冤罪のまま病死した父の無念!苦痛を無視し保釈を7回も却下した司法は「無実の被告の死」さえ知らなかった…大川原化工機事件遺族『悲しみの新証言』
「もっと早く適切な治療ができていれば、こんなに早く亡くなることはなかった」
胃がんが見つかりながら保釈が認められず、約11カ月にも及ぶ身柄拘束の末に被告の立場のままで亡くなった男性。しかし男性にかけられた容疑は、現役の捜査員が「捏造ですね」と法廷で証言するほどの「冤罪」だった――。
男性の遺族は「亡くなったのは拘置所内で適切な医療行為を受けられなかったため」などとして国を提訴、21日に東京地裁で判決が言い渡される。
今回の取材で、男性が勾留一時停止後に「無念の死」をとげていたことを、検察は把握さえしていなかったことが明らかになった。長期間の身柄拘束で犯罪の自白を迫る「人質司法」と拘置所医療の質の低さが「命を守る権利や生きる権利さえ奪っている」と、遺族は冷酷な司法のあり方と闘っている。
スローニュース 宮崎稔樹
「専門医にかかりたい」保釈請求の却下は7回…叶わなかった治療の願い
東京地裁で訴えを起こしているのは、化学機械製造会社「大川原化工機」(横浜市)を巡る冤罪事件 で逮捕された、同社元顧問の相嶋静夫さん(享年72)の遺族だ。相嶋さんは2021年2月、胃がんのため亡くなった。だが、起訴が取り消されたのは5か月後の7月。生前に名誉回復を果たすことはできなかった。
「もっと早く適切な治療を開始できていれば」。2024年3月6日、2週間後に控えた地裁判決を前に記者会見に臨んだ相嶋さんの長男(50)は唇を噛んだ。
〈専門医 にかかりたい。専門医を選びたい〉〈拘置所で病気確定のための精密検査および治療を開始していただきたくお願い申し上げます〉と拘置所長あての書類で本人が何度も希望していた。
それにもかかわらず、その願いは簡単には叶わなかった。却下された保釈請求は7回(病気判明後は4回)に及び、外部病院の診察でさえ認められたのは3回の申し入れの後だったからだ。父が亡くなって3年、人権を軽んじる人質司法や拘置所医療の質の低さに対する怒りは、日に日に強くなっているという。
顔面蒼白でやせ細った父の姿に唖然 それでも治療が始まらない
この問題のおかしさに気付いたのは2020年10月、外部病院での診察に付き添った時だった。
父はその3か月前から胃痛や黒色便の症状を訴え続け、輸血を施されるほどのひどい貧血になったこともあった。その末に初めて認められた外部病院での診察。久しぶりに会った父は車椅子に乗り、顔面蒼白でやせ細っていた。その姿が明らかな容体の悪さを物語っていた。
だが、勾留の一時停止が認められたのはわずか8時間。かつて手術を受けたことがある都内の大学病院に朝一番で向かったものの、病院からは「勾留の一時停止という条件下では、今日は何もできない」と検査を断られた。
次にいつ裁判所や検察が勾留の一時停止を認めるかは分からない。「せめて今わかる範囲でいいから専門医として診断書を書いてくれ」と食い下がり、<進行胃がんで、精密検査が必要>という内容の診断書を何とかもらうことができた。首の皮一枚つながった気がした。
予想外に昼前に帰されてしまった病院を後にしながら、大きな恐怖感に襲われていた。診察室で偶然見えた父のカルテ。そこに書かれた「5.1g/dL」というヘモグロビンの値は基準値の半分以下で、通常なら即入院のレベルだからだ。
「こんなに病状が重いのになぜ治療が始まらない。このままじゃ拘置所の中で死んでしまうかもしれない」
目の前で起きていることが全く理解できなかった。座っているのもしんどいという父をカラオケボックスに連れて行き、ある提案をした。
「路上で倒れて救急車を呼ぼう」
勾留一時停止の時間を過ぎようが、とにかく病院に入って治療を始めないといけないと思ったからだ。だが、律儀な父の答えは「迷惑をかけてしまうから、今日は帰るよ」。拘置所に戻る姿を見送りながら、尊敬する父のために何もできないことにやるせなさが募った。
大人になって知った父の凄さ 人生の転機の度に相談
父の凄さが分かるようになったのは大人になってからだった。大学の授業で課された応用数学の問題に苦戦していると、東京工業大学出身の父があっという間に解いてしまった。その頭の良さに驚いた。
曲がったことが嫌いで、自分が信じた道を行く人だった。高度経済成長の時代に東工大を出て、大企業から引く手数多だったにもかかわらず、中小企業をあえて選んだ。人の命令を聞くのが嫌で、開発から営業まで個人に裁量があるベンチャー志向が合っていたからだ。
仕事にも熱心だった。九州の漁協から「養殖の魚に食いつきがいい餌を作りたい」と相談を持ち掛けられると、メダカを突然自宅に買ってきて、粉末状のエサを自分で作って実験していた。アイデアを思いつけば、いつもノートにメモ。顧客のニーズに合ったものを作るために試行錯誤することが好きだった。そんな父だったから、職場の昇任試験など人生の転機が訪れる度に相談することが増えていった。
入院が認められるも、がんが転移し手術できる状態ではなかった
父が入院できたのは2020年11月、初めての外部診察から約3週間後のことだった。だが、検査の結果、がんは肝臓に転移。がんに冒された組織からの出血が放置されていたため貧血がひどかった。体力の消耗は激しく、手術ができる状態ではなかった。輸血をしながらの弱い抗がん剤治療しか方法はなかった。
治療の甲斐もあってか、一時は快方に向かった。だが、年が明けると病状が再び悪化。1月中旬には歩くこともままならなくなった。抗がん剤治療は中止され、緩和ケア病棟に入院することに。面会すると、父はいつも母(75)のことを心配していた。
「あいつ一人残して大丈夫かな」
「息子が2人もいるから大丈夫だよ」
2月になると話すこともできなくなり、父はそのまま帰らぬ人になった。