朴槿恵が開いたパンドラの箱
これは「嫌韓本」ではありません。韓国を愛し、理解しようとつとめてきた筆者が見た、ありのままの韓国のルポルタージュ。風雲急を告げる北東アジア情勢において、韓国を理解するための絶好の1冊。

1章 政治

──スターリンは言った。「朝鮮人は三人集まれば、四つの政党をつくる」

朴槿恵の失政で開いたパンドラの箱

「主文。被請求人 大統領 朴槿恵を罷免する」。二〇一七年三月十日午前十一時二十一分。ソウルの憲法裁判所で、ジヨン所長代行の声が静かに響いた。一九八七年の韓国の民主化後、初めて韓国大統領が任期途中で罷免された瞬間だった。

 この日は午前八時ぐらいから、憲法裁判所がある地下鉄三号線アングク駅周辺は騒然とした雰囲気に包まれていた。裁判所から百メートルほど離れた交差点では、警官隊が高さ五メートルぐらいの遮蔽板を設置。そこから先は、報道関係者など許可を得た人間以外は入り込めないようにした。

 その周辺では、弾劾に賛成する集会と反対する集会がそれぞれ開かれていた。安国駅のプラットホームには、「左に行けば反対集会、右に行けば賛成集会」といった手書きの掲示板が貼られていた。年配者が目立つ反対集会はひたすら「弾劾無効」「国会解散」を叫び、「我が国は我々が守る」といった歌詞が含まれた愛国軍歌を大音量で流す。賛成集会は「今日で決着をつける」「弾劾を貫こう」といった横断幕を張り出し、参加者が大スクリーンに映し出された法廷の様子を食い入るように見つめた。

 そして十一時二十一分の宣告が流れた瞬間、賛成集会の人々は抱き合い、ある人はシャンパンを振りまき、ある人は泣き出し、大いに騒いだ。反対集会も騒いだが、こちらは怒気に包まれ、無理やり裁判所に向けて突入しようとした。「憲法裁判所を粉々にしろ」と物騒な言葉を口にする人もいた。結局、翌日までに三人が死亡し、約七十人が負傷する事態に至った。

 こんな混乱を横目に、朴はどうしていたのか。大統領府関係者によれば、「茫然自失」の状態だったという。宣告当日の午後、大統領秘書室長や首席秘書官らが朴と会議を開いたが、「申し上げる言葉はない」と言うばかりで、何も耳に入らない様子だった。

 結局、朴が大統領府を去ったのは二日後、十二日夜だった。表向きには「ソウル市カンナムサムソンドンの自宅の修繕ができていない」という理由だったが、実際は、朴の心の準備ができていなかったというのが理由だった。

 それは側近たちにも責任があった。憲法裁判所の決定は裁判官八人全員が支持した。にもかかわらず、大統領府の関係者は誰一人として、事前に朴に対して「罷免の可能性もある」「チヨン(韓国大統領府)を去る準備もしなければ」と進言できなかった。与党関係者によれば、朴の怒りを恐れた側近たちは「大体七~八割の確率で弾劾は否決される」と朴に報告していたという。まさに、「プルトン大統領」の面目躍如たる場面だった。

 朴は結局、大統領府を去るまでコメントを発せず、自宅に着いた後、自由韓国党(旧セヌリ党)の側近議員が「長く時間がかかるかもしれないが、真実は明らかになると信じる」という朴のコメントを読み上げただけだった。

 このとき、韓国の放送各社は通常番組を休止し、生中継で朴の動向を伝えていた。保守を支持してきた有権者の一人はこう語る。「あの瞬間、大統領選で保守が勝つ可能性は完全に消えた」。世論の七割近くが朴の逮捕を望むなか、朴が青瓦台を去ったものの、今度は与党のオーナーに収まったという印象を全国に振りまいたからだ。

