【スクープ】無呼吸症の医療器具で「健康被害のおそれ」、いまだ回収中で被害報告も
フリーランス記者 萩 一晶
夜中に大いびきをかき、何度も呼吸が止まってしまう「睡眠時無呼吸症候群」。悩んでいる患者は日本に900万人もいるという。その治療に使われる医療器具について、海の向こうから驚くべき情報が届いていた。ひょっとしたら、発がん作用などの深刻な健康被害を患者にもたらしているかもしれない、というのだ。
米国から通知を受けた販売元のヘルスケア大手「フィリップス・ジャパン」(本社・東京都港区)が、睡眠時無呼吸症の治療に使うCPAP装置(空気を鼻から送り続ける装置)や、呼吸不全の患者が使う人工呼吸器など計36万4151台の自主回収(リコール)に乗り出したのは、2021年7月のことだった。回収対象はすべて米フィリップス製。米国からの輸入品だ。
それからまもなく2年。この間、日本でこの問題はほとんど報じられず、十分な説明もなく、患者団体にすら周知されずにきた。どういうわけか日本では、重篤な健康被害の恐れが「ない」ことになったからだ。
だが、問題の震源地である米国は事情がまったく異なる。規制当局の米食品医薬品局(FDA)が「重篤な健康被害や死亡を引き起こす可能性がある」との警告をいち早く患者や医師に発し、このリコールを最も危険度の高い「クラスⅠ」に分類。製造現場には2カ月に及ぶFDAの査察が入り、いまも調査・分析が続けられている。そして世界では550万台が回収の対象となり、親会社ロイヤル・フィリップス(本社・オランダ)の株価も半値以下に落ち込むなか、トップが任期を半年残して退任する騒ぎに発展した。健康被害の実相究明が急がれている。
日本では、まだ回収が続いている。対象はCPAPが約34万台、人工呼吸器が約2万2000台。米国と同じ器具なのに、なぜ日本では重篤な健康被害の恐れが「ない」と言い切れたのか。本当に、心配はないのか。
取材を進めていくと、実は日本でもCPAPによる健康被害が広がっていることが明らかになった。日本独特のリコール制度の陰に潜んでいた「闇」が浮かび上がってきたのだ。
問題の原因は防音用ポリウレタンの劣化
米フィリップスが、2009年〜2021年4月に製造したCPAPなどのリコールを発表したのは2021年6月14日。原因は、防音用発泡体(防音材)として使われているポリエステル系ポリウレタンだった。これが劣化して細かい粒子となったり、揮発性有機化合物のガスを放出したりして空気の回路に入り、患者がマスクから吸い込むことで、気道の炎症、頭痛、喘息、臓器(腎臓や肝臓など)への有害作用や毒性・発がん作用を引き起こす恐れがある、との説明だった。
これを直ちに、クラスⅠ(重篤な健康被害や死亡の原因となり得る状況)と位置付けたFDAとは対照的に、日本では翌7月、なぜか危険度の低いクラスⅡ(重篤な健康被害のおそれはまず考えられない状況)に分類された。リコールは日米ともに、まずは製造販売元が自主的に回収を始める仕組みで、危険度の高いほうからクラスⅠ、Ⅱ、Ⅲと分類されるのも同じだ。では、「重篤な健康被害や死亡」というリスクについて、日米で判断が大きく分かれたのは、なぜなのか。
「危険度」示すクラス分け、日本では業者の自主判断
その理由は、厚生労働省の業務委託先、医薬品医療機器総合機構(PMDA)のホームページに掲載された『回収情報』に書かれていた。この件でフィリップス・ジャパン(以下フィリップス)は、国や東京都に対し、「重篤な健康被害を生じるおそれはないと判断しております」と言い切り、「クラスⅡ」の案件として報告していたのだ。
米国では、規制当局がリスクの大小を見極め、法規定に基づいてクラス分類を判断する。ところが、日本ではその権限について明確な法規定が存在せず、現場では製造販売業者が自主的な判断でクラスを「選択」し、当局に「報告」する仕組みになっているのだ。
では、日本のフィリップスはなぜ、重篤な健康被害の恐れが「ない」と判断できたのか。その理由を尋ねたが、同社広報は回答を拒んでいる。
だが『回収情報』では、二つの「知見」を理由にあげていた。
