「あのバスで、クロアチア国境まで人々を一気に運ぶんだ」
①いざドイツへ! 世界史に残る「大移動」の同時進行レポート/②複雑で「遠い」世界の問題が、すっとダイレクトに伝わってくる

第一章 ギリシャ

二〇一五年一一月二日──レスボス島(ギリシャ)

 島だけでなく、フェリーもまるごとイスラム教徒に占拠されてしまったかのようだ。

 アリ・バグリさん(三〇)一家と乗り込んだフェリー「ニソス・ロドス号」の座席という座席は、アリさんと同じ境遇にあるシリアやアフガンの人々で埋め尽くされていた。この際、フェリーではなく、いっそのこと「難民船」「移民船」と呼んだ方がふさわしいかもしれない。

 栄養失調でがりがりにやせているのに、お腹はぽっこりと出ている裸の子どもたち……難民と聞くと、真っ先にそんなイメージを抱く人が多いかもしれないが、そんな子どもは船内に一人もいない。

 むしろ、修学旅行に出発するバスや列車に乗り込んだばかりの小中学生のように、人々はわいわいがやがやと明るく賑やかなのだ。場の空気を支配するのは、やはり「数の力」ということなのだろうか。

 船が向かう先は、ギリシャ本土にある首都アテネ近郊のピレウス港。民主主義や哲学を生んだ古代ギリシャの中心地アテネが、とりあえずの目的地となるようだ。チケットを買った島の旅行代理店は「三日午前七時に着く」と言っていたから、所要は約一五時間。今夜の宿代わりにもなる船旅である。

 船内に入って、アリさんも私も真っ先に電源と公衆無線LANWiFiワ イ フ ァ イ」の確認に走った。パソコンやスマートフォンをインターネットに接続すれば、インターネット電話やメールもできるし、地図を検索すれば自分たちの今いる場所まで確認できる「命綱」だ。

 電源は見つけたが、WiFiは利用できないと船員に告げられ、二人で思わず顔を見合わせた。

 わずか三畳ほどの船室に腰を落ち着け、荷物をほどく。幸いなことにアリさん一家が陣取ったのは、二〇メートルも離れていない船室だった。これなら見失う可能性は少なさそうだ。早速、同行取材の件をアリさんに切り出した。

OKOK。全然構いませんよ。本当に私で大丈夫ですか」

 アリさんはこちらが拍子抜けするほど、あっさり快諾し、自分から身の上話をしてくれた。

 自分は戦火が続くアフガニスタンから二〇一〇年、イランへと逃れてきた少数民族ハザラ人である。妻のタヘリー・カゼミさん(二八)もハザラ人だが、イランで生まれ育った。二人はイランで結婚し、一人娘のフェレシュテちゃん(四)が生まれた。身を寄せていたイラン中部ナタンツを一か月前に出発し、トルコを経て、ギリシャに来ている。大人一人当たりの出費は約三〇〇〇ドル(約三六万円)に達している──。

 なるほどである。ハザラ人は一三世紀、ユーラシア大陸に空前の大帝国を築いたチンギス・ハーンに率いられたモンゴル軍兵士の子孫とも言われている。日本の大相撲で活躍するモンゴル出身力士の顔立ちは、日本人そっくりだから、アリさんに親近感を抱くのは理にかなっている。イスラム教シーア派を信仰しているので、シーア派の大国イランへと逃れる人が多いのはもっともな話だ。ハザラ人が話すダリー語はペルシャ語とほぼ同じで、言葉が通じるというのも大きい。

「レスボス島で一週間も過ごしました。戦火がたえない故郷のアフガンに戻ることは考えていません。治安は良くなるどころか、どんどん悪くなっています。イランでは、アフガン難民が就ける仕事のチャンスは少なく、希望が持てない。ドイツにたどりつけば、新しい道が開けると考えています」

 明るい将来を夢想するアリさんの表情は輝くばかりだ。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、欧州に流入する難民・移民の約半数は内戦を逃れたシリア人だが、旧支配勢力タリバンと政府軍との戦いが続くアフガニスタンからも二割近くに達する。ただし、この「ニソス・ロドス号」に限れば、シリア人とアフガン人が半々ぐらいといった感じだった。

 少しややこしいが、「難民」と「移民」という言葉について触れたい。難民や移民は、自分たちの国から出て、外国に移動する人たちという点は共通している。大きな違いは、移動するきっかけが「政治的な迫害」にあるかどうかだ。

 難民を定義する基本となっているのが、一九五一年に締結された「難民の地位に関する条約」(難民条約)。「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に、迫害を受ける恐れがある」ことを条件としている。

 もっとも、最近は戦争や内戦から逃れてきた人も難民と呼ぶようになっている。一方で、本当は外国で働くために出てきた「移民」だけど、「自分は難民だ」と申請する人もいる。たちどころに「あなたは難民、あなたは移民」と、見極めることは難しくなっている。アリさんもイランに五年間暮らしたことで「移民」と見るか、いまだにテロや誘拐事件の相次ぐアフガンから逃げ出したことを広義に「難民」と見るかは、議論の分かれるところだ。

