【新聞記者から国際協力へ】難民支援の現場で分かった「危機に強い」記者ならではの3つの力
記者や編集者のキャリアについて考える連載企画「私のメディア転職」。今回話を伺ったのは、毎日新聞出身の小林洋子さん(38)です。現在は企業の危機管理広報のコンサルタントとして活躍しています。
毎日新聞記者時代に東日本大震災を経験した小林さんは、その後も国際NGOで難民支援に従事するなど一貫して「危機」に関わってきました。
学生時代から海外志向が強かった小林さんですが、難民支援の現場で役立ったのは語学力よりも、記者時代に培った3つのスキルだったそう。
前編では、小林さんの記者時代の仕事のやりがいや難民支援の仕事に転職した際の苦労などを振り返ります。
聞き手 石井大智
世界の現場を伝える仕事がしたい
──これまでのキャリアを簡単に教えてください。
小林:
2009年に新卒で入社した毎日新聞社では約8年勤務しました。初任地の秋田支局で5年過ごした後、東日本大震災の被災地取材を希望して福島支局へ。その後は東京社会部で東京地検特捜部が担当する事件を取材しました。
国際NGO「難民を助ける会」に転じた後はトルコに駐在。トルコ国内からシリアの難民や国内避難民への支援プロジェクトに約3年従事しました。
危機管理広報コンサルティング会社「エイレックス」では2020年6月から働いています。
──中東に興味を持ったきっかけやファーストキャリアで記者を選んだ理由を教えてください。
小林:
中東に初めて関心が向いたのは、中学生の頃でした。当時は、アメリカで起きた「9.11同時多発テロ事件」(2001年)を契機に、アフガニスタン紛争が勃発。中東情勢に触れる機会が多くありました。当時のニュースを通じて「中東を通して世界を見てみたい」という思いが芽生えました。
大学は東京外国語大学アラビア語学科に進みました。語学だけでなく、地域や文化の理解を深めることができる場所で、ここで学べばグローバルな視点を持てると思ったのです。ゼミでは国際法を学びました。
それと同時に、「現場の声」を伝えるメディアの仕事にも関心が高まっていきました。授業の一環で、全国紙の中東特派員の方の話を聞く機会があったのですが、紛争の現場を歩いて現地の人の苦境や悲しみ、課題を伝える姿に感銘を受けました。しだいに記者の仕事に強く惹かれるようになりました。
また、NHKラジオ国際放送(アラビア語版)でアルバイトを経験し、メディア関係者との接点が増えたことで、記者への憧れが明確になりました。
──新卒で毎日新聞への入社を決めた理由は何だったのでしょうか。
小林:
毎日新聞は署名記事が基本で、記者個人の取材力が問われる媒体だという印象がありました。人物に焦点を当てた記事が多く、人間ドラマを軸に社会問題を伝える点が魅力でした。「右肩下がり」と言われる業界構造は認識していましたが、デジタル化が進んでも「現場で取材して伝える」という記者本来の意義は変わらないと感じ、挑戦してみることにしました。
駆け出し時代に起きた東日本大震災
──記者時代の思い出深い仕事を教えてください。
小林:
力を入れたのは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に関する取材です。大震災が起きたのは、入社2年目の終わり頃。震災発生から1週間後には応援取材のため、宮城に向かいました。
秋田からマイカーで国道を走って、何とかたどり着いた被災地。宮城県の女川や仙台の沿岸部では言葉を失いました。津波で街がほぼ消失していたからです。
沿岸部の田んぼ近くにはブルーシートをかけられた遺体が寝かされていました。遺体安置所では亡くなった方の顔写真が何枚も並べられていました。その光景を目の当たりにして、いかに多くの命が失われたのか、その重さを実感しました。
また、避難所となっている学校を取材してみると、家族や親戚と連絡が取れない方が数多くいました。「記者として自分に何ができるのか」。そんなことを自分自身に問い続けながら、「目の前のことを記録し、伝えていかなければ」と思いを強くしました。
この取材が自分の原点だと考えています。その後も応援取材で定期的に岩手や福島など被災地入りすることはあったのですが、現場のある支局に身を置いて長期的に取材したいと考えるようになりました。そして、2014年4月、念願叶って福島支局に赴任しました。
福島で取り組んだ自治体職員の心のケア
──福島支局員として特に力を入れた仕事を教えてください。
小林:
福島が岩手や宮城と違うのは、震災と原発事故の複合災害の現場だということです。地震や津波で家族を失った人もいると同時に、故郷から強制避難や自主避難を余儀なくされた人もいる。避難指示区域では土地が荒れ果て、雑草が自分の背丈ほどになっていました。
赴任して間もない頃、問題意識を持っていたのが家族離散の問題でした。福島県が実施した当時のアンケートによると、避難者約14万人(6万2812世帯)のうち、半数が家族バラバラの状態で避難生活を送っていました。
避難指示が解除され始めた後も、住民は移住か帰還かを迫られていました。仕事や福祉の問題もあれば、放射線への不安についても家族内で判断が分かれる。避難生活で生活が一変したストレスに加えての家族の離散。原発事故が家庭に及ぼしたダメージはあまりにも大きいと感じました。
「家族の速やかな修復を──離ればなれの原発避難者たち」と題した記者コラム(2014年6月25日付け毎日新聞)では、<福島県民を苛む家族の分断を修復しなければ、福島、日本の復興は見えてこない>と書きました。
福島にいた2年間のうち、避難自治体の職員のメンタルケアの課題についても取材を重ねました。自らも被災しているのに、被災者支援に奔走している姿を見てきたからです。
仕事量の増加に加え、住民の不満や不安が支援している職員に向けられることもある。職員の心の負担がどのようなものなのか、その課題や現状を伝えたいと思いました。被災自治体へのアンケートや専門家らに取材した内容は、連載「心に寄り添う─自治体職員ストレス問題─」という形で世に出すことができました。
<震災理由に106人退職 心身の疲弊申告>と全国版の一面で報じたほか、三面や地域版でも記事を展開しました。
すると、福島県内で被災者支援にあたる医療関係者などから「問題の深刻さがよく分かった。今後の活動の参考にしたい」「従来の震災報道にはない視点が目を引いた。これからも頑張ってほしい」などと反響が相次いで寄せられました。社内でも「原発事故の影響を多角的に報道した」と評価され、賞を頂くことができました。