「さあ、みんな揃って、ソニーマンから東芝マンになるか」
ソニー元ナンバ-2が語る、イメージセンサー躍進の真実。痛快逆転ストーリー!

1章 問題だらけの事業本部

 時代の流れに遅れつつあったソニー。

 同じようなことは、本書の舞台である半導体事業本部にも起きていました。

 主力商品であるCCDイメージセンサーが早晩、CMOSイメージセンサーに取って代わられると見られていたのです。

CCDがなくなる!?

 イメージセンサーは撮像素子ともいいます。光を感じて電気信号に変換する半導体センサーで、〝電子の目〟とも称されます。デジタルカメラに代表される光学機器の重要な部品です。

 フィルムカメラでいうならフィルムにあたります。カメラのレンズを通って入ってきた光をイメージセンサーがお皿のように受け止めて、画像を作り出す大切な部品です。

 CCDはCharge Coupled Device(電荷結合素子)の略で、1969年にアメリカのベル研究所で開発されました。ソニーはそれをイメージセンサー用に研究開発し、世界で初めてビデオカメラ撮像素子として製品化しました。

 CCDイメージセンサーは画素と呼ばれる小さな素子が集まってできています。よく800万画素、1200万画素などと言われるのは、イメージセンサーの画素数のことです。1つひとつの画素にはフォトダイオード(受光素子)があり、電荷が蓄えられます。この電荷がバケツリレーのようにアンプ(増幅装置)へと転送され、増幅することで電気信号に変換されます。

 CCDイメージセンサーは、最初は全日本空輸(ANA)の飛行機のコックピットカメラに搭載されるなど、業務用が主流でした。1985年に8㎜カムコーダー(VTR一体型ビデオカメラ)に搭載されて以降は、民生用の動画撮影用カメラでソニーのCCD9割超という圧倒的シェアを誇っていました。

 一方のCMOSイメージセンサーのCMOSとはComplementary Metal Oxide Semiconductor(相補性金属酸化膜半導体)の略で、フォトダイオードとアンプで電荷を電気信号に変換する仕組みじたいはCCDと同じです。ただし画素ごとにアンプを組み込んであるため、電荷を一気に伝送できます。さらに、すべての仕組みを1個の半導体に作り込むシステムオンチップ化が可能となるため、処理速度が高速化できるメリットがありました。

 一言で言えばCMOSイメージセンサーのほうが高精細かつ高速に撮影できるようになるため、HD(High-Definition、ハイビジョン)放送や将来の4K(フルハイビジョンの4倍の画素数を持つ高画質)放送時代に主流となる可能性がありました。静止画であっても、今では当たり前となった秒速連写などはCMOSイメージセンサーが適することがわかっていました。

CMOSにシフトせよ

 CMOSイメージセンサーがCCDイメージセンサーに取って代わるかもしれない──。ソニーは、CCDイメージセンサーという金のなる木が枯れてしまったらどうするのかという不安に襲われるようになっていたのです。

 ソニーが圧倒的シェアを握る動画撮影のイメージセンサー市場を守り抜くためには、CMOSイメージセンサーでも世界一の技術力を保持することが必須でした。

 意外かもしれませんが、CCDの危機を最初に警告したのは、CCDの生みの親である越智成之でした。彼は研究者らしい誠実で物静かな人物で、普段は決して自分を売り込んだりアピールしたりしないと周囲から見られていました。

 その越智が、しかもCCDイメージセンサーを否定しかねないCMOSイメージセンサー開発の重要性について、半導体事業本部内だけでなく、本社の投資を審議統括する経営戦略本部にも啓蒙して回り始めたのです。2000年ごろのことです。

 「本社は技術の変化をじゅうぶん理解したうえで戦略を構築し、投資を行わなければならない」

 越智が熱心に説いている姿は、まだ本社の事業戦略課長だった私にとって驚きでした。部品部門の開発者がわざわざ品川にまで押しかけて、啓蒙活動を行っているのですから。

 ただ、越智の行動は正しかったと思われます。ソニー本社では得てして、最終商品の開発や戦略に注目が集まりがちです。実際、当時の私も「プレイステーション2」のようなセットを開発するための投資検討にばかり目が向いていました。