 日本は一九八一年に条約に加わったのだが、二〇一五年に認定した難民は、わずか二七人。他国に比べて、極めて少数にとどまっていて、その消極的な姿勢は、国際的に批判されている。

 難民や移民、そしてどちらにも当てはまりそうなグレーゾーンの人たち。このフェリーにも、新しい生活を夢見る点は同じだが、さまざまな事情を抱えた人々が、ごった煮となって乗り込んでいる。

一一月二日「ニソス・ロドス号」船内にて

 とにかくスタートラインには立った。ギリシャ本土に到着すれば、その後はひたすら陸路でバルカン半島を北上すればいい。最新バルカンルートなら、マケドニアからセルビアを経て、クロアチア、スロベニア、オーストリアへ。その次が最終目的地のドイツだ。ハンガリーは、セルビアやクロアチアとの国境を封鎖してしまったが、迂回ルートはまだ生きている。

 一方、とどまることを知らない人々の流入で、受け入れに寛容だったオーストリアでさえ「越境防止フェンス」の建設を検討している。道はいつ閉じられてもおかしくない。人々にとって、欧州を目指す道中は「時間との闘い」なのだ。

 ひとまずアリさんと別れ、船室にようやく腰を落ち着けた。あとは出港を待つばかり。早速、パソコンを電源につなぐ。聞こえてきた船のエンジン音と振動に旅の始まりを実感する。どうやら動き出したようだ。

 船に乗っている間は、アリさんと離ればなれになることはないだろうと一息ついて、ベッドに寝転がった。だが、ほっとしたムードは突然、けたたましくドアをたたく音に砕け散った。

「今から俺たちは、ストライキに入る。全員出て行ってくれ。今日は出港取りやめだ」

 船室のドアというドアをたたき回っているらしい船員から言い渡された。乗船からわずか三〇分。アテネへの一五時間の船旅はおろか今夜の宿となるはずの船からも、アリさん一家共々追い出されることになった。少し動いたのは、同じミティリニ港で停泊する場所を変えただけだったのだ。

「再出発は四日午前六時だ。全員よく覚えておいてくれ」

 のろのろとしか動かない人々にいらだつ船員は、こう怒鳴りながら全力で追い出しにかかった。

 つまり、今日はおろか明日も、このレスボス島に足止めされてしまう。

 想定外としか言いようがない貴重な時間のロス。アリさん一家は、目的地への道のりがまだ長く、険しいことを改めて見せつけられた。こちらも、同行取材がいきなりつまずき頭が混乱している。

 なのに、一番落ち込むはずのアリさんは、島に舞い戻っても意外にひょうひょうとしている。

「仕方ないですよ。私はバスで丘の上にある難民キャンプに戻ります。タクシーではたくさんお金がかかりますから。では、二日後に再会しましょう」

 アリさんは、笑顔で右手を差し出してきた。人生をかけた「大勝負」なのに、悲壮感がない。親戚も含めた一六人で一緒に行動しているらしいのだが、キャンプに向かうバスを待つ人々の朗らかな表情は、不謹慎にもピクニックを連想してしまう。ドイツでの新生活への希望が支えているのだろうか。

 アリさんと別れるや、とって返して、港の様子を見に行った。先ほどの船員はあっさり前言をひるがえした。

「出発は四日午後四時だ」

一一月三日──レスボス島(ギリシャ)

「ニソス・ロドス号」は、その大きな船体を港に休めたままだ。ストを続ける船員たちは、ジュースを片手に船内で笑い転げている。動く気配はかけらもない。

 きっと日本なら、船に乗り損なった客から、怒りのクレームが殺到するだろうが、ここで待ちぼうけが続くのが何より痛いはずの難民たちまで「仕方ないよ」といった表情で、誰も詰め寄ろうとしない。

 私は、船員から再出発の時間が「四日午前六時」からさらに一〇時間遅れの「午後四時」に変わったことを聞いたが、難民キャンプへ引き返したアリさんはきっと時間変更のことを知らないだろう。

 どうにかして知らせた方が良いのではないかと思い、午後になって、港の近くで捕まえたタクシーで、アフガン難民向けのキャンプへと向かった。タクシーは対岸のトルコ領の緑の山並みを望みながら、くねくねとした道を一〇分ほど走り、丘の上のキャンプに着いた。料金は片道一〇ユーロ(一三〇〇円)

「毎日数千人の新入りが島にやってくる。商売は結構いい感じだよ。料金は固定制にしているんだ。言葉の通じない人たちにも説明しやすいし、トラブルも避けることができる」

 運転手のピーター・コンドレリスさん(四八)は、突然降ってわいたような大量のお客さんの出現にすこぶる上機嫌だった。すっかり饒舌になったコンドレリスさんによると、島を経由する二大グループは、シリア難民とアフガン難民。いざこざを避けるため、一時収容のキャンプは別々になっているという。

