見出し画像

原子炉・加速器で癌を治す 第2回 癌が消えた!

取材・執筆:下山進

 ハムスターの頬袋を頭頸部癌に見立てた実験に成功したアルゼンチンのマンディは、ドイツ・エッセンの学会で、頭頸部癌に照射をうけた60代の女性の驚異的な治癒の発表を聞く。

京大原子炉実験所にある軽水炉 小野公二提供

 京大原子炉実験所は中に入ると町工場のようだ。むきだしで様々な機械が殺風景にならんでいる。

 大阪の梅田からJRと徒歩で一時間半、大阪府熊取にある京大原子炉実験所の準備委員会ができたのは、1956年。すでに始まった冷戦のなかで、原子力の平和利用がしきりと唱えられていた時期でもあった。初代の準備委員長は、陽子や中性子を互いに結合させる媒介となる中間子の存在を1935年に予言し、ノーベル賞を受賞(1949年)した湯川秀樹。5000キロワットの軽水炉が稼働したのは、研究所設立1年後の1964年だった。

 実験所内部は暖房設備がなく12月の冷気がおしよせ寒い。電気ストーブをいくつもいれているが、医者の吐く息が白い。

 患者には夫がつきそってきていた。夫は妻のことをかいがいしく面倒をみていた。ムチン質の粘液を「指でこうほじってもとれない」と加藤に訴え、バキュームで粘液をとったこともあった。

 照射の説明をする際に、中性子が出てくるコリメーターの模型を診察室にもちこんで説明をしたことがあった。壁に模型をかけて、「ここに密着しなくてはならないので、何か固定具が必要ですね」そう加藤が言うと、ホームセンターで、風呂場の木の椅子を探してきて、それを改造して手製の固定具をつくったのも夫だった。

 前日は、りんくう総合医療センターという泉佐野市にある阪大系列の病院に一泊している。ここで12時間前にホウ素剤を点滴していれていた。加藤らは宿直室に泊まり、血中の濃度を測りにいった。

 中性子は、原子炉のなかから重水タンクをへて出てくる。その出口のところに仰向けに寝て左側の頬をくっつけるのである。夫がつくった固定具で動かないようにする。

 照射は2時間かかる。患者はお嬢様育ちで、夫にすぐに文句を言う。

「こんな姿勢でいつまでやるん?がまんできんわー」

 夫は、「がっばってるよ。いいよ」と励ましていた。

 午前中11時から始まった2時間の照射が終わった。タクシーでりんくう総合医療センターに戻ってこの日の治療は終わった。

 加藤はその日は、そのまま大阪に戻り、翌日阪大の勤務を終えたあと、りんくう総合医療センターに患者の様子をみにいった。

中性子の取り出し口で照射をうける女性の患者

「先生痛みがなくなったんです」

 りんくう総合医療センターについたのが、夜の6時とか7時だったと思う。患者の患部のガーゼをとった時のことである。

 いつもはどろっとした粘液がガーゼについているのだが、この日はついていなかった。カルテに「明らかに粘液の量が減少」と記した。

 原子炉実験所の小野公二が、患者を見舞ったのは、照射三日後のことである。

 小野は、腫瘍があまりにも大きすぎたので、一回の照射では、全領域をカバーできいないことがわかっていた。本当は二回照射をしたほうがいいのだが、患者の状態を慎重に診る必要がある。

 頭頸部癌の患者にBNCTの照射をするのは世界で初めてのことだ。これが失敗したらば、後の研究に大きな打撃になる。だから慎重にやれ、そう小野は京都大学医学部時代の恩師にもアドバイスをうけていた。

 患者は開口一番こう言ったのである。

「先生、痛みがなくなったんです」

 ガーゼをとって患部を診た。治療前は増大する腫瘍の為、腫瘍を覆う皮膚がかちかちに張りつめていた。ところが、心なしか皮膚の緊張が取れて少しばかり皺が出来始めていた。そして明らかに血液の混じった浸出液が減っていた。

 小野は、すぐに臨床研究の可否を判断する倫理委員会に報告し、二度目の照射の日程を一カ月後に設定した。

 加藤も腫瘍が固く張りつめていたものから、ゲル状の波動を感じるものに変わってきたことに気がついていた。4日目には、出てくる液がそれまではゾル状だったのが、あきらかにゲル状でさらさらになっていた。6日目のメモには、カチカチだった腫瘍全体がブヨブヨと波動がつたわるような感じになってきていたと記している。組織が壊れて、ムチンという粘液物質を産生していた細胞が壊されてきたことが想定された。がんの粘液細胞が壊されている。腫瘍の一端をおすと端の一端がぶるんと動く感じだ。

 照射の11日後には、腫瘍の大きさは、照射時の87.5パーセントに縮小していた。

 二度目の照射を行った一カ月後には、腫瘍の大きさは6割程度まで縮まっていたのである。

腫瘍が完全消失

三度目の照射をした五カ月後の様子。腫瘍はほぼなくなり健康な皮膚が覆った。

 それから2年半かけてどんどん腫瘍は小さくなっていった。表面が潰瘍だったのが、普通の皮膚で覆われてくるのがわかった。最初の照射から1年たった時点で、耳の下から頸にかけての部分が縮小がいまひとつだったので、その部分に限定して3度目の照射をおこなった。その結果そこの腫瘍も元の体積の6パーセントまで縮小した。

