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さらば「NHK取材ノート」、すべてのメディアのさらなる進化と新たな表現を目指した奇跡のような3年半

今日の必読は特別編です。NHKは2020年12月からスタートした「NHK取材ノート」を6月末で閉鎖すると発表しました。「放送法改正のために新聞協会との取り引きの道具にされた」というのが、もっぱら聞こえてくる話です。

取材ノートからは、いわゆるかつての新聞社的な発想ではでてこない書き方の記事が次々と発信され、「バズる」記事も数多く出ました。「民業圧迫の象徴」と名指しした新聞協会や民放連の古株にとっては、自分たちの記事が読まれないなかで、「脅威」に見えたのかもしれません。

でもそれは大きな誤解です。なぜなら取材ノートは「NHKのため」に作られたものではないからです。

取材ノートは「あらゆるメディアのための実験場」だった

取材ノートをなぜ立ち上げたのか、そこには大きな目的がありました。「ニュースが読まれない、見られない、興味を持たれない」と言われる中で、ではどういう書き方、発信なら読まれるのかを試すということです。いわば表現と発信の実験場として、設置を認められたものでした。

これは決して「NHKの公共メディア化」のためだけに行ったことではなく、最終的にはあらゆるメディアに還元することも目的としていました。

従来のような「上から目線」と見られない解説記事はどう書けばいいか。共感を得られる一人称記事とはどういうものか。紋切り型にならないウェブに最適化した表現とはどのようなものか。そのノウハウを蓄積していきました。そして、メディアとして発信したニュースへの説明責任を果たす場もなかったので、その役割も担おうとしていました。

実際、各地の新聞社やテレビ局で、成功したことだけでなく、失敗したことも含め、その経緯や手法を公開してきました。

さらに、いまメディアは自社で「成果が出るかどうかわからない実験ができる場」をなかなか持てません。いずれは他メディアに取材ノートという場を開放することも、公共メディアの役割として視野に入れていました。

そんな場所を、新聞協会もNHKも、自ら葬ってしまったのです。

立ち上げの理念や詳しい経緯については、長くなってしまうのでここでは述べません。興味のある方は、ITmediaのこちらの記事によくまとめられていますてので、そちらをお読みください。

どんな記事が読まれ、評価されたのか、独自の視点でピックアップします

というわけで、今回は実験場たる「NHK取材ノート」の中でもとびきり評価が高かった記事をご紹介していきたいと思います。これらの記事はnote上では読めなくなりますが、NHKの公式サイト内にコピーサイトがあり、新規発信はありませんがアーカイブとして引き続き読むことができます。

「マスコミのヘリが救助の邪魔という批判」に正面から向き合う

東日本大震災の発生から10年の節目で発信された記事「ごめんなさい 救助のヘリじゃなくてごめんなさい」は、最も高い評価を受けた記事だったのではないでしょうか。

発災直後に上空から取材にあたった2人のカメラマンに当時の話を聞いた記事です。1人は新聞協会賞を受賞しながらもNHKをやめる選択をし、もう1人は残って被災地を撮り続けていました。

「見てしまったことの重み」を感じ続けた2人の独白と、ウェブならではの表現で多くの読者に届き、報道ヘリやメディアの仕事の意義について感じ取ってもらえたようです。以下のような反応が目立ちました。

「初めてNHKに好感持てた。1度でいいから読んで欲しい」
「いつも災害の映像を見るたびに感じていました。救助の邪魔になるのでは? 早く救助ヘリを呼んであげてよ!と。このタイトルを見て、本文を最後まで読ませていただきました。想いを知って涙が出ました。伝える仕事と助ける仕事。どちらも等しく大切でした。この記録があるから、後世に伝えていける。葛藤やジレンマに苛まれるお気持ちが、痛いほど伝わってきました。 伝えてくれてありがとう。 教えてくれてありがとう」