 キャンプに着くと、至るところに、掘っ立て小屋やテントが並んでいた。プレハブ建ての難民登録センターで、人々はギリシャ国内の通行許可証を発行してもらい、いざ本土へと向かうフェリーに乗り込むのだ。

 EUの「ダブリン規約」は、人々が最初に入った国が難民申請を受けるルールになっている。しかし、このルールだと地理的にEUの玄関口に位置するイタリアやギリシャなどに負担が集中する。ギリシャは不公平なルールをハナから無視し、むしろ旅を急ぐ人々の背中を押しているようで、とても機能しているとは言い難い。

 それはさておき、キャンプ前では、島出身の女性ブレオナさん(一九)が、プリペイドのSIMカードを威勢よく売りさばいていた。トルコからやってきた人々は携帯電話さえ渡せば、ブレオナさんが手際よくSIMカードを取り替え、ギリシャ国内で使えるようにすべて設定してくれる。

「待っていれば、お客はどんどんやってくる。おかげさまで毎日ここに通い詰めですよ」

 こちらも降ってわいた「難民・移民特需」に満面の笑みだ。

 フェリーを退去させられても、アリさんに悲壮感がなかった理由がだんだんわかってきた。この日も、島の最高気温は約二〇度。たわわに実っているオリーブや、どこまでも透き通った青い空を見つめていると、こちらまで気持ちがゆるんでくる。防寒のため着てきたスキーウエアは、出番もなく宿で休んでいる。

 しらみつぶしに小屋やテントをのぞき込んだが、アリさんは見つからない。フェリーからの突然の退去命令でこちらの方が気が動転してしまい、アリさんの携帯電話番号を聞きそびれたのが痛かった。

 キャンプで、アフガン西部ヘラート出身のモハメド・アフマディさん(一八)に出会った。トルコからこの日の朝にゴムボートで海を越え、島に着いたばかりだが、若きは力なのか、それとも達成感に満たされているせいか、すっきりした顔をしていた。アリさんと同じく戦火が続く故郷からいったんイランに逃れたうえで、欧州を目指している。

 イランは一五年七月、西欧諸国などとの核交渉で歴史的な合意に達したばかりだ。経済制裁も段階を踏んで、解除されることになっている。国際社会との関係は雪解けムードだ。にもかかわらず、なぜこのタイミングで、イランから逃げ出してこなければならないのか?

「イランでは、アフガン人は馬鹿にされていて、まともに扱われていません。故郷のアフガニスタンは、タリバンやISがいるから平和なんて来ません。僕が生まれてから、ずっと戦争していますから。政府は汚職が蔓延していて、国家として機能していない。アフガン人がどんどん欧州に向かっているのは、そうしないと明るい未来が何も見えないからです」

 アフマディさんは、空の青に応えるかのように、祖国の絶望的な現状をさっぱり、からりと言ってのけた。人それぞれとは思うのだが、外から見る限りは、生まれた国への愛着がどこか薄く感じられる。言い回しは少し違うが、前日にアリさんから聞いた話と中身はほぼ同じだ。

 アフガン難民は、一九七九年の旧ソ連軍侵攻や、二〇〇一年からのアフガン戦争のたびに生まれてきた。隣国のイランは、パキスタンに次ぐアフガン難民の受け入れ国。一六年五月現在で、難民登録は約九五万人だが、不法入国なども含めると二五〇万人以上が首都テヘランなどで暮らしているとされる。

 アリさんの妻、タヘリーさんや一人娘のフェレシュテちゃんのように、イランで生まれて、祖国アフガンに住んだことのない二世、三世も多い。イラン政府も教育や医療サービスは提供しているが、アフガン難民は学歴があっても就職口が限られている。低賃金の工事現場の重労働などしか職はなく、車や土地を持つことも許されていないのだ。居住区からも無許可で出ることができない。こうした制約が「イランでも未来が描けず、アフガンにも帰れない」という状況を生んでいる。

「フェリーの再出発の時間は、四日午後四時にまたも変更されました。午前六時ではありません。くれぐれもご注意ください。またフェリーで会いましょう」

 私はノートをちぎって、ボールペンで、簡単な英語の一筆をしたためた。アリさんの風貌をアフマディさんに伝え、もしアリさんに出会ったら手渡してほしいとアフマディさんに頼んでおいた。

 アフマディさんの後に、ゴムボートで島にたどりついた人たちだろうか、大きな荷物を背負ってキャンプにやってくる人波はずっと途切れなかった。

 帰りに港へも立ち寄ったが、アリさん一家の姿はなかった。本当に四日午後四時にフェリーで落ち合えるのだろうか。

第一章 ギリシャ(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01