14億人の熱く燃えたぎるエロの最前線
驚きの現地ルポ! 爆買いから「爆セックス」へ。14億人民の爛熟と頽廃。
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全面ガラス張りのビジネスホテル

 カードキーでドアを開けて室内を見回すと、思わず「ひえっ」と変な声が出た。

 近年の中国は物価の上昇が激しく、宿泊に日本以上のお金がかかる場合もある。20191月の取材時点で、四つ星ホテルにもかかわらず1188(約3000円)で宿泊できたこの部屋はなかなかリーズナブルだった。部屋の中央にはキングサイズの巨大なベッドが鎮座し、さらに大人が足を伸ばして寝転がれるほどの長さのソファも備え付けられている。室内面積にはゆとりがあり、35平米ほどの実面積以上に広々とした印象だ。

 だが、室内にビジネスデスクは置かれていなかった。かつてのこの部屋を利用した客たちに、机に向かって仕事をしようとするような人は誰もいなかったからだ。

 浴室にはなぜかバスタブがなく、それなのにシャワールームには布団を一枚敷けるほどの床面積が設けられた、謎多き設計である。加えて浴室の壁はすべてガラス張りでカーテンもないので、部屋側からはシャワーを浴びている姿が常に丸見えになる。

 やがて、空間を妙に広く感じた理由に気付いた。壁のほとんどが鏡張りなのだ。さらにベッドに寝転がってみると、なんと天井まで鏡張りだった。シャワーを浴びた後に歩きまわれば、全裸の自分が部屋中のあちこちに映ることになる。

 室内の照明は異常に薄暗い。なんとかできないかとベッドサイドのスイッチをいじると、部屋が明るくなるかわりに扇情的なピンク色の照明に変わってしまった。浴室の床が妙に広かった理由も、ソープランドで使うような特殊なエアマットを敷けるように設計されていたからなのだろう。

 この部屋では過去、大量の男女が身体を重ね続けてきた。

 ただし、互いに愛情を持って「こと」に及んだカップルは1000組に1組もいなかった。それどころか、大部分の男女は相手の名前も年齢も、最後まで知らないままだったはずだ。

 この部屋は往年、大規模な風俗サウナ(中国版ソープランド)を併設していることで知られた広東省東莞ドングアン市常平鎮の匯美酒店(フイメイ・ホテル)の一室だ。かつての風俗サウナの客たちと女性とのプレイルームなのである。

 5年前の20142月まで、東莞は「性都シンドゥー」や「東洋のアムステルダム」の異名を持つ、中国で最大級のセックスタウンとして知られていた。接待などで用いられたハイクラスの風俗サウナやKTV(連れ出し高級クラブ)から、地元の出稼ぎ労働者の男性を主な顧客とする安価な置屋にいたるまで、最盛期には現地で働くセックスワーカーの女性が30万人以上に達していたとも言われている。

 なかでも匯美酒店と、隣接する君悦大酒店(ジュンユエ・ホテル)のサウナは東莞のエロ産業の代名詞的な存在として知られていた。主な顧客は香港人で、次に台湾人と地元の中国人が続いたが、日本人客の評判も高く、ネットで検索すれば当時のサウナで遊んだ日本人男性たちのブログが現在でもいくつも引っかかる。

 だが、20142月に習近平政権が大規模な摘発作戦を実施し、表立って営業する性風俗店はすべて壊滅。街には閑古鳥が鳴いたが、いまや中国の他都市よりも性産業に厳しいクリーン都市に変わってしまった。

 とはいえ、中国人の合理主義精神は凄まじい。

 現在、宿泊客が激減したホテル側はなんと、用済みになった過去の風俗サウナのプレイルームを、改装工事すら一切おこなわずに宿泊客に提供するようになった。宿泊価格は他の部屋よりも80元ほど安いが、チェックインの段階で部屋の事情についての説明は一切ない。うっかり家族旅行で泊まってしまえば、気まずい一夜を過ごすことになりそうである。

 私が泊まった往年の「ヤリ部屋」は、ホテルの4階にある。過去、3階のサウナを利用した客たちは女性を伴ってこの階に移動し、お楽しみの時間を過ごしていたのである。

「東莞って、今はもう遊べないの?」

 携帯電話の充電機を部屋に運んできてくれた50歳くらいのボーイに尋ねてみた。

「もうダメですよ。お客さん、きっとずいぶん長いこと東莞に来ていないんですね」

5年ぶりなんだ。今はもう遊べなくなっているのかい?」

「無理ですよ。時代が違いますからね」

 総鏡張りの部屋の中でギラギラしたピンク色の照明に顔を照らされたボーイは、私の質問に対して露骨にやれやれといった表情を浮かべてみせた。

拝金主義への転換が早かった広東省

 往年の東莞が「性都」として成長した経緯を述べる前に、広東省の性産業の過去の事情を解説しておこう。中国の性産業の歴史は、1978年にとうしょうへいが提唱した改革開放政策の歴史とほとんどイコールである。

