「幻の代表選手」が歩んだ、ほろ苦い人生
40年前、幻の五輪の物語。『江夏の21球』作者による野球以外の傑作選。

たった一人のオリンピック

1981(昭和56年)

 使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまったせつけんを見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで──と、そこで思ってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的に、あまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。使い古しの石鹸のようになって、そのことのおぞましいまでの恐ろしさにふと気づき、地球の自転を止めるようにして自らの人生を逆回転させてみようと思うのはナンセンスなのだろうか。周囲の人たちは昨日までと同じように歩いていく。それに逆らうように立ち止まってみる。それだけで、人は一匹狼だろう。

 一人のアマチュア・スポーツマンがいた。

 昭和五〇年のはじめ、彼は東海大学に通う学生だった。ごく普通の学生であったという以外に特徴はない。日々、麻雀マージヤンにあけくれ、これといった研究テーマがあるわけではなく、なんとなく無為に日々をすごす、つまり、ごく普通の学生であった。高校は教育大(現・筑󠄁波大)附属大塚高校。有数の進学校であり、彼も東大を目指した。一浪し二浪し、三回目も失敗して結局、彼は東海大へ進んだ。そのせつ感もあって彼は押し流されるように日々を過ごしていた。そして二三歳になっていた。

 ある日、彼は突然、思いついてしまう。オリンピックに出よう、と。その思いつきに、彼は酔った。「もし、それが実現すれば」と、彼は思った。「なんとなく沈んだ気分が変わるんじゃないか。ダメになっていく自分を救えるんじゃないか」

 そこで彼は、自分の時間を一度、せき止めてしまった。遠大なビジョンに向かって非日常的な時間を生きてしまう。

 すべてはそこから始まったわけだった。

    *

 一九八〇年六月一五日、日本時間の午後一時はスイスの朝の五時に当たる。ベルンの東、チューリヒの南にルツェルンという町があり、このいかにもスイス的な、山岳部の町にも朝の五時の光が漂っている。そこから経度でほぼ一三五度東へ行くとそこに日本があり、時刻は、くり返しいえば午後の一時である。

 その差は、何ら意味を持たないが、しかし、その二つの場所から二つのシーンを同時にピック・アップすれば、その時、別の差が見えてきたりする。

 例えば、この日、日本の札幌の町では〝タイムス三〇キロレース〟が行われることになっていた。本来ならば、ということはつまり、モスクワ・オリンピックに日本が参加することになっていたならば、それはオリンピックを一か月後にひかえたビッグ・レースになるはずだった。瀬古も、宗茂、猛兄弟もこのレースにエントリーしていた。

 午後一時。スタートを四五分後に控えたこの時刻の選手団の中に瀬古も宗兄弟の姿も見えない。スタートの時刻になっても彼らがそこに現われることはないだろう。

《オリンピックがないわけですからね、このレースに出る意味はありません。走る気になんてならないよ》

 宗茂はそういって、その時刻は地元、宮崎県ののべおかで走っているだろうといった。瀬古にはまた別の論理があった。彼は《オリンピックに参加できなくても、いい》とくり返し語ってきていた。毎日数十キロ走り続けていることの目的はオリンピックに参加することなどではないのだというのが瀬古、というより瀬古をここまで育ててきた中村清コーチの論理の出発点だった。

 中村コーチはこういっていた。

《オリンピックに出ることがすべてじゃないんです。走るということ、走り続けるということは、例えば芸術家が何かを創造することと同じなんです。ロマンです。レースはその作品の発表場所ですよ。オリンピック以上の、いい発表の場所はいくらでもあります。不参加が決まる以前から、個人的には、ああいう形のオリンピックには出たくないと思っていた。オリンピックも、ヘリンピックもサヨナラです……》

 瀬古が早稲田の競走部に入ってきた時、《失敗したらオレの腕一本くらいくれてやる》といって瀬古を中距離から長距離ランナーに転向させたのが中村コーチだった。瀬古を自宅近くに住まわせ、マン・ツー・マンでマラソン・ランナーに仕立てあげてきた。冬、正月の箱根駅伝、六五歳の中村コーチは鶴見─戸塚間を走る瀬古に伴走車の上に立ち、〝都の西北〟を歌って激励していた。そのシーンはこの師弟のホットな関係を語るに過不足はない。そして、もう一つ、別のシーンをここに挿入すれば、この師弟は瀬古が早稲田を卒業し、えんじ色に白で〝W〟と書かれた早稲田大学競走部のユニフォームを脱ぐと、ともにエスビー食品に就職していった。八〇年の春、四月のことである。それはエリート・アマチュア・スポーツマンにとって、選手寿命のある限り、心おきなく練習し、レースに出場し、中村コーチの言葉をりれば《芸術作品》を作ることに没頭できることを意味する。

 六月一五日。その瀬古はオホーツクに向かっている。網走あばしりからゆうもう線でさらに北へ向かいとこに着く。この北の、誰にも、何ものにもわずらわされない町でヨーロッパ遠征にそなえてのスピード強化をはかろうとしているのだ。

