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「ミャンマーで拘束された久保田徹さんを解放してください」仲間のジャーナリストらが緊急会見

 軍が実権を握っているミャンマーのヤンゴンで先月30日、抗議デモを撮影していたドキュメンタリー映像作家の久保田徹さんが拘束されました。久保田さんの一刻も早い解放を求めて、きょう(8月3日)親交のあったジャーナリストや友人たちが、日本記者クラブで緊急会見を開きました。

久保田徹さんのプロフィール
1996年神奈川県生まれ。ドキュメンタリー映像作家。慶應大法学部在学中の2014年からロヒンギャ難民の取材を始める。以降、Yahoo! Japan、Al Jazeera、NHK Worldなどで作品を発表。社会の辺境に生きる人々、自由を奪われた人々に静かにカメラを向け続けている。監督作は札幌国際短編映画祭ほか、国内外の映画祭に多数出展。SlowNewsでは、ミャンマーの反イスラム主義の精神的指導者であり、「ロヒンギャ難民問題」にも深く関係しているとされる僧侶・ウィラトゥ師の姿を描いた『ミャンマーの怪僧に会いに行く』(共著)を連載。

久保田徹さん

新田義貴さん「決して無謀な若者ではない。どんな思いで取材していたかを伝えたい」

 司会を務めたのは、ウクライナをはじめ世界各地で取材するジャーナリストで映画監督の新田義貴さんです。久保田さんは大学の後輩にあたり、同じドキュメンタリーの制作に取り組む仲間として、気が気ではないようです。

新田義貴さん

「久保田さんがミャンマー軍に拘束されました。一刻も早い解放を求めたい。もちろん久保田さんと同時に……3人と言われているものの、まだはっきりとした人数は出ていませんが……一緒に拘束されたミャンマーの方や、これまでに拘束された外国人のジャーナリストの方々も、自由になることを願っています。

 きょう集まったのは、久保田徹さんの仲間、有志です。一緒に仕事をしたり、友人関係を続けてきたりした仲間たちが、久保田さんの人柄、どういった思いで取材をしてきたのか、なぜミャンマーで取材をしていたのかを、皆さんに自分の言葉でお伝えたいという思いで機会を設けさせていただきました。まずは解放交渉をしていただく日本政府、ご覧になっている国民のみなさまに、無謀な若者ではなくしっかりした思いを持って取材をしていたことをお伝えしたい」

拘束に至るまでの経緯

 続いて新田さんは、拘束の経緯について、仲間たちが知っている情報をまとめて説明しました。
「4月ごろ、久保田さんは、再びミャンマーに向かい撮影を行う計画があるとドキュメンタリー仲間に話していました。そして7月14日にヤンゴンに入り、ヒューマンドキュメンタリーの撮影を開始したと伝えてきています。
 21日に、宿泊する部屋にミャンマー国軍がやってきたという連絡が複数の友人にありました。パスポートを提示させられ、身辺調査が行われたようですが、宿泊所にいた全員が調査されたので、自分が狙われた訳ではないと思うと話しています。
 28日には、帰国を延期して8月5日に帰ることになったという連絡がありました。
 30日の未明に、現地での撮影内容について制作仲間に伝えていましたが、内容は一人のミャンマー人の孤独を見つめたドキュメンタリーで、政治的扇動につながるものではなかったということです。
 そして同じ日の午後6時ごろ、久保田さんは警察に拘束されました」

北角裕樹さん「国際的な関心がミャンマーから遠ざかっているのはおかしいという彼の思いで」

 ジャーナリストの北角裕樹さんは、去年までの7年間、ミャンマーに在住して活動をしてきました。クーデターで軍事政権になってから、2月に半日拘束され、4月にも二度目の拘束を受けて1か月拘束された後に解放されて帰国し、現在に至っています。

北角裕樹さん

「久保田さんは、2018年にヤンゴンで仕事をしていた時に訪ねてきてくれました。その時以来の仲間で友人です。
 自分自身、同じような目に遭っていますので、30日に彼が拘束されたと聞いた時に非常にショックでしたし、これは自分がどうにかしなければと考えました。僕自身、多くの人に助けてもらった経緯がありますので、今回は自分が動かないと、と。