 中国は1949年の中華人民共和国の建国以来、社会主義イデオロギーのもとでカネ儲けを「悪」とみなす風潮が根強かったが、「先に豊かになれる者から豊かになればよい」と主張した鄧小平のもとで、1978年末から経済の開放や海外からの投資の受け入れが徐々に進んだ。中国全体が経済自由化の波に飲み込まれるのは、天安門事件後の南巡講話1992年)以降だが、地理的に香港や台湾に近く海外企業の進出が容易だった広東省の珠江ヂュージャンデルタの一帯は、はやくも1980年代の前半から拝金主義が浸透した。

 広東省は北京から3000キロも離れ、中国のスタンダードである華北文化圏とは言語も文化も大きく違う地域だったため、北京のイデオロギーの制約をあまり気にしなかったのだ。また、初期に広東省に進出した海外(香港・台湾)企業の多くは製造業であり、工場の新規建設や街のインフラ整備に伴うブルーカラー層の就業需要が著しく拡大した。

 だが、拝金主義の横行は、手っ取り早くカネになることはなんでもやる風潮も生んだ。中国全土から人件費が極端に安い若者が集まり、一般の中国人の10倍以上の収入を稼ぐ香港人や台湾人のビジネスマンが多数流入し、警察権力の縛りもユルかった広東省で、結果的に売春産業がしょうけつを極めたのも当然の話ではあった。

 社会主義国家である中国では、タテマエ上は売買春はご法度だ。しかし、とくに天安門事件後の1990年代は人民の統治が極端に緩み、民主化の要求や共産党体制への反対といった政治的な抵抗運動さえおこなわなければ、窃盗や少額の詐欺・売買春のような些細な悪事は極めていいかげんな取り締まりしかされない時代であった。

 ことに広東省は、他の地域の中国人からも恐れられるほどのアナーキーな場所になった。

「昔の会社が広州の外れの永和ヨンホォ経済開発区という場所にありましたが、1990年代後半ごろまで、かなりヤバかったですよ。強盗のような荒っぽい犯罪者が多いため、公安(警察)がすぐにマシンガンを撃つ。会社で仕事をしていると、外からタタタタタンと銃声が聞こえてくる。違法薬物も野放しで、氷毒ビンドゥ(覚せい剤の一種)が当たり前のように流通していました」

 そう話すのは、1996年から広東省で働いている、東莞市在住の経営者・佐近宏樹さんだ。当時の売春事情についても、彼はこう話す。

「公園のなかに『カラオケ』と称する小屋があり、そのなかに若い女性がいて客を取っていました。また、市民が家族連れで行くような映画館や劇場でも、場内に女性がいて、男性がお金を払うと『手』で処理をおこなった。ほとんどのホテルでは男性が一人で宿泊すると間髪入れずに部屋の電話が鳴り、売春を持ちかけられた。宿泊中は常に電話が鳴り続けてうるさいので、部屋に入ったらまずは電話線を引っこ抜かなくてはいけませんでした」

 これは特別な話ではない。往年の広東省では、男性が一人で街を歩いていればタクシーの車内での性的なサービスを持ちかける陪的ペイディ小姐シャオジエ(タクシーは広東語で「的士デックシィ」と言う)に遭遇し、街のあちこちで拉皮帯ラーピィダイ(ポン引き)站街女ヂャンジエニュイ(立ちんぼ)に声をかけられた。さらに、海に行けば一緒に泳ぐことを名目に売春を持ちかける陪泳ペイヨン小姐シャオジエ、山に登ればガイドを名目にやはり売春を持ちかける導遊ダオヨウ小姐シャオジエ……と、陸・海・空(山)のあらゆる場所で売春行為が身近だった。他にもネットカフェで操作を教える名目で売春をおこなう女性、茶館と呼ばれる中国式の喫茶店の個室で「接客」をおこなう女性などもいたとされる。

 佐近さんによれば、省都・広州を代表する五つ星ホテルの花園酒店(ガーデン・ホテル)ですら、1990年代まではホール内がセックスワーカーの女性だらけだったという。花園酒店の女性たちは街の売春婦よりも「レベル」が高く、ホテルのガードマンに100元のショバ代を支払って高級ホテルの利用者たちを客にしていた(なお、同ホテルの建物内部には、わが在広州日本国総領事館のオフィスが長年入居している)

 ほか、風俗サウナやKTVといった、外国人や国内富裕層向けの性産業も勃興した。これらは1980年代の広東省を発祥の地として全国に広がり、1990年ごろには首都の北京にも登場したという。

