉一つにも苦労しました。馴染みのない漁師言葉や専門用語も多いのです。工学系の話は、資料を用いて解説する専門家を動画に撮り、繰り返し再生して理解を深めました。

証言を求め、港に入ったタイミングで各地の漁港をまわった

私の拙いインタビューに辟易することなく、彼らが何度でも取材に応じてくれたのは、「真相を解明しよう」という思いが共通していたからでしょう。

たくさんの協力者がいたからこそ

海の専門家からも、調査報道のプロからも、笑われない(ツッコミの入らない)作品にしたいと、情報の質にも量にもこだわりました。それが可能だったのは、そうしたたくさんの協力者がいたからこそです。

『黒い海』は調査報道ウェブサイト「SlowNews」の連載「沈没 寿和丸はなぜ沈んだか」がベースになっています。本書のかなりの部分は連載後の取材に基づいていますが、SlowNewsでの連載がなければ、書籍が日の目を見ることもなかったことでしょう。

一連の取材に応じてくれた方々を含め、すべての関係者に感謝を申し上げます。

授賞式でフロントラインプレスの仲間と。中央向かって右が筆者。左が高田昌幸氏

伊澤理江(いざわ・りえ)
英国ウェストミンスター大学大学院ジャーナリズム学科修士課程修了。 英国の新聞社・外資系PR会社などを経てフリージャーナリストに。現在はネットメディア、新聞、ラジオ等で取材・執筆活動を行っている。千葉県沖での漁船沈没事故の謎を追った「黒い海 船は突然、深海へ消えた」(講談社)で、第54回大宅壮一ノンフィクション賞(2023)、第11回日隅一雄・情報流通促進賞(2023)大賞、第71回日本エッセイストクラブ賞をそれぞれ受賞。

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