イラクで亡くなった小川功太郎さんについて
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書き手:瀬尾傑
ちょうど17年前、2004年5月27日、ジャーナリストの小川功太郎さんが33歳の若さで取材中のイラクで殺害された。今回、その遺稿「ファルージャ突入記 憎悪と殺意と悲しみの街 」をSlowNewsに掲載をした。
なぜ、いまこの作品を読んでほしいのか。ちょっと長い話だけれど、つきあってもらえるとうれしい。
その日、功太郎さんは叔父であるベテラン戦場カメラマン橋田信介さんとともにクルマで移動中、バグダッドの南約30キロで武装勢力に銃撃され、ふたりの命は奪われた。
前年、アメリカを中心とした多国籍軍の侵攻により独裁者サダム・フセインの政権はあっけなく崩壊した。しかし予想を覆し、イラク戦争はそこから泥沼化する。米軍への抵抗、というより反発は各地で日増しに激化。日本も自衛隊をはじめてPKOに参加させることになる。その混乱の地で、橋田さんと功太郎さんは米軍の攻撃で失明の危機にあった現地の子供に、日本の病院で手術を受けさせようと駆け回っていた。その移動途中を襲撃されたのだった。
ぼく自身もその年3月、戦禍のイラクを取材していた。作家の勝谷誠彦さんとヨルダンからクルマで潜入するときには、恥ずかしながら武装勢力に捕まり殺されそうになった。命からがらたどりついたバクダッドのホテルでぼくたちを待ち構え、そこからいっしょに取材行動をしたのが橋田さんと功太郎さんだった。
功太郎さんは、新卒で入ったNHKを退局したばかり。独立後はじめての本格的な仕事がイラクの戦場だった。彼は33歳。ぼくも30代でまだ若く、気があった。バクダッドからクルマで半日かかる自衛隊のサマワキャンプへ向かう途中、故障で動かなくなった自分たちのトラックを武装勢力に目立たないように冷や汗をかきながら並んで押したり、街の怪しい闇市で手にいれた米軍横流しのビールを片手に、次はウィグルでいっしょに取材したいねなどと深夜まで語り合ったりした。
ぼくが日本に戻った後、彼もいったんは帰国した。慰労のため、六本木の焼き鳥屋で酒を飲んだ。「激しい抵抗で戦争状態になりつつあった現地に、日本人ジャーナリストはほとんどいない。なにがおきてるか、欧米とは違う立場から伝えたい」という固い決意を、しかし彼らしい柔和な表情でさらっと漏らし、すぐに戦地に舞い戻った。
「ファルージャ突入記」は、ぼくが編集者をしていた「月刊現代」に現地から彼がメールで寄稿してくれた。「米兵を必ず殺す」と叫ぶ青年に向き合ったり、あるいは米軍の横暴さへの怒りで盛り上がる現地の声をしっかりと受け止めながら、その真偽にはきちんと距離をおいたり、繊細な文章もさることながら、ジャーナリストとしてとてもすぐれたセンスとバランス感覚を感じた。ライターとしてのデビュー作とは思えない確かな取材と筆力に、「まだ33歳のこいつとはこれから長いつきあいになるだろうな」、そんな予感がぼくにはしていた。
彼の原稿が載った「月刊現代」が発売になったとき、「イラクまでは届けられないから、帰ったらお祝いでまた飲もう」「見るのが楽しみです。中東では牛肉が食べられないので、焼肉がいいですね」とメールで約束しあった。
しかし、結局、刷り上がった雑誌を届けることができたのは、橋田さんが居を構えたタイ・バンコクで行われたふたりの葬儀のときだった。
原稿からは、当時の緊迫したようすが伝わってくる。日本人であろうがアメリカに味方するものは殺すという叫び。クルマのナンバーが控えられたという警告。ーー彼がどんな状況で取材していたか、いま読んでも生々しく、怖い。
忘れられないのは、原稿を入稿したときのやりとりだ。
雑誌で7ページ、400字詰原稿用紙で20枚の予定が、彼は40枚近くを書いてきた。ディテールに迫力がある原稿だったが、やむなくおよそ半分に削った。編集者としてはよくある仕事ではあったが、その文末近くに、こんな一節があったことが頭に焼き付いている。
「第二次大戦以降の世界の紛争地で、ここまで明確な政治的意志を持って日本人が狙われたことはなかった。ジャーナリストもNGO関係者も自分の裁量で自由に仕事をしてきた。今のイラクに滞在すること自体、無謀だという意見はあるだろう。批判は甘んじて受け入れる。しかし、なぜこんな事態になってしまったのか、ということこそ逃げずに考えるべきではないかと自分に言い聞かせながら、私はバグダッドに入っている。自衛隊も外交官もNGOもジャーナリストも、少しでもイラクの役に立ちたい共通の思いの元に各々の『仕事』をしてたと私は信じたい」
結局、取材の現場感を生かそうとすると、そこは削らざるをえなかった。功太郎さんも「やはり情緒的ですよね。ぼくも余計かなと思ってました」と言ってくれた。
でも、彼の葬儀ではずっとそのことを考えていた。
「なぜあそこを削ってしまったんだろう。あいつがほんとに言いたかったのは、そこだったのではないだろうか」と。
命をかけた思いを、現場で体をはる怖さを彼は感じ、同時にそれを超える覚悟を吐露していた。それをぼくは伝えきれなかった。その後悔はいまも続いている。
ながなが書いてきたのは、未熟な編集者としての後悔でもある。書き手の大切な意思を伝えきれなかった。しかし、その韜晦があるから、次は少しでも彼らの意思を汲み取りたい、その助けになりたいと考えてきた。ずっと、それをテーマに仕事に取り組んできた。そして、その思いが、SlowNewsに結実している。
功太郎さんだけではない。原稿の一行一行に命を削っている書き手がいる。戦場だけではない。さまざまな現場に、日の目をみるかわからない取材に、時間もお金も注ぎ込み、身を削っている名もなきジャーナリストやライターがいる。メディアのビジネスモデルが変化し、より環境が厳しくなる中でも、新しい取材に挑戦する者も生まれている。
紙であろうがデジタルであろうが、時代が変わってもそういう人たちを育て、支えたい。時間をかけた取材と思考が生み出した作品を、多くの人に届けたい。その思いに共感してくれる仲間が集まり、SlowNewsというサービスは始まった。
SlowNewsは、有名無名を問わず、地道に問題に向き合う書き手とそれを応援するメディアが活躍できる場所として立ち上がった。真摯に取材に取り組むすべてのジャーナリストと、編集者をはじめとするそれにかかわる人が報われるように、ひとつひとつの作品を丁寧に届けていきたい。
功太郎さんは若くして世を去った。それから17年がすぎた。しかし、その作品は永遠にのこり、その思いは生きている。
SlowNewsは時代をこえた価値のあるNewsを届けるサービスを目指しています。調査報道支援プログラムは、事実に向き合う取材者たちを後押しします。
まだまだ未熟ですが、良質な作品を愛するみなさんと一緒に、取材に時間をかけた作品がつぎつぎに生まれる環境を作っていきたい。ぜひ応援をお願いします。