通りが全部「ピンク床屋」

 いっぽう、当時の貧困層向けの性産業はもっとディープだった。佐近さんは言う。

「街の公園に6070歳代のおばあちゃんが大勢いて、彼女らが民工(農村からの出稼ぎ労働者)の男性を相手に35(当時のレートで約4575円)ぐらいの値段で春を売っていた。当時、中国の公園にコンドームの自動販売機がやたらに多くあった理由はそういうことだったんです」

 もうすこし「まとも」なローカル中国人向けの性産業には、ピンク床屋(「色情髪廊スーチンファーラン」)があった。もっとも床屋を名乗っているとはいえ、髪を切るサービスは提供しておらず、実質的にはただの「置屋」である。1回の遊び代は3050(当時のレートで約450750円。ゼロ年代以降は100200元程度)で、単純に性行為を提供するだけの極めて即物的な性産業施設だ。ただし、店内にいるのは10代後半~20代前半くらいの出稼ぎ労働者の女性が多かったため、衛生的な問題を気にしない人であれば、香港・台湾人や日本人の利用者もいた。

 ピンク床屋はゼロ年代なかばごろまで非常に多く、現在はスタイリッシュな先進都市として知られる深圳も、当時は街のいたるところにこの手の店があった。さらに郊外になるとこんな場所すらあった。

「通りが全部、ピンク床屋だけになっていた街がありましたよ。一歩足を踏み入れるだけで店の女性が100人ぐらいワラワラと集まってくるような。ちなみに、通りの先にある公安の敷地内には、公安が経営する連れ込み宿がありました」

 中国の地方の公安の要職につくのは、地元の有力者の息子だ。往年の性産業は間違いなくカネになるビジネスだったので、大抵は現地の有力者が利権に一枚嚙んでいた。つまり、取り締まる側が性産業利権をなかば握っていたということだ。

 ほか、深圳の中心部など人口密集地帯に点在する城中村チェンヂョンツン(スラム街。地方からの出稼ぎ者がそのまま住み着いた「都市のなかの農村」と呼ばれる低所得者地域)には、広東語で「鶏兜ガイドゥー(売春婦の家)」と呼ばれる置屋街があった。価格や内容はほぼピンク床屋と同じである。

 男性がこの手の街を歩いていると、ポン引きが付近の古いアパートの一室に連れて行く。そこには複数の若い女性とママさん媽咪マーミィがおり、客は女性を選んで別室に向かうというシステムだ。とくに深圳の福田フゥティエン区にある上沙シャンシャーツン下沙シャーシャーツン沙嘴シャーヅイツンは「三沙サンシャー」と通称される置屋の密集地域として知られ、地元の人や香港人たちの間では「深圳のパタヤ」と冗談めかしたあだ名が付けられるほど有名な場所であった(もっともタイのビーチリゾートであるパタヤと違い、深圳の「三沙」はリゾートとは程遠い薄汚れたスラム街であった)

性都は広州から東莞へ

 ただし、ゼロ年代なかばごろから、大都市である広州や深圳のピンク床屋や置屋はほとんど姿を消した。経済発展によって地価が上昇し、地権者たちが物件のたなとして性風俗店を入居させるよりも土地を転がしたほうがカネになると判断するようになったためだ。また、2011年の深圳ユニバーシアードをはじめ、広州や深圳が大規模な国際イベントを誘致する機会が増えたことで、街角で誰の目にも触れるピンク床屋のような業種はさすがに取り締まられるようにもなった。

 200611月には、深圳の「三沙」で大規模な取り締まりがおこなわれ、香港人11人を含む買春客の男性が逮捕されたほか、多数のセックスワーカーの女性を含めた関係者ら約200人が黄色い服を着せられて市中引き回しの刑に遭う事件も起きている(なお、中国で「黄色ホアンスー」は、エロを意味する色である)。反体制的な海外華人メディアの『阿波羅新聞網』などによれば、当時の中国共産党中央政治局常務委員だった高官の呉邦国が広東省に視察に来たので、深圳の地元公安がポイント稼ぎとしておこなったものだという。

 もちろん、その後も広東省全体で大規模な摘発作戦が実施される20142月までは、広州や深圳でも性産業が堂々と存在していたが、以前ほどは大っぴらでなくなったのも確かだった。なお、深圳では「三沙」の壊滅後も、香港とのイミグレーションがある羅湖口岸に近い向西村に大規模な置屋街が残り、2016年ごろまでしぶとく存続していたらしいが、現在はほぼ消えたらしい。

 そうした広州や深圳の「没落」を受けて、ゼロ年代後半から一気に性産業が集中したのが、両都市の中間地帯に位置する垢抜けない工場の街・東莞だった。東莞が「東洋のアムステルダム」に変わるまでには、そんな経緯があったわけである。

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第一章 拝金の性都・東莞の興亡(2)

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