 ソニー技術者のおもしろさは、こういうところにあります。

 創業者の井深は、ソニー独自のトリニトロン方式テレビを新たに開発したと発表した次の日には、別の開発テーマに夢中になるような人でした。越智も、自分たちが開発した虎の子技術であっても、それを凌駕する技術に対しては敬意を払い、チャレンジすることに情熱を燃やす。越智はいわば最もソニーらしい主張をしたのです。

久夛良木のCCD禁止令

 越智を後押しするかのように、事業面から啓蒙活動を加速させたのが、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)社長で、当時は半導体本部長を兼務していた健でした。プレステ生みの親でもある久夛良木は、技術全般に造詣が深かったのです。

 「将来の投資はCMOSイメージセンサーに特化すべきだ」

 「薄型テレビでは、プラズマテレビではなく液晶が主流になる」

 「インターネット時代の新しい流れに対応するなら、プレステをやっているSCEという新しい革袋に任せろ」

 エッジのきいた方針を次々と出し、強い影響力を与えていました。

 この鬼才を愛したのが元会長の大賀典雄です。久夛良木に将来は世界の経営者と肩を並べる人間になれと励ましたりしていました。そのためにと、スティーブ・ジョブズを招待できるような邸宅を東京都内に建設することをアドバイスするなど、帝王学を学ばせていたのです。

 私にとって久夛良木は、入社年度が1年先輩という関係です。1975年、1976年入社はオイルショックで採用数が絞られた時期ですから同期は50人弱しかおらず、先輩、後輩の友人を通して交流がありました。その私から見ても、久夛良木は日本のジョブズのような鬼才、天才だと思いました。ただしソニーも日本の会社であり、日本の資本主義の論理で動いていたので、アメリカのような壮大なドリームが見られなかったことは残念です。

 久夛良木は、半導体経営会議では担当の鈴木智行・半導体事業部長にCMOSイメージセンサーの開発進捗を逐一報告させていました。会議ではいつも厳しく責められ、それは大変だったと鈴木の同僚だった半導体幹部から聞いたことがあります。

 2004年、ついに久夛良木は、CCDイメージセンサーの増産投資を禁止すると宣言してしまいます。当時はデジカメ市場が成長していましたが、静止画しか撮らない機種が一般的でした。CCDは明るくコストも安いため重宝され、カメラメーカーから増産要求が強く来ていた最中での禁制です。

 久夛良木の見通しは正しくても、鈴木には目の前の顧客に対応する必要があります。この無理難題に、鈴木は大変苦労したと語っていました。CMOSイメージセンサーと両用の投資であることを強調しながらCCDイメージセンサーの投資決裁をお願いしても、ギリギリまで久夛良木から突き返しを食らったそうです。

 そんな難局に苦しんだ鈴木ですが、

 「ソニーのCMOSイメージセンサーの開発をここまで加速させたのは、久夛良木さんのおかげ」

 こう振り返っていたのを聞いたことがあります。

痛い出遅れ

 ソニーがCMOSイメージセンサーを初めて商品化したのは2000年のことです。AIBOの鼻の部分に搭載され、AIBOの目として働くとともに、呼びかけると写真を撮ってくれるというものでした。

 同じころからCMOSイメージセンサーを生産する準備も進めていったのですが、実は、その先には根深い問題が2つも存在していました。

 1つは特許の問題です。ソニーがCMOSイメージセンサーを開発したのは、業界内では最後発でした。そのため、主要な特許の多くを他社に握られてしまっていました。

 CMOSイメージセンサーが、既存の半導体メーカーにとって参入障壁が低かったことも問題でした。CMOSの技術はDRAM(半導体記憶装置)やLSI(大規模集積回路)などと共通点が多いのです。

