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「山古志にたどり着くんだ!」泥まみれになり、恐怖に耐えながら記者はなぜ山道を登ったのか…19年前に見たあの日の惨状、そして最初に伝えた言葉とは

あふれるニュースや情報の中から、ゆっくりと思考を深めるヒントがほしい。そんな方のため、スローニュースの瀬尾傑と熊田安伸が、選りすぐりの調査報道や、深く取材したコンテンツをおすすめしています。

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[新潟県中越地震19年・山古志再訪ルポ]<上>足を震わせ命がけで歩いた「あの道」 余震、土砂崩れ…激震に孤立したムラ、よみがえる惨状の記憶

突然の、経験したことがない激しい揺れ。最も揺れが大きかった場所から80キロ以上離れた新潟市のオフィスにいるのに、まるで荒波にもまれる小舟に乗っているように感じで、恐怖に包まれました。

2004年10月23日に発生した新潟県中越地震。発生したのが夕方で、すぐに日が落ちたことや、激震にみまわれた川口町や山古志村(いずれも現在は長岡市に合併)と連絡がつかなかったことから、最も被害が大きいのはどこなのか、国もメディアもわからないという事態が続いていたのです。

「おかしい。被害が出ている自治体に囲まれているのに、山古志村だけなんの情報も入ってこない」

当時、地元の「新潟日報」のデスクたちは、そう考えていました。「情報の空白地帯」は、警戒すべき兆候です。

そこで翌朝、20代の2人の若い記者が、隣の小千谷市から3時間かけ、山道を山古志村に向かいました。その知られざるエピソードを、新潟日報が発災から19年の節目に合わせて報道しています。

中越地震の特徴の一つは、とにかく余震が多かったこと。2人はその恐怖に耐え、泥だらけになりながら斜面をよじ登っていきました。案の定、たどり着いた先は、大きな被害を受けたのに、支援どころか情報さえ入らない「陸の孤島」になっていたのです。

この連載では、いまは40代になった2人が再び同じ道をたどり、あの日に見たこと、住民たちから聞いた話を回想していきます。

その日のうちに小千谷市の支局に降りていって原稿を出すには、タイムリミットがあります。限られた時間で彼らがどのように取材を行い、最初に伝えるべきは何だと判断したのか。詳しくは記事をお読みください。

「絶対に無理はするな」とくぎを刺されながらも、「行けるところまで行く」というのが記者の性。私自身、被災地で取材する多くの記者を見てきましたが、できるだけ多くの人の声を伝えなければ、というその強い思いに、改めて胸が熱くなりました。(熊)

(新潟日報 2023/10/22)

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