その根拠と思われる文献が見つかった。米フィリップスが直前の2021年7月8日に公表した医師向けの『臨床情報』だ。東京都もこの文献が根拠の一つとして提出されたことを認めた。
ところが原文をよく読むと、①の粒子が「大きすぎる説」は十分な検証に基づく結論とまでは言えず、「最悪の事態」としては発がん作用の可能性にも言及する内容だった。②の「排出される化学物質」についても、結論ではむしろ「潜在的な危険性は毒性学的にはまだ十分に明らかになっていない」となっていた。
当時は、リコール発表の直後で検証は始まったばかり。まだ結論を出せるはずもなく、米フィリップスですら「現在進行中の更なる試験」で検証を進める方針を示していた。本格的な検証結果を段階的に公表し始めるのは、この年の12月以降のことなのだ。
国も東京都も独自調査せず、報道発表もなし
日本のフィリップスの説明を、東京都は鵜呑みにしたのか。薬務課に尋ねると、薬事監視担当課長は「この件は企業から事前に説明を受け、国にも相談してクラスⅡが妥当と判断した。一義的に、相手企業の言うことは信用している」と答えた。東京都も厚生労働省も、独立した調査は行わないまま、企業の「言い値」通りに申告を受け入れた形だ。
クラスⅠなら「健康被害の発生状況」についての定期的な報告が企業側に求められるが、クラスⅡでは原則的には、報告は必要とされない。実際、クラスⅡとなったこの件で東京都は「お願いベースでは(フィリップスに)報告を求めたが、まだ報告は受けていない」としている。クラスⅠなら行われる報道発表もなくなり、この問題はニュースにもならなかった。
フィリップスは、会社のホームページには自主回収を始めた経緯を掲載し、医療機関や関連学会にも伝えてはいる。
実際、東京都千代田区のクリニックでは、連絡を受けた院長が「患者にはすぐ知らせ、フィリップスには器具交換を急ぐよう求めた」「業界は一時、騒然としかかったが、クラスⅡとなって落ち着いた」と話す。
一方、横浜市都筑区のクリニックでは、フィリップス側から「新型コロナ感染を恐れたアメリカの患者がオゾン洗浄したことで起きた問題。日本では心配ない」という趣旨の説明を受けたといい、院長が「それなら患者に妙な不安感を与えたくない」と考えて患者には伝えなかったという。
東京の患者団体に尋ねると、担当者が「ええっ、そんな回収をそんな前からしていたんですか」と驚いていた。回収に応じた患者の中には、詳しい事情を知らされないまま、「定期的な器具交換」と誤解している人もいるのではないか。
情報が途絶えたままの日本に対し、米国では次々に新事実が公表されている。
現在配信中の「スローニュース」では、日本でも「健康被害」の報告が上がっている実態を、厚生労働省の外郭団体のオープンデータを読み解くことで、初めて明らかにしている。
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【用語解説】
「睡眠時無呼吸症候群」
睡眠時無呼吸症候群(SAS)は、就寝時にのどの緊張がゆるみ、舌の付け根が落ち込んで気道をふさぐことで何度も呼吸が止まったり、断続的にいびきをかいたりする症状。息苦しさから眠りを妨げられ、高血圧や心筋梗塞、脳梗塞を起こしやすくなる。医学誌によると、中・重症の患者は世界で4億人以上、日本では943万人いると推計されている。
「CPAP(シーパップ)装置」
圧力をかけた空気をマスクから鼻へと送り込み、睡眠時に空気の通り道がふさがれないよう気道を確保する装置。CPAP療法と呼ばれるこの治療法は対症療法で、根本的な治療方法ではない。日本では健康保険が適用され、装置はレンタル方式で普及している。フィリップスはレスメド(本社・オーストラリア)と並ぶ、世界有数のメーカー。
取材・撮影 萩 一晶
フリーランス記者。1986年から全国紙記者として徳島、神戸、大阪社会部、東京外報部、オピニオン編集部などで働く。サンパウロとロサンゼルスにも駐在。2021年、フリーに。単著に『ホセ・ムヒカ 日本人に伝えたい本当のメッセージ』(朝日新書)、共著に『海を渡る赤ちゃん』(朝日新聞社)。