この記事は、「Internet Media Awards 2022」でテキスト・コンテンツ部門賞に輝いています。

「災害報道は読まれない」を打ち破る

どんな大災害でも、あっという間に記事が読まれなくなっていきます。これは決して読者が冷たいわけではなく、「〇〇地震について」などの冠を見た瞬間に、読まなくても内容を理解した気になってしまうからです。

しかし伝え続けることは大事。ではどうすればいいのか。そんなことに、ディレクターや記者の一人称で挑戦したのが、次に紹介する記事です。

震災の際には高校1年だったディレクター。何も知識がなかった彼が被災地に投入され、同年代の女性から語られた意外な言葉とは。この記事、最後にびっくりするような結末が待っています。

こちらにもこんな反応がついていました。

「泣きそう。ずっと思っていることが書いてある」
「自分が被災された方たちに対して『色眼鏡』をかけていたことにすら気付いていなかったので反省させられた。 人生で起こる出来事全てに意味を求めなくてもいいんだと思い、自分自身も楽になった気がする」
「震災に関する記事でここまで共感できたものは初めて。自分が被災地や311報道に関して抱えているモヤモヤがここまで文章化されていることに驚いた。素晴らしい記事を、本当にありがとう」

もう一つはこちら、発災時に宮城県石巻市の沿岸部で取材していて九死に一生を得た記者の独白です。彼女は住民と共に高台に孤立し、拾った貝を食べて数日間を生き延びました。

まるでメモのように書きなぐった記事は、同人誌のようにこなれてないザラザラしたものですが、そこがむしろいいと考えてそのまま出しています。だからこそ記者っぽい目線ではなく、共感を得られたのではないかと。

災害担当デスクが、その原点になった子ども時代の思い出を書いたのがこちらの記事。伊豆大島に住んでいた一家が、島の火山の噴火にどのように向き合ったのか。息をもつかせず読み続けてしまう、ハラハラするドキュメントになっています。

岩手県釜石市が大津波に飲み込まれる様子を撮り続けた「トクさん」。亡くなった彼が残したのは、衝撃的な映像だけではありませんでした。なぜ彼は釜石に居続け、何を伝えようとしていたのか。

一人称ではありませんが、こちらの記事もよく読まれました。今回の能登半島地震でもそうですが、なぜNHKのアナウンサーがいまの「絶叫スタイル」になったのか、そのことを明らかにしたインタビュー記事です。

調査報道だって読んでもらうことはできる

時間と手間をかけた本格的な「調査報道」。記者にとっては一番読んでもらいたいものですが、災害報道と同じように読まれないことが多々あります。しかし読んでもらう手立てはあります。

香川県で開かれる国際会議をめぐる怪しい動きに、事件の匂いを感じ取ってしまったカメラマン。調査報道なんてやったこともないのにどうすれば。彼の怒涛の挑戦は、ついには日本各地への不法入国をたくらむ国際的な組織の謀略にたどりつくことに。これも一人称での独白です。

次に紹介するのは新聞協会賞を受賞したスクープの背景を描いたもの。「戦没者の遺骨」として千鳥ヶ淵の墓苑に納められているのが実は日本人でさえなかったという衝撃的な事実が発覚。国にとって不都合な真実を暴きました。

特に後編、広大なシベリアで日本人を埋葬したとされる場所を探して疾走する記者の一人称パートは、読みごたえがあります。

30年後に機密指定が解除されて公開される外交文書。しかし例えば「天安門事件の現場で当時何が起きていたか」を普通に書いても、よほど歴史や政治に興味のある人でないと読んではくれません。

そこで定番の書き方を捨て、記者の個人的な体験と歴史の1ページを結びつけて書かれたのがこちらの記事。天安門事件の際に現地にいた日本人を救うため、あえて規則をやぶる決断をした男性の告白は、一読すれば胸が熱くなります。やはり爆発的に読まれました。

