【東日本大震災13年】メディアはどのように伝えているか、注目のコンテンツを紹介・前編
あの日から13年、ことしも3月11日がやってきました。
年月の経過とともに伝えるべきことは変化し、メディアも何をどう発信すべきかを模索しています。一方で、「伝えることができない類の悲しみ」(ルポライター・三浦英之氏)にも、変わらず向き合っていかなければなりません。
13年目の報道で、注目したものをまとめました。
スローニュース 熊田安伸
被災者の実情を伝える調査報道など
被災した中小企業を救うために創設されたのが「グループ補助金」です。その名の通り、企業がグループで再建計画を立てることで、国と県が再建費用の4分の3を補助するもの。(1企業15億円が上限)当時、多くの企業が利用しました。
ところが、今になってそれが企業の「足かせ」になっているとNHKが報じています。
復興をスピードアップさせたはずの補助金が、今になって「柔軟性のない制度」として被災地に立ちはだかっているのです。
岩手・宮城・福島の3県で、少なくとも575の事業者が、合わせて27億3000万円余りの返還を命じられたということです。施設や設備の譲渡・取り壊しなどが理由でした。
ポイントはここ。「補助金の返還命令」を入手する情報公開請求などを駆使した調査報道で、この問題を明らかにしているのです。被災地に投じられた補助金がその後どうなったのか、それを検証したことで浮かび上がったのだと思われます。
一方、読売新聞は、被災者に貸し付けられた災害援護資金の返済状況を調べました。すると、9都県約525億円の災害援護資金のうち、8都県で約57億円の返済が滞っていることがわかったといいます。災害援護資金は、6年の猶予を含めて13年以内に返済する必要があり、早ければ今春に期限を迎える人もいるとのことです。
大震災で働く場所さえ失い、やむにやまれず借りた被災者たち。中には、300万円を返済するために、70代で水産加工のパートをしている女性もいるとか。
自治体にとっては回収も大きな負担となっていて、返済を免除する独自の基準を設けたところもあるそうです。
この問題、過去に他のメディアも報じてきたもので、今回の共同通信のまとめでは、岩手・宮城・福島の3県で9000人、63億円の滞納となっています。
河北新報によると、被災者を提訴する自治体も出ているとか。
被災者を支援するために作られた制度。こうした実態を検証して、制度設計を改めて考えていくことは非常に重要です。
顔の見える報道
盲点でした。東日本大震災での外国人の死者数は41人とされています。厚生労働省「人口動態統計」にそうあるからです。私も、そう思っていました。
しかし、その数字のまとめに違和感を抱いた朝日新聞記者でルポライターの三浦英之さんが警察庁に問い合わせたところ、なんと「33人」という違う人数の回答が。「外国人の大切な命が失われているにもかかわらず、それらを正確に把握しようともせず、結果、弔ってもいない」そんな思いを抱いた三浦さんは、彼らが残した「生」の物語をたどっていくことにします。
2月20日に発行された『涙にも国籍はあるのでしょうか』(新潮社)には、亡くなった外国人とその家族や親しい人物の8つの人生の物語と、そこに絡んでくる1人の日本人男性の物語が描かれています。
それぞれのエピソードが重いものですが、個人的には「それでも神父は教会に戻った」で描かれた、カナダ出身の神父の物語に深い感銘を受けました。発災した時には仙台市にいて無事だった神父が、なぜ翌日に塩釜市の沿岸部でもないところで亡くなったのか。その謎の死は、津波で犠牲になった多くの人の「心」に通じるものがありました。知りたい方は、ぜひ本書で読んでみてください。
さて、朝日新聞は、被災地で暮らす子どもたちを記者が訪ね、その月日をたどる『こどもと被災地』というコンテンツを発信しています。
被災地のこどをもに焦点をあてて取材するというのは、これまでもメディアが企画してきたことです。しかし一人ひとりにそれぞれの生の物語があり、何度でも伝えるに値するものです。
ただ、読者に既視感を持たれずに読んでもらうのは、なかなか難しいですよね。
このサイトは一見、凝った作りではありませんが、ウェブに最適化したテキストの進め方、写真の配置や使い方、サイト全体の雰囲気など、端的に「うまい」と思いました。デジタル発信を続けて知見を積んできたからこそ、こういう微妙な匙加減ができるのだろうと。
子どもを描いたリポートとしては、13年前の3月11日に生まれた子どもたちの姿を描いた、NHKのおはよう日本のリポートもありました。こちらはぜひ、映像で見ていただければと。
毎日新聞は、『会いたくて 3.11と私』というコンテンツを発信しています。震災発生当時に本人が被災したり家族・親族が被災した5人の記者がふるさとを再訪し、家族や関係者に話を聞くという異色のコンセプトです。
一人称をいかした文体や発信方法などがこれから深まっていく可能性を感じます。
(後編に続きます)