 瀬古は、もちろん、時差にして八時間違うスイスの小さな町に誰がいるか、知らない。知らなくて当然だし、知る必要もないだろう。スイスのルツェルンの朝の五時の空気のなかにいるのはまったく無名の、モスクワ・オリンピックの代表選手に選ばれてはいるが、それ以上でもそれ以下でもない、一人のボート選手にすぎないのだから──。

 彼を瀬古との対比角度において一三五度違うその線上に浮かびあがらせてみたいと思うのには、しかし、それなりの理由がある。

 彼はスポーツ・エリートではなかった。幸か不幸か、ある時、彼の頭に《オリンピック選手になろう!》という思いがとりついてしまった。そう思いつくことは、気分の悪いことではない。彼もその思いつきに酔った。その酔いは彼にとって、再び同じフレーズをリフレインさせれば「幸か不幸か」、一夜にしてめてしまうものではなかった。たいていの人間にとって、そんなことは一瞬の思いつきで終わってしまうだろう。

 彼は、しかし、その思いつきで自分の人生の流れを止めてしまった。そして、五年あまり、彼はそのことにこだわっていたのだ。

 その結果として、彼は六月一五日の早朝、スイスのルツェルンという町にいる。

 彼の名前は津田真男という。ボートのシングル・スカル、つまり一人乗りボートのオリンピック日本代表選手である。年齢二八歳になる寸前だった。

 状況は最悪だった。

 六月一五日、彼、津田真男は試合を控えている。〝ルツェルン・レガッタ〟、世界選手権ほどの規模ではないが、オリンピック参加国からは調整を兼ねた選手が来ているし、ボイコット国からはオリンピックのかわりにこの国際試合で勝とうという選手が集まっている。それはいいのだが、問題は彼がこのレースに勝てそうもないということだった。

 すべてが狂ってしまっていた。

 モスクワ・オリンピックが始まる七月一九日に合わせて、日本そうてい協会は西ドイツのメーカーにシングル・スカル用の新しい艇をオーダーしてあった。モスクワ・ボイコットが決まったあと、協会はこの〝ルツェルン・レガッタ〟に間に合うように作ってくれるようメーカーに注文した。何とか間に合わせるという話になっていた。津田選手は新しい艇で練習し、恐らく最後になるだろうこのレースに出場するつもりだった。その艇がまだ届かず、彼は借艇でレースに臨まざるをえなかった。しかも、練習不足のままでだ。

 それも、いいとしよう。

 もっと大きな問題は、どうしようもなく力が入らないことだった。集中力が落ちているのか、どうしようもない。

 ボイコットの話が出てからずっとそれが続いていた。

《二月の一日でしたか》と、津田は語った。《政府が事実上の不参加の方針を決めたでしょう。そのうち四月に入ってUSOCが不参加を決めた。アメリカがクシャミすれば、日本は風邪をひくといわれているでしょう。日本が参加するはずがないと思っていました。それでもまだ参加できるかもしれないとJOCがいってたりしてたわけですよね。今年の一月からヘビの生殺しのような状態が続いていたわけですから、集中力がなくなってしまうのは当然ですよ……》

 彼が〝シングル・スカル〟という競技にかろうじて執着できたのは四月二六日の〝モスクワ五輪最終選考〟までだった。その日、埼玉県のボート場で、距離二千メートルの選考会が行われ、彼は西から東へといでいくこのコースで、南東からの風、つまりサイドからの逆風を受けながら七分三七秒の記録で勝った。ボートレースにタイムの公認記録はない。コースの波の状態、風向きによって同じ二千メートルでも二、三〇秒の差が出てしまうからだ。それゆえ、対抗艇より早くゴールインすることがすべてになる。五輪選考会で津田艇は他の三艇を圧倒的に引き離した。その後、五月に入り国内での大会に二連勝したが、彼の集中力はそこまでだった。

 JOCがモスクワ五輪ボイコットを最終的に決めたのは五月二四日のことだ。

《表面上は〝オリンピックなんか何だ!〟とか〝さて、ほかのことでもやるか〟なんていっていましたけどね、やはりかなりショックを受けました。練習していても、考えることはオリンピックのことじゃなくて、自分の一生の比重って何だろうってことなんです。学生選手だったり、実業団の選手だったら、オリンピック以外にもやることがあるんでしょうけどね。ぼくの場合、大学を出たあと、この五年間、アルバイトでかろうじて生活してきたんです。オリンピックに出てメダルをとろうっていう、それだけしかなかったんですよ。それがすべてだった。自分の生活というものがなかった。オリンピックが終わるまでは、少なくともその問題から逃避できるはずだったんですけど……オリンピックがなくなったら、ぼく自身の生活、人生に直面せざるをえない》

 六月一五日、ルツェルンのレースでは、当然のように彼は敗れた。

 が、しかし──

 オリンピックに出るんだという発想は、日常生活者の思いつきにしては悪くなかったし、彼、津田真男の場合、その後の成り行きは、まるでスポーツ漫画のヒーローを地で行くほどに順調だったのだ。

〝今日、Good idea が浮かんだ!! これでぼくも自信を持てるだろう!!〟

 と、彼が日記に書いた日があった。

 昭和五〇年一月初めのことである。

たった一人のオリンピック(2)

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