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「世界最強の男」井上尚弥と闘い、敗れた者たちを描くノンフィクション

あふれるニュースや情報の中から、ゆっくりと思考を深めるヒントがほしい。そんな方のため、スローニュースの瀬尾傑と熊田安伸が、選りすぐりの調査報道や、深く取材したコンテンツをおすすめしています。きょうのおすすめはこちら。

怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ

世界最強の男と闘うということは、どういうことなのか。

世界のボクシング界を席巻する井上尚弥と戦い、負けた男たちにリングで体感した「怪物」の強さを語ってもらう。拳を交えた者にしかわからないことを聞き、最強ボクサーの姿を描き出す。

筆者である東京新聞運動部記者の森合正範さんはそんな決意をしたものの、一方で、「深く傷ついた敗戦に第三者が触れていいものか」というためらいを持ちながら取材をスタートします。

しかし、相手を訪ねてみると、みな堰を切ったように2時間も3時間も井上について語るのです。それを聞かれるのを待っていたかのように。

結局、日本を飛び出し、メキシコやアルゼンチンにまで取材は及び、本ができるまでは5年の月日がかかります。その執念から生まれたスポーツノンフィクションが、今日のおすすめです。

すでに三刷りと売れている本ですが、井上という存在は知っていてもボクシングには強い興味がなかった私も読みだしたら止まらなくなったのは、ここで描かれた敗者の姿が輝いていたからです。

たとえば日本人同士の世界王者対決となった河野公平との対決です。

世界王者から陥落し、ボクシング人生も終焉かという諦念さえ抱いていた河野に、井上との試合の話が舞い込みます。奥さんは「やめて!井上くんだけはやめて!」と叫んで止めたのですが、河野はこう諭したのです。

「俺からしたら、これをやらなかったらボクシングをやっている意味はない。強い男と戦わなければボクシングをやる意味がないんだ」

試合当日。5回まで勢いにのっていた河野ですが、6回、井上から左フック3連発をくらい、ダウンを喰らいます。そのあとも奮戦したものの、結局、二度目のダウン。プロ43戦目ではじめてのKO負けでした。

しかし河野は井上に負けた後、再起戦にのぞみ、そこで勝利をつかみます。

「怪物」に挑み、そして負けてもなお絶望しない彼らを、筆者は「敗者」と見ていません。

そして、そんな彼らに勝つことで、その人生をも背負うことになる井上の圧倒的な強さにも、また魅せられます。

日毎に寒さが厳しくなる中で、読み終えると体の芯が熱くなる。そんな一冊です。(瀬)