【日航機墜落39年目の真実】海外では「エスコートスクランブル」で救われたケースがあった!
1985年8月12日に群馬県・御巣鷹山で起きた日航ジャンボ機墜落事故をめぐり、緊急事態だと認識してから早い段階で自衛隊内部で検討され、レーダーロストとほぼ同時刻には航空管制からも要請があったことが発覚したエスコートスクランブル。仮に実施されていたら、日航機は無事だったのだろうか。今回は、海外のエスコートスクランブルの実例と比べながら検証する。
佐藤 等/取材協力 宗澤俊郎、Y・A
エスコートスクランブルの上申の直後に発進していれば
事故の状況を振り返ろう。最初の異変は離陸12分後の午後6時24分。伊豆半島南部の東方沖上空を飛行中に「ドーン」という音とともに異常が発生した。日航機が緊急事態を知らせる「スコーク77」を発したのがおよそ数秒後だ。
パイロットたちは何が起きたか分からなかった。垂直尾翼が吹き飛んでいたことも。気づいたのは、方向舵や補助翼を動かすために必要な油圧が失われつつあることだった。異常が発生してから1分半後のことだ。
その後、どう飛行したかは、運輸省事故調査委員会が報告書に載せた飛行経路図を参考にしてほしい。操縦が意のままにならず、原因さえ分からないまま30分余り飛行していることがわかる。
一方、空自峯岡山分屯基地(千葉県、通称「峯岡山レーダ―サイト」)で当時、当直勤務をしていた吉田勝氏(85)がエスコートスクランブルを上申したのは午後6時半ごろだ。間髪入れずにエスコートスクランブルの命令が出たとして、アラート待機していたF4戦闘機が離陸できるまで約5分。
実際は空自百里基地からF4が離陸して事故現場に到着するのに20分ほどかかっていた。となると、午後6時35分ごろにエスコートスクランブルの命令が出ていれば、午後6時55分ごろ、墜落地点近く扇平山上空1万1100フィート付近を飛行していた日航機に追いつけた可能性がある。