「ここの水は飲めません」突然の知らせが、私を不安に突き落とした……流産との関係はあるのだろうかと
祈るような思いでうつむいていると、医者が言った。
「心音が聞こえませんね」
恐れていたセリフがまた耳に響いた。3度目の流産を告げられたのだ。
東京で産んだ長男は元気なのに、自然豊かなこの町に移り住んだ後、流産を繰り返した。
3度とも妊娠初期だった。「不育症」ではとも考えたが、「理由はわからない」と医者は言った。
一家3人で東京を離れたのは、2011年の東日本大震災の直後だった。憧れていた自然の中で暮らそうと、知人のいる岡山の吉備中央町に引っ越した。人の優しさに触れ、ここで生きていこうと決めた。こどもは3人ほしいと、大きな家も建てた。
太陽光パネルで電気をまかない、薪ストーブを置き、トイレもコンポストにした。手をかけて循環型の暮らしを実践する。
でも、大家族で暮らす夢は、流産でかなわなくなった。
私がいけなかったのか。ずっと自分を責めてきた。涙があふれる日々を重ね、38歳になった。
この間、哀しさを埋めるかのようにヤギを飼い、羊を飼い、犬を飼った。
体のためにもと、ヤギと犬を連れて2時間ほどの散歩に出かけるようになった。山に分け入り、沢沿いに木々の間を登っていく。澄んだ空気を吸いながら、つかのま気持ちが晴れた。
そのヤギが、5年前からこどもを産まなくなった。
犬は昨年、3匹生んだが、2匹は死産で、1匹は目が青かった。親犬の目はいずれも黒いのに、だ。なぜかはわからなかった。
犬はいつも、わきを流れる沢の水で喉を潤していた。
突然の「ここの水は飲めません」
その知らせは、夕暮れどきに突然、届いた。
岡山県の真ん中にある吉備中央町。970年の伝統を誇る「加茂大祭」が終わった翌日だった。10月16日の午後5時すぎ、同じ地域の班長が1枚の紙を持ってきた。
<円城浄水場区域飲水制限について(お知らせ)>
水道水から国の暫定目標値を超える値が検出されたため、飲用水を飲まないように、と伝えていた。
詳しい状況はわからないが、とにかく水が飲めなくなるらしい。代わりとなるペットボトルは午後7時までに給水所に取りに行かなければならないという。
困った。実は家を建てるときに井戸を掘ったが、水脈にあたらなかったのだ。だから水だけは町に頼ってきた。
お知らせに記された「PFOA」という文字が目にとまった。ああ、この名前は、少し前にネットのニュースで見た覚えがある。たしか、「永遠の化学物質」と呼ばれているものだ。
そういえば、前に住んでいた東京・多摩地区の友人たちから「米軍の横田基地で使われた泡消火剤が原因で、水が汚染されたらしい」と聞かされていた。夫は、大阪のダイキンという企業の工場による汚染についても知っていた。
すぐに環境省のホームページを見てみた。
PFOAやPFOSによる汚染は、全国のあちこちで起きているようだ。でも、岡山県内の数値は低い。この町には基地もないし、工場もない。なぜなんだろう――。
わからないまま、さらにネットで調べた。
すると、健康被害としていくつかの病名が並んでいた。腎臓がん、精巣がん、潰瘍性大腸炎、甲状腺疾患、高コレステロール(脂質異常症)、妊娠高血圧症。
もしかして、私の体調とも関係しているのでは……不安がよぎった。
沢からもダムからも高濃度のPFOAが
1カ月後、岡山県の調査で、汚染源と見られる使用済み活性炭置き場の直下にある沢から6万2千ナノグラムのPFOAが検出された。目標値の1240倍だ。散歩の時に犬がよく水を飲んでいた、あの沢だった。
町が供給する水道水は、この沢が流れ込む河平ダムから取水していた。当初、隠されていた浄水場での水質検査結果も明らかになった。
2020年 800ナノグラム
2021年 1200ナノグラム
2022年 1400ナノグラム
国が定める目標値は50ナノグラムだ。怒りが込み上げた。でも、もう飲んでしまった。どうしようもない。
