大正期、国民はデモクラシーを求めた。それは、大正元(一九一二)年に桂太郎内閣の退陣を求めた第一次憲政擁護運動に始まり、大正一三年の清浦奎吾内閣出現に対する第二次護憲運動によって結実する。
首相は官僚出身の枢密院議長、閣僚はすべて貴族院議員。こうした清浦内閣を「民意に基礎を置かない非立憲内閣だ」と野党は攻撃した。清浦も対抗し、衆議院第一党政友会の切り崩しで応える。政友会の過半数議員が離党し、政友本党を結成する。
決着は総選挙に持ち込まれ、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が勝利した。首班は第一党憲政会総裁の加藤高明で、三派連立内閣が成立した。総選挙により示された民意による政権交代の意義は大き…
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