 彼がミャンマーに行くことは知りませんでした。しかしなぜ今、ミャンマーに行くのかというと、ウクライナ戦争もあり、国際的な関心がミャンマーから遠ざかっている中で、長いことミャンマーを見てきて、弾圧と内戦がどんどんひどくなる中で、これが伝えられないのはおかしいのではないのかという思いがあったというように聞いています。
 ただ、私が拘束された時よりヤンゴンの状態は格段に悪くなっています。表面上は平静を取り戻し、社会生活が行われていますが、爆弾騒ぎがあったり、先月末には民主活動家4人の死刑があったりして、そのことが民主化勢力の報復を呼んでいるという事態になっています。 
 特に彼が取材しようとしていたデモは、その中でも当局に摘発される可能性が高い非常に危険な現場ではありました。彼自身、危険は分かってはいたものの、それでも彼は向かうという判断をしたのだと思います。

 彼と一緒に捕まったミャンマー人が暴行を受けたという情報もあります。彼自身については、日本政府に対してミャンマーの警察が健康に問題はないと話しているようですけれども、軍や警察の規律が乱れているため、彼に何があるか保証できません。一刻も早い解放を求めたいと思います」

ミョーチョーチョーさん「日本にいる難民の相談にのってくれて、力をもらった」

 ミョーチョーチョーさんは、ミャンマーのラカイン州出身で、2歳の時にヤンゴンに移ったロヒンギャ族です。2006年に来日してもう16年になりますが、未だに難民申請中だとのこと。久保田さんは日本にいるロヒンギャの人たちの取材も続けていて、その関係で知り合いました。8月1日に外務省前で行われた久保田さんの解放を求めるデモでは、中心的な存在として動きました。

ミョーチョーチョーさん

「久保田さんとは6、7年前に知り合いました。私のことを励ましたり、いろんな民族のことを相談したり…ミャンマーのこと、難民のことに関心を持ってくれて、アドバイスをしてくれました。本当にいっぱい力をもらいました。

 ミャンマーで久保田さんが拘束されたというニュースが入ってきて、すっごく驚いて、すっごく心が痛かったです。正直、何をすればいいか分からなくなってしまったんですよ。久保田さんや一緒に拘束されたミャンマーの若者たちのために何をすればいいのか、頭がパーっとなっちゃって……久保田さんが一刻も早く解放されるように、いままで拘束されている何の罪もない、民主化活動をして平和な国を作りたい若者たちのために、デモをやろうと立ち上がりました。外務省の前で一刻も早く久保田さんとミャンマー人たちの解放を求めました。

 友人としてこれを見ている日本中の国民、日本の政府、外務省、岸田総理大臣にお願いしたいです。日本の力はミャンマーにとってすごく大きいので、早く解放するように求めてほしいです。よろしくお願いいたします」

キニマンス塚本ニキさん「知らない人たちからの切実な訴えを直に聞こうという使命感で」

 TBSラジオ「アシタノカレッジ」でパーソナリティを務めるキニマンス塚本ニキさんは、久保田さんと一緒に映画『もったいないキッチン』の制作に関わった親しい友人です。彼がミャンマーに出発する直前にも会って、話を聞いていました。

キニマンス塚本ニキさん

「ラジオの仕事をする前にフリーランスの英語の通訳として働いていて、その頃に久保田さんと仕事を通して知り合いました。私が監督の通訳、久保田さんがカメラマンとして4週間、日本各地を回ったのです。5人ほどのクルーの中で彼は最年少メンバーだったのに、どんなにごたごたした現場でも、常にすごく冷静に自分が撮れる映像、自分ができることを模索しながら黙々と動く。ストイックなプロ意識に感心したのを覚えています。好きな映画、音楽、恋バナまで、お互いにプライベートな話もするようになり、これいいよと、ビリー・アイリッシュを初めて聴かせてくれたことを覚えています。

 久保田さんの作品の多くは、社会的、政治的なメッセージが強いというイメージを持たれているかも知れませんが、彼はただそこに生きている人の姿を映すというスタイルもすごく特徴的だなと感じていまして、多くの短編映画を見て、もっとこういう作品が知られたらいいなと思っていました。