 この女性の患者は小野公二にしみじみとこう言っている。

「先生、私これうけていなかったらとっくにだめになっていたでしょうね」

 小野も、もしあのままだったらば余命はあと一年もたなかったと思った。

 BNCTを受ける前の放射線治療では、激しい口内炎の副作用に悩まされ途中で中止したが、BNCTの場合、照射した部分に脱毛は見られたものの、厳しい副作用はなかった。さらに重要なのは、腫瘍がなくなって、正常皮膚が再び覆ったことである。

 このことは、癌細胞だけを選択的に殺し、正常細胞は傷つけなかったことを意味した。

 4年後、照射野の縁辺から腫瘍が再度増殖してきたので、さらに2回のBNCTを行った。

 6年後に、患者の夫は、「医用原子力だより」という医用原子力技術研究振興財団の機関紙に「BNCT関係者への手紙」と題する原稿を、寄せている。

<私の妻は、唾液腺悪性腫瘍に対して、京都大学原子炉実験所(KUR)で2001年より、ホウ素中性子捕捉療法(BNCT)の5回の分割照射治療を受け、腫瘍はほとんど消失し良好な経過をたどっています。私たちにBNCTの機会を与えてくださったKURと治療に関わった人々に深く感謝しています>

 この患者は最初の照射から7年後に誤嚥性肺炎で亡くなる。

 死亡時、腫瘍は完全消失していたことがわかっている。

ドイツのエッセンで開かれた学会で加藤逸郎は67歳の女性の症例を発表した

ドイツのエッセンで

「BNCTを行った再発頭頸部癌の二つの症例について」(Boron Neutron Capture Therapy for 2 Cases of Recurrent Head and Neck Tumors)。

 2002年9月,ドイツのエッセンで開かれた第10回中性子捕捉療法国際会議、その実施目録をみていたマンディは、自分がターゲットとした頭頸部癌についての発表があることを知り、トクンと胸が高鳴った。

 このふたつの症例というのは人間なのだろうか?

 ブエノスアイレスからドイツのエッセンまでは、直行便はない。乗り継いで17時間はかかる。しかし、マンディはこの日本人のグループの発表だけは聞かなければならないと思っていた。

 発表が始まった。発表者は大阪大学歯学部附属病院口腔外科の加藤逸郎である。

「BNCTはこれまで、脳腫瘍とメラノーマのみに試されてきました。しかし、試験的な調査では、他のがん、扁平上皮癌や肝細胞癌、すい臓がん、軟部肉腫などにも有効なのではないかという証拠が出てきています。これは、世界で初めての頭頸部癌に対するBNCTの臨床例です」

 ざわついていた会場は最後の一言でシーンと静まりかえった。

 マンディもその一言に息を呑んだ。

 症例1として、加藤と小野が2001年12月に照射を行った67歳の女性の基礎データが説明され始めた。2001年12月18日と2002年1月22日の二回にわたって照射をおこなったこと。照射時間は一回目が60分、二回目が70分だったこと。ホウ素剤を使って、癌細胞は健康細胞の3.5倍ホウ素をとりこんでいたこと等がてぎわよく説明されていく。

 そして12枚目のスライドに会場はどよめく。

「結果、臨床的所見」とだけタイトルのあったそのスライドは、2001年12月18日つまり照射前の患者の患部と、2002年8月8日、一回目の照射から1年8カ月後の患者の患部がならべられているものだった。

 巨大な腫瘍の中心が潰瘍状態になって出血していたのが、BNCT照射後、まだ突起はあるにせよ、潰瘍がなくなり、腫瘍は縮小、普通の皮膚に覆われているではないか。

 マンディはその写真を見ながら、震えるような感動を覚えていた。

 質問の時間になった。

 マンディはまっさきに手をあげて加藤にさされた。

 質問をしなくては・・・・。だが、声が出てこなかった。

「ありがとう。ありがとう」

 という言葉が口をついたと思うと、涙があふれてそれ以上は言葉にならなかった。

 日本の科学者は、ずっと先を行っていた。そして実際に苦しむ患者を治したんだ!

原子炉から加速器へ 

 このエッセンでの加藤と小野の発表は、研究の様相をがらりとかえることになる。小野に言わせれば「そのとき歴史が動いた」のである。

 この成功は大きいと小野は考えた。

 というのは、原子炉での治療に小野は限界をみていたのである。原子炉のままではどんなに成功しようと、薬事承認され、保険適用されるということはありえない。原子炉についている重水の装置、すなわら中性子のとりだし口だけでも、医療用機器として、認められないかと、厚生省に打診をしてみたが、駄目だったのだ。

 しかも、京大原子炉実験所の原子炉は2006年に廃炉にすることが決まっていた。

 2000年代に入り、実験用の原子炉の意味が問われ始め、世界の各地で廃炉が決まっていっていた。このまま原子炉に中性子源をもとめる限り、BNCTは袋小路になる。

 では、他の中性子源とは何か? 病院にも併設できる中性子源とは?

 小野は、医療用の加速器の開発を考えていたのである。

 その開発に今回の成功は大きな弾みとなる。

つづく

証言者・主要参考文献

加藤逸郎、小野公二、Amanda E . Schwint

「有望な放射線治療について」佐々木良平、出水祐介、吉村亮一、加藤逸郎、口腔腫瘍 2019年

「BNCTの臨床;頭頸部 頭頸部癌におけるBNCTの適応と可能性について」 加藤逸郎 RADIOSOTOPES 2015年 

冒頭のサムネイル Photo/Getty Images


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!