 朴槿恵とその父、パクチヨンの出身地であるを中心としたTK(大邱・キヨンサンブク)では、いまだに朴一族への信仰のような根強い支持がある。TKを主な地盤とする自由韓国党の「親朴」グループは、「どうせ国会議員の選挙は三年先。そのころには、世論は次の政権たたきに夢中で、朴槿恵の事件のことなどすっかり忘れている」と思っている。自分が次の総選挙で生き残ることを考えれば、無理に冒険せずに、朴槿恵に従っておいた方が得策だという、「親朴」グループ議員たちの自分勝手な論理が、朴槿恵を変わらずかつぐという「世論無視」の行動の根拠になっていた。

 そして三月二十一日朝。朴がソウル中央地方検察庁に出頭する日がやってきた。歴代韓国大統領経験者で、検察の聴取を受けるのは、チヨンフアンヒヨンに次いで四人目だ。午前八時、朴の自宅に赴くと、すでに周囲の道路沿いに鉄柵が設けられ、九百人が出動したという警官隊が周囲を固めていた。集まった朴の支持者らが興奮して道路に飛び出そうとするのを、その都度制止している。

 支持者たちは朴槿恵が自宅に戻ったその日から、自宅前を取り囲み、連日のように、朴槿恵を罷免に追いやった憲法裁判所や野党議員らを口汚くののしっていた。チエでするように酒を周囲の道路に振りまいたり、韓国の大河ドラマの台詞のように「ママー(王妃様)、お守りできずにすみません」と叫んだり、ほとんど宗教じみた行動に出て、近所の小学校の父母らが「静かな学習環境が欲しい」と抗議する事態まで起きていた。

 二十一日の朝、私の横に立っていた朴を支持する年配の女性は朴が自宅を出発するまでの一時間余、太極旗(韓国の国旗)を振り回し、「なんでこんな国になったんだ」「ほかに捜査する相手がいるだろう」「このケーセッキ(犬の子やろう)が」などと口汚い言葉を呪詛のように延々と叫んでいた。

「今回の選挙のキーワードは怒りと恨みだ」という話を、韓国の大勢の知人たちから聞いた。

 韓国は二〇〇〇年代、財閥系大企業による輸出を頼りに、年平均四%の経済成長率を維持してきた。しかし、成長は鈍化し、二〇一六年まで二年連続で三%を下回った。朴政権で三%を上回ったのは一四年の三・三%だけ。後述するが、一九七〇年代から経済を支えた造船業は一六年、初めて人員整理を開始。海運業で韓国最大手のハンジン海運は一七年二月、破産宣告を受けた。

 低迷する経済は、市民の将来に不安の影を落とす。韓国統計庁が一六年十二月に発表した資料によると、「努力による社会や経済的地位の向上」について肯定的に答えた人は約二二%にとどまり、二十年前の数値から激減した。十五~二十九歳の若年失業率は昨年、過去最高の九・八%を記録。韓国は今後、急速に少子高齢化が進み、生産年齢人口が一七年から減り始める見通しだ。

 知人の一人は「これから、韓国は、日本の失われた二十年を経験することになるのだ」と語った。「圧縮成長をしてきた分、社会資本の蓄積もない。もっとひどいことになるかもしれない」とも話す。

 将来への不安といらだちが、朴槿恵の失政によってパンドラの箱を開けるように、韓国社会に噴き出している。私の横に立った女性の「呪詛」はその象徴のように聞こえた。

最長でも十七年しかもたない政党

 二〇一七年一月二十四日、かつて一九八八年にソウル五輪が開かれたチヤムシル運動公園。この日のソウルの最低気温はマイナス十一度。公園のあちこちに雪が残るなか、大勢の中年・高齢の男女が列を作って体育館のなかに吸い込まれていく。

 ああ、やはり、韓国の政党大会だ。必ず見られる「三点セット」がそろっている。普段は野球の応援グッズで、支持者たちが打ち鳴らす棒状の風船「マクテプンソン」、外の駐車場にずらりと並んだ「観光バス群」、そしてコンサートと見まがうばかりの「騒音と光の洪水」だ。この行事は、与党セヌリ党(現自由韓国党)から離党した議員らでつくる新保守政党「正しい政党」の結党大会だった。