 半導体メーカーとの技術競争にさらされることになれば、業界内では存在感の小さいソニーでは、技術開発のトレンドについていけなくなる懸念があります。さらに、半導体メーカーたちが使い古した一世代前の工場でCMOSイメージセンサーを製造し始めたら、減価償却費でコスト競争に勝てなくなるということは明らかでした。

 唯一の楽観材料は、当時のイメージセンサー市場は今ほど大きくなく、大手半導体メーカーがどこもCMOSに興味を示していなかったことでしょうか。

 イメージセンサー最大の仕向け先は民生用カムコーダーで、中でも8㎜カムコーダーではソニーがシェアを独占していました。比較的新しい仕向け先であるデジカメ向けに関しても日本メーカーが強く、海外の競合メーカーと比べるとソニーには地の利もありました。

 2005年前後になっても、競争相手はCMOSベンチャーというのが実態でした。のちに韓国のサムスン電子がカメラ事業参入とともにCMOSイメージセンサー事業にも参入しましたが。

プレステ3の大誤算

 特許と競合という2つの問題をはらみつつも、ソニーのCMOSイメージセンサービジネスはスタートしました。2003年には携帯電話のカメラ向けにも商品化されます。

 ところが困ったことに、旗振り役である半導体事業本部にある重大な問題が降りかかったのです。

 200611月に発売が予定されていた次世代ゲーム機、プレステ3についての問題です。いよいよ発売という時期になって、プレステ3がプレステ1やプレステ2のように大成功を収められるか疑わしくなってきていたのです。

 半導体はゲーム機の頭脳です。ソニー半導体事業本部は、プレステ3の主要な半導体チップを生産するために巨額の投資を行い、供給の準備をしていました。

 1994年に初代機が発売されたプレステのビジネスは、開発者でありビジネスマンでもある久夛良木がゼロから作り上げたものです。

 ゲーム機そのものの売り上げもさることながら、プレステ向けのゲームソフトが売れるごとにロイヤルティ収入がソニーの懐に入ってきます。この仕組みによって、ソニーは〝ゲームビジネス連鎖〟の頂点に立つことができました。ソニーの歴史上誰もなしえなかった、バリューチェーンを完全に支配できるビジネスモデルを大賀は絶賛したものです。

 2000年代中盤になると、プレステはソニーの基幹ビジネスになっていました。満を持して発売するプレステ3は、米IBMと東芝、ソニーで共同開発したCPU(中央演算装置)であるプロセッサ「Cell Broadband Engine」が搭載され、抜きんでた高速処理で他社の追随を許さない仕様となっていました。

 しかし瀬戸際で、ソニーは思わぬ裏切りにあいます。IBMが似て非なる技術をマイクロソフトに提供してしまったのです。

 これによってマイクロソフトは200511月に家庭用ゲーム機「Xbox 360」を発売しました。IBMとしては、開発した技術を最大限活用しただけであり、利益の追求が企業の目的です、ということだったのかもしれません。しかし共同開発の成果物には、守秘義務や独占の権利が伴うはずです。

 IBMとの間には、守秘義務条項や独占条項が含まれた契約書がちゃんと存在しました。ただ、契約交渉の場には弁護士が毎回現れて、クライアント(IBM)に有利になるように事を運んでいるように思えました。日本企業との交渉では考えられないスタイルです。

 ソニーも優秀な社内法務スタッフが応戦したのですが、IBM内部でのファイアーウォールの不備や意図的な社内リークがあったとしても、このことをソニー側から証明するのは至難の業だったと思われます。

 契約とは、お互いを信頼することで成り立ちます。彼らの行動はその信頼を裏切っているかのようにこちらからは見えました。身勝手な論理かもしれませんが。

 のちにIBMから内部告発があり、新聞報道もされたように記憶しています。結局は訴訟を起こして契約違反を確かめたわけではないので真相はやぶの中です。

第1章 問題だらけの事業本部(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01