追いかけるように不安が押し寄せた。水はいつから汚されていたのか。体の中にどれだけ取り込んでしまったのか。体のことと因果関係はあるのか、ないのか。犬や羊のことだって気になるけど、単純に結び付けていいものかも分からない。本当に、何も分からないのだ。
血液を調べてもらってはどうだろうと、友人たちに声をかけた。
「思ったより小さかった」難産の40代女性
「思ったより小さかったですね」
2歳の娘がいる40代の友人は、出産した時に医者からかけられたその言葉が、ずっと気になっていたという。
難産の末に生まれた赤ちゃんは、低体重児の目安となる2500グラムを下回っていた。ひどい黄疸のため、すぐに新生児集中治療室(NICU)のある国立医療センターに移され、約2週間、24時間の光線療法を受けた。
産むまでの道のりも平坦ではなかった。妊娠後期、切迫早産といわれて一時入院し、しばらく「絶対安静」が続いた。生まれたのは予定日より2週間ほど早かった。低体重で生まれると、免疫や発達など、その後の成長に影響があると言われている。
産後のうつを脱し、卒乳もして、ようやく心穏やかに子育てに向き合えるようになった矢先、PFOAによる飲み水の汚染を知らされた。
「母乳から娘に毒を飲ませてしまったのか。ミルクを溶く水も汚れていたのか」
「これから娘はどう育っていくのだろう」
考えはじめると不安で眠れないという。
「できるだけ水を飲んだ」60代女性の不安
町に暮らして40年あまりになる60代の主婦は、「腎臓の機能が落ちている」と医者から言われ、いま、4種類の薬を飲んでいる。
食材はずっと有機、無添加のものにこだわってきた。味噌汁は、自分だけ味噌を入れないなど塩分も控え、口にするものには細心の注意を払ってきた。
このところ、医者の勧めにしたがって、できるだけ水を多く飲むようにもしてきたという。
その水が高濃度のPFOAを含んでいたのだ。
「重金属を取り除くような高性能の浄水器を使ってきましたが、PFOAは取り除けなかった。私のこともですが、こどもや孫たちの健康に影響がないかがなにより気がかりです」
孫の小学校では、PTAが水汚染について話し合う場を設けてほしいと求めても校長が取り合ってくれない、と耳にした。このままうやむやにされてしまうのではないか。
とにかく影響があるのかどうかを知りたいだけなのに……不信感が募った。
定年退職を機にUターンして10年になる70歳の男性は、現在、農業を営んでいる。米づくりなどで体を動かしているだけに自分は健康だと思っていた。
それが、3年ほど前からコレステロール値が急増した。医者からも原因は分からないと言われていた。そこにPFOAのことを聞いたのだ。調べれば調べるほど、そのためではないかという思いが膨らんだという。
体調不良と飲み水の汚染は関係あるのか
この間、吉備中央町は汚染された水源からの取水を止め、別の水源に切り替えた。その後、国の設ける目標値を下回ったとして、水道水の供給を再開している。
PFOAに汚染された水と、住民の不調との因果関係はわからない。
ただ、人々の体内に取り込まれたPFOAはなかなか消えず、血中濃度が半分になるまでの半減期は数年と言われる。
それだけに、どれくらいのPFOAが体の中にあるのかをまず調べてほしい。住民たちはそう考え、血液検査を求める署名を町に提出した。すぐに動かないとみると、全国の汚染地域で血液検査を行ってきた専門家に助けを求めることにした。
依頼を受けた小泉昭夫・京大名誉教授は11月26日、現地に足を運んだ。27人から採血した検体は京大へ送られた。
原田浩二・准教授が測定機器にかけると、しばらくしてPFOAの濃度を示す曲線が画面に現れた。
それは、これまで見たことがないほど高く跳ね上がっていた。
現在配信中のスローニュースでは、吉備中央町の27人の住民に行われた血液検査のデータを明らかにしている。判明した衝撃的な数値とは。
取材・執筆 諸永裕司