 観光バスは、韓国の政党がいかに政治家のご都合によって作られているのかを教えてくれる。政治家が新しい政党を作るために一番必要なのは有権者の支持だ。支持者がいない政党なんて滑稽きわまりない。だから、政治家は自分の選挙区の支持者たちに頼み込み、せっせと会場までバスに乗せて連れてくる。マクテプンソンは、その支持者たちに自分たちがいかに支持されているのかを演出する効果がある。大音響と光の演出効果は、つまらない政治家の演説をお化粧して、参加者を軽い興奮状態に誘っていく。この日は見られなかったが、幕間に人気歌手の歌や踊りを入れたり、登壇する政治家をエスコートするために、専門会社が派遣する「黒いタイトスカートスーツ姿の案内嬢」を動員したりして、大会を楽しくて、ちょっぴりインテリジェンスの香りの漂うものに見せることもある。

 大音響の音楽や「マクテプンソン」を打ち鳴らす「カンカン」「パンパン」という乾いた音が降り注ぐなか、強烈なスポットライトの光線を浴びて、顔に脂汗を浮かべた政治家たちがこの日、最初にやった演出は、壇上に登っての「クンジョル(ひざまずいて行う最も丁寧なお辞儀)」だった。韓国与党セヌリ党の代表を務めたキムソンが、与党が大統領に推した朴槿恵が引き起こした一連の疑惑事件や、その結果起きた与党の分裂をわび、「国民と党員同志にクンジョルを捧げます」と訴えた。

 ちょうど、韓国は三日後に旧正月を控えていた。クンジョルは、旧正月や旧盆などに、父母に対して行う最も丁寧なあいさつ。ただ、それを敢えて演出したのは、「私はこんなに反省していますよ」という意思も表現したかったからだ。ある意味、日本の議員がよくやる土下座に似ている。

 金武星のあいさつの後、登壇した政治家たちは次々と「公正な政治」「温かい政治」「清潔な政治」を訴え、万雷の拍手を浴びた。

 ただ、この日の結党大会に至る舞台裏はそんなにきれいなものではなかった。

 まず、この一月二十四日という日付に意味があった。韓国では一年間に四度、登録された各政党に政府の補助金が支給される。今年の第1四半期分の支給日は二十五日だった。セヌリ党は、ソウル・にある党本部の建物だけで資産価値が二百億ウォンとも三百五十億ウォンとも言われる。そこから飛び出した議員たちには金がない。当座、議員一人あたり五百万ウォンを出して、仮事務所の運営費用に充てたが、とても足りないため、補助金が入り次第、活動を本格化させようと、結党大会をこの日に持ってきたのだという。

 また、この日の大会では、朴槿恵と袂を分かったスンミン元セヌリ党院内代表が注目を浴びた。同党の有力な大統領候補の一人として、独自のコーナーを設けて、彼の政策を宣伝し、売り出した。大会中、劉は金武星と最前列に並んで座り、息の合った姿をみせた。

 しかし、裏側ではどろどろとした政治的な計算が働いていた。「正しい政党」に参加した議員の一人は「あの二人(金武星と劉承旼)をどうやってくっつけるかで相当苦労した」と明かす。

 韓国の政治家も日本と同じく、まず考えるのが「自分」だ。自分の議席が維持できるのか、自分がもっと偉くなれるのかどうかについて、まず思いを巡らせる。その次が「所属政党」、そして「自分のボス」だ。最後はそれが政党代表だったり、大統領だったりする。

 今回、「正しい政党」に参加した国会議員は三十人。うち、知名度があるのは金と劉の二人ぐらい。この二人が参加しなければ、烏合の衆となり、すぐに消滅の危機を迎えるとみられていた。

 ただ、金は元々、次の総選挙にも大統領選にも立候補しないことを宣言しており、政治的な立ち回りに一切の制約がなかった。次の選挙を考えなくて良いから、別に与党のセヌリ党にしがみついている必要もない。むしろ、最後の賭けに出て、自分が政治の中心に立って、あわよくばキングメーカーの役回りを演じ、首相や議長になってみるのも悪くない、と考えたと思われる。

 一方、劉はまだ若いし、大統領選にも色気がある。次の総選挙を考えた場合、あまり政党を渡り歩くのは危険とも言える。どうしても離党してくれ、というなら、自分を大統領候補に担ぐぐらいの担保がほしいとも考えたようだ。