 今回、3年ぶりにミャンマーに行くんだということ知り、出発前の気持ちを聞かせてもらう機会がありました。
 彼はコロナやクーデター以前は十何回もミャンマーに足を運んで、たくさんの人たちと友達になっていたんですが、クーデターが始まってからはたくさんの連絡が来るようになったと言っていました。もともとの知り合いや友人だけではなく、久保田さんの連絡先を手に入れた知らない人からも、「自分はこんなところに住んでいて、こんなことが起きている。どうか取材に来てほしい」というメッセージを受けるようになったということでした。できるだけ切実なその思いに答えたいと、彼らの話を直に聞きたいという気持ちがあったのだと思います。
 彼は彼なりの思いと使命感があってミャンマーに行ったと思うのですが、決してスクープを撮って有名になろうとか、ミャンマーの人を救ってやろうとか、革命を手助けしようという気持ち行ったわけでは決してないと、私は信じています」

「私たちが知らないことを気づかせてくれる、そんな活動をしている人だからこそ」


「彼は二十歳の時にロヒンギャの人が受ける迫害の現状を、『ライトアップロヒンギャ』という短い作品で世に出しています。2017年に軍による武力弾圧と数十万人の難民が発生したよりも、もっと前に彼はロヒンギャの問題を追っていました。出発前に彼は、こんなふうに語ってくれました」

「今振り返るとロヒンギャ問題について自分はまだあまり分かっていなかったと思う。ただあんな不条理があることに衝撃を受けた。けれど理解が追いつかず、とにかく分からないままカメラを回していた。あれから時間が経って、自分の中で少しずつ点と点が結びついてきた感じがする。理解したというより、自分があの時、あそこにいた事実の重荷が増した感じがする。今度こそうまく、本当の人々の姿を映し出せると思う」

「分からないことを知ろうとするのは人にとって自然なことですが、それは教えてくれる人がいるから気づける。知らないことすら、知らないままでいられることも実は可能なわけで、久保田さんのように危険な場所に向かって報道を続ける人がいるので、私たちは知らないことを知ることができる。
 正直なままでいながら行動する彼のスタイルを、とても尊敬できます。「カメラ越しの相手が泣き出すまで相手のことが分からないって、どれだけ俺は鈍感で無知なんだろうな」という、本当に馬鹿正直なところがいいやつ。外務省前で100人以上の人が集まって釈放を求めるぐらい、多くの人に愛され、必要とされている人間なわけです。

 それでもTwitterでは色んな意見が飛び交っていて、先日、目にしたのは、「ミャンマーというところを取材するのにどれだけの価値があるのか気になる」というコメント。確かに多くの日本人にとってミャンマーのことなんて関係ないと思われるかも知れません。でもそれは敢えて知らないようにすることを選んでいるからそう思えるのではないでしょうか。
 私自身も徹くんと知り合っていなかったら、どれくらいミャンマーのことを知ろうと思ったかわからないんですけど、知ってしまったことから出てくる感情がある。そこから先、行動するのか、やっぱり関係ないと思って忘れるのか、人それぞれの選択なんですけど、少なくとも私は久保田徹さんのような人が、私たちが知らないこと、分からないことを気づかせてくれる、そんな活動をこれからも続けてほしいと思っているからこそ、一日も早く彼の無事な釈放を強く望んでいます」

小西遊馬さん「解放を願う友人たちがいるのは、現場に行くことで誰かの絶望に光を当ててきたことの証明」

 24歳のジャーナリスト、小西遊馬さんも、久保田さんと同じ若きドキュメンタリー作家で、大学の後輩でもあります。

小西遊馬さん

「これまでロヒンギャの方々とか、香港の民主化運動、ウクライナの取材などをさせていただいた。徹君は年も近く、映像制作をやってきた期間でもそんなに変わらない存在です。
 こうしてフリーで活動していくこと自体が非常に珍しくて、地に足をつけて本気でやっている同じ年ぐらいの人間は徹君しかいなくて、そういう意味でも唯一のライバルみたいな存在で、「お前の制作者としての態度はまだまだだ」と言われて、ほぼ絶縁状態になったこともあります。
 そういう中でも、僕が金銭的に制作を続けていくことが難しいとなった時に、自分が受けていた奨学金の財団に掛け合って、自分の奨学金はいいから僕に渡してほしいと言ってくれたのは彼でした。そんな真っ直ぐな優しさを持った人間なので、彼の存在がなかったら、今の僕もなかったと明言できます。改めてありがとうということを伝えたい。