「記者は当事者であっていい」

「記者は取材すべきことを、客観的に見なければならない。だから、当事者は取材に関わるべきではない。そう思い続けてきた。記者になって10年以上が経過し、その考えが変わったきっかけがある」

そんな自らの経験を書いたのが、現在は報道局社会部のナンバー2、取材指揮をとる「統括」を務める山崎真一さんの記事です。

小学1年生の時に小児脳腫瘍を発症した娘を目の前にし、彼は何を考えたのか。記者人生をも変えてしまうその決断の背景を赤裸々に明かしています。

永田町を闊歩するバリバリの政治部記者だった杉田淳さんは、緑内障で視力を大きく失ってしまいます。

目が見えないまま記者を続けてもいいのか、できるのか。そんな葛藤の中で道を見つけていくストーリー。杉田さんはもともとテレビ記者らしからぬ文才がある人なので実に読みやすく、思えばこれが「取材ノート」1本目の記事でした。

そんな彼は今年度から、ラジオのキャスターにも挑戦しています。

英語しか使ってはいけないと母親から厳しく教育された記者。苦悩と葛藤が多かった自分の人生をふりかえる……そんな記事なのかと思いきや、ちょうど記事の折り返しのところで急転直下、ある特攻隊員のエピソードに。どういうことなのかは、ぜひ記事のほうで。

これもなかなか読まれない「戦争を語り継ぐ記事」ですが、こうした形をとると読まれるという実例です。私は「神様、もし生き残ることができたなら」のところで不覚にも目頭が熱くなってしまいました。

「リスキリング」時代に希望になる記事

リスキリングという言葉がもてはやされる今、記者もデジタル技術を身に付けなければと焦る人も多いのではないでしょうか。

そんな人への福音となってやはりとてもよく読まれたのがこちらの記事。ガラケーしか使えない、プログラミングなってやったこともない記者が、どうやってデジタルツールを使って報道をしたのかを、全て公開しています。

この記事に触発されて、やはり同じように勉強してコンテンツ作りをした新聞社の記者も出ていて、メディアどうしで高め合ういい効果も出ています。

記者がこういうデジタルの手法を使った取材をすると、「あれはコタツ取材であって、そんなことをしているから取材力が落ちるのだ」なんてことを言う人がいまだにいますが、私に言わせれば旧態依然とした取材手法しかとってこなかったから総合的な取材力が落ちたんだと反論したいですね。

昔ながらのヒューミントな取材も大切なのは当然のことながら、それだけでは絶対にたどり着けない境地があり、今の時代、それを使わなければそれこそ取り残され、スクープの蚊帳の外に置かれるでしょう。そういうことを言う人には猛省していただくか、速やかに退場していただきたい。

ただ、以下に紹介する三輪さんの境地にまで達するのはなかなか難しい。でもこの記事も非常によく読まれたのは、みんながそこに希望を見ているからではないでしょうか。

オープンシェア革命こそが大きな目的

最後に読まれたかどうかは別にして、培ってきたノウハウやテクニックを全面公開するという取材ノートの精神が端的に現れた記事を2つ紹介しておきます。

以上、私見で偏っているかもしれませんが、高い評価を受け、印象に残った記事を選んでみました。

姿は消えても遺伝子は残ると信じて

「あんなに自由に書ける場所、もう二度とないかもしれませんね」

そんな声もNHKの中からは聞こえてきます。創設に関わった者としては残念ではありますが、この4年間で多くのメディアや記者たちに影響を与えることはできたのではないかと思っています。培ってきたことは、なに一つ無駄になってはいないと信じています。

メディアというものが、いまのメディアのままではなくなっていくのは間違いなく、そのためにはあらゆる可能性を試す、不断の努力が必要です。

そして筆を折らない限り、自由に書ける表現の場は、無数にあるはずです。スローニュースもその一つ。多くの書き手の皆さんの提案を、お待ちしております。(熊)