 この二人の思惑がからみ、結局、「正しい政党」は結党までに、当時、有力な提携相手とみられたパンムン前国連事務総長を大統領候補として担ぐことをしなかった。

 もちろん、「じゃあなんでそんなに無理して離党するのか」という疑問も浮かぶが、二〇一六年秋からわき起こった朴槿恵を巡る一連の疑惑から、当時のセヌリ党への世間の風当たりは猛烈に強かった。この風当たりを防ぐことができるのは、TK(大邱・慶尚北道)とゆかりの議員だけと言われた。劉も、このTKラインを地元とする議員の一人だ。

 自由韓国党関係者は「すべては二〇一六年総選挙の公認争いが発端」と語る。この総選挙で、当時のセヌリ党は徹底的に「非朴派(朴槿恵と距離を置く政治家)外し」をやった。劉も圧倒的な支持率を誇りながら、最後までセヌリ党の公認が下りず、たまりかねて離党して無所属で選挙を勝ち抜き、その後にセヌリ党に戻ったという経緯がある。セヌリ党は二〇一六年十二月九日の朴槿恵大統領の弾劾決議を経て、党名を自由韓国党に変えた後も「親朴派」が中枢に座り続けており、残留しても活躍できる見込みは少ない。

 結局、すべて自分の生き残りを計算したうえでの離合集散劇だった。一月二十四日の「正しい政党」結党大会で、数多くの政治家が登壇したが、「なぜ、与党だった自分たちが、朴槿恵疑惑の発生を許してしまったのか」という説明はなかった。自由韓国党に残った関係者の一人は「あいつらは、離党したら、もう自分たちに責任はないという顔をしている。本当に責任を痛感するなら、残って党を再建すべきだろう」と憤慨する。

 この憤りが天に届いたのか、「正しい政党」の議員たちも、結党大会から十日も経たないうちに、奈落の底に突き落とされた。あてにしていた潘基文が二月一日、大統領選への立候補を突然、辞退したからだ。しかも、潘は会見で、政治家たちをあしざまにこき下ろし、「そんな奴らと一緒に仕事はできない」という趣旨の発言をぶちまけた。当時の同党の様子について、関係者の一人はこう振り返る。「潘の会見をテレビ中継でみていた金武星は呆然としていたそうだよ。力が抜けたという表現がぴったりだった」。

 正しい政党は有力候補を失い、支持率も五%前後と低迷。「早晩、消滅の憂き目か」という世間の冷たい視線を浴びている。

 韓国はほぼその時代の政治リーダーが変わるたびに、政党も看板の掛け替えを続けてきた。もっとも長く続いた政党でも、朴正熙政権時代の与党、民主共和党(一九六三~一九八〇年)の十七年に過ぎない。セヌリ党の前身、ハンナラ党もわずか十五年しか持たなかった。

 与党関係者は自虐的な口調でこう語る。「与党の名前なんて、自由、共和、韓国など、保守をイメージした名前をビビンパプのように混ぜて組み合わせ直すだけなのさ」。

 野党も、キムジユン元大統領の流れをくむ南西部、チヨルを地盤とする政党が代々、民主党という屋号を保ってきたが、めまぐるしく政党母体が変わるため、「新千年民主党」「統合民主党」「共に民主党」など、だんだん冗談のような名前になってきている。

 その野党も、今は二〇一二年大統領選で惜敗したムンジエインら、盧武鉉元大統領支持派が中心となった「共に民主党」と、文と袂を分かった元IT企業家のアンチヨルと全羅道勢力が中心になった「国民の党」に分裂。主な政党だけで四党に分かれる事態となっている。

 かつてソウルの日本大使館に勤務した元政府関係者は、ソ連政府関係者(当時)から、スターリンがかつて朝鮮を評した言葉を教えてもらったという。「朝鮮人は三人集まれば、四つの政党をつくる」。

第1章 政治──スターリンは言った。「朝鮮人は三人集まれば、四つの政党をつくる」(2)

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