 徹君が長らく続けてきたミャンマーの取材、制作者としてミャンマーに友人を多く持つ人間として、抱えていたものは非常に大きかったんだろうなと思います。僕は今年の多くの時間をウクライナでの取材に費やしてきたのですが、彼からしたら、そうした新たに起きる出来事の中で、つい最近まで起きていたミャンマーのことが忘れられていること、その中で自分の友人の悲しみや苦しみが世の中に届かなくなっていくことに大きな憤りを感じていたんだろうと思います。僕自身も2019年に香港の民主化運動を取材して、その後も取材を続けていますけども、世の中から忘れられていく、その中で友人たちの声がどんどん届かなくなっていくということを見てきているので、気持ちはよく分かります。

 もしかしたら彼の映像、発信によって何かが変わるかも知れないし、変わらなかったとしてもそれでもなお、現場に行くということの大切さ、これは何度も強調したいと思っています。
 僕の実体験でもあるのですが、初めて取材をしたのがロヒンギャの難民キャンプで3年前です。その時に100万人以上の難民が暮らすキャンプに行った時に、大きな無力感に襲われたのを覚えています。自分に何ができるのかと。すでにロヒンギャの問題というのは忘れられつつありましたから、その中で自分のような若者に何ができるのかということを、正直にロヒンギャの方々に話した時に、「そういうことではない。君のように我々のことを思って現場に来てくれると、それだけで自分たちはまだ世界に忘れられていないと思える。それは自分たちが明日を信じるための希望になる」と言ってくれました。それは僕自身が制作者としてやっていくということを信じることになった大きなきっかけです。

 彼のミャンマー人の友人たちがどれだけ彼のことを思っているかということ、陰で彼の釈放に向けて尽力している友人たちがいることは、彼の制作したものが、誰かの絶望に対して光を当ててきたことの証明だと思います。そういう態度を非常に尊敬していますし、椅子に座っているだけの人間が安易に批判することがあってはならないと思います。彼の家族や親密な人間にも影響を及ぼすことを考えると、問題だと考えます。
 繰り返しになりますが、彼は大きなことを語らず、非常に正直で謙虚で素直なやつ。その代わりとにかく自分の制作が、誰かが生きていくことを少しでも軽やかにできたらということ、そのために孤独を背負って、悩んで、制作する姿を隣で見てきました。そうした彼の人間や制作がちゃんと社会で評価されていったらいいなと思っています。

 誰かの大切な友人であり、大切な家族である同じように拘束されたミャンマーの方々の即時解放を訴えるとともに、僕の大切な友人である久保田徹の即時釈放を訴えます」

今野誠二郎さん「世界のどこかで自由が奪われた人がいたら目を向けていたのが徹君。では徹君の自由が奪われたら、今度は誰が声を上げるのか」

 俳優の今野誠二郎さんは25歳で、久保田さんの中学・高校の後輩にあたります。シェアハウス兼シェアアトリエを神楽坂に立ち上げて、一緒に住んでいたこともあるということです。

今野誠二郎さん

「いま現実味がなくて、ニュースを聞いてからほとんど眠れません。ただ一つお伝えするとしたら、彼は僕にとってリアルな人物であるということです。シェアハウスには人が多く来るので友達ができやすいのですが、4万を超える署名が集まっていて、コメントも続々と寄せられています。友達が多くいる、普通のいい人間だということをお伝えできたらと思っています。

 彼はミャンマー以外にもいろんな方を取材していました。そこに通底しているのは、普通に生活していたら見落としてしまうような些細な声を、彼だからこその想像力、つまり遠くの人の痛みを感じてしまうすごく繊細な「共感を遠くに飛ばす力」をもって、それにこだわり続ける姿勢です。

