日本フェンシング 世界最強への軌跡(下) 「革命児の挑戦」〜強くなるための逆算と創意工夫、若きリーダーの育成
足立真理
日本フェンシングチームのパリ五輪での活躍は、人々の記憶に鮮明に焼き付いた。しかし歴史的快挙の陰には、四半世紀にわたる苦闘があった。
「親であり、兄である」。日本フェンシング界のレジェンドである太田雄貴にそう言わしめたのが、革命児とも呼ばれる齊田守(56)だ。
彼の下で日本はいかにして世界の最強の地位にのしあがったのか。軌跡の後半をたどる。(敬称略)
伝説の「500日合宿」
北京五輪を2年後に控えた2006年のある日、ウクライナ人コーチのマチェイチュクは、日本の練習日数の少なさについて齊田に指摘した。
当時の選手らは学生や社会人として、仕事や学業をこなしながら限られた時間で練習していた。コーチ陣も同様で、日中は本業に従事し、空いた時間に指導するのが当たり前で、遠征は長期休みでないと帯同できなかった。
マチェイチュクはそんな状況に異を唱えた。「ロシアの選手やコーチは365日フェンシングだけに集中している。日本が勝てると思いますか」。プロコーチとしてもっと高みを目指したい強い訴えだった。
当たり前すぎる事実に齊田は衝撃を受けた。「1年中フェンシングだけをやるなんて不可能だ」と無意識に決めつけていた自分を恥じた。
協会会長の山本秀雄に掛け合うと、山本は「相手が365日なら、こっちは500日で行こう!」と返し、力強い後押しを約束してくれた。