 森友学園問題で自死された赤木俊夫さんの妻、雅子さんのことも取材していました。それを見て感銘を受けた友人の感想を紹介します。

「友人を通して久保田さんを知るまで、森友問題のことを忘れていました。情けなく思うと同時に、彼が継続して行ってきた取材、ドキュメンタリーの制作活動について、心の底から尊敬の念を抱いたことを覚えています。先日、即時釈放を求める抗議活動の際に、赤木さんがおっしゃられていたように彼本人として当事者に向き合う姿勢、久保田徹というドキュメンタリー作家がいる事実に救われる被取材者、現在おかれている苦境からわずかでも希望を見出せる人がいると信じています」

 彼は難民問題にも関心を持っていて、足繁く入国管理局に通っていました。出会った難民の方々のことを友達のように語る姿が忘れられません。その報道を見た友人のコメントです。

「まさか日本に難民がいると思っていなかった私に、日本の難民の現状を伝えてくれた最初の人です。声高々に主張したり、押し付けたりするのではなく、丁寧な取材を重ねてドキュメンタリーに落とし込むことで、難民の方のおかれた現状がより一層深く伝わってきました」

 青木ヶ原樹海に、自殺を止めるために歌い続けているおじさんが住んでいます。彼はすごく慕っていて取材をしていました。その姿を見た友人からのコメントです。

「友人で山梨を訪れた際、彼はその日も次の日も、僕らがバーベキューをしている中、カメラを担ぎ、一人別行動で富士山の樹海に住む人々の取材をしに行っていました。社会の辺境に生きる人々や自由を奪われた人々など、弱い立場の人間に誠実に向き合うことは、彼自身の精神や肉体を大きく消耗させるものだと彼自身も知っていました。それでも彼は普段生活しているだけでは私たちに届かない声を届けるために、日々責任を持ち、計画的に社会のために行動していました」

 本当に多くのコメントが寄せられていて、早く彼に見せたいと思っています。

 ミャンマーで取材していたのも、一人の孤独に目を向けるという作品だったと聞いています。彼は一度で会ってしまったら目を背けられない人なのだと思います。「忘れられることに腹が立つ」と言っていました。なんでなんだろうと。遠くの人に対しても、彼らが事件に巻き込まれたら、本当に自分ごとにして痛みを抱えて自分も苦しんでいた。そんなこと僕にはできません。電車の中で立っている人がいても、疲れていたら座っちゃうこともあるし、転んでいる人がいても急いでいたら見て見ぬふりをすることすらあるのに、彼は違う。そんな性格って相当に辛くて、実際に彼は傷ついていて、カメラを向けるたびにカメラが持つ暴力性みたいなものに、自分自身もすごく苦しんでいて、たまに取材対象者に言ってもらえる「ありがとう」に元気づけられてまた前を向く、そういう日々を送っていた、フィクションではないリアルな人間でした。
 
 彼がリスクを負ってでも現地に行くというのは、自分にとっても苦しいこと。現地の弱い立場にある人、虐げられた人の悲しみを世界からかすかにでも取り除きたいという祈りにも近い信念があったからできたことです。
 ただ「世界のどこかで自由が奪われた人がいたら、それに目を向けていたのが徹君。では徹君の自由が奪われたら、今度は誰が声を上げるのか」というコメントも届いています。

 今はけがなく帰ってきてほしい。断言できるのは、僕がもし彼を直接知らなかったら、夕飯の時にミャンマーで日本人が拘束された、圧政で何人が殺されたというニュースを見たとしても、きっと食べ続けていたと思うんです。彼と出会って変わった、そのギャップにこそ、彼の存在の意味があると思っています。僕だけの話ではなく、あらゆる人にとっての重要な意味であり、帰ってきたらぜひ多くの人に彼と会ってもらいたい。

 どうか一緒に彼の解放を求めてください。ぜひ我が国は人命最優先で、即時解放してほしいと強く伝えてほしいのです。今も現地で尽力してくださっている外務省、大使館の方々、本当にありがとうございます。国民がまずあって、国家がある、そんな国に住んでいたいと思います。よろしくお願いします」

取材・執筆:熊田安伸