2010年に逮捕された2人の金融マン エリートとアウトサイダーが見た奈落
SFCG(旧商工ファンド)の大島健伸と日本振興銀行の木村剛。彼らはどのように一時の成功者となり、転落していったのか。2人の人生をたどりながら、他人を犠牲にした個人主義の蔓延に警鐘を鳴らす。

プロローグ

 一人は、中央銀行キャリアから時の政権のブレーンにまで上り詰めた金融エリート──

 もう一人は、商工ローンという辺境からのし上がった悪名高き金融アウトサイダー──

 二人の人生が相まみえることなど、ほんの数年前にはおよそ想像もつかない、出来の悪いフィクションでしかなかった。しかし、世の中とは数奇なものである。二人はある種の必然に導かれるようにして互いの距離を加速度的に縮め、そして、一瞬だが激しい化学反応を引き起こし、それぞれが醜い相貌を剥き出しにして、再び異なる道を破滅へと転げ落ちていった。

 学歴選抜システムのふるい分けを難なくくぐり抜けて日本銀行に入行した木村剛は、颯爽と金融の最前線を駆け抜けた。不良債権問題が日本経済を暗く覆うなか、外資系コンサルティング会社の社長へと軽快に転じていた木村は若手論客の雄として一躍台頭する。構造改革を掲げる小泉純一郎政権に招かれ、その強力な臣下である竹中平蔵の懐刀となった時、木村は頂点を極めたといえる。

 かたや、まだ業界さえ確立されていなかった商工ローン事業に商機を見た大島健伸は、藁をもすがる中小零細業者からこうけつを絞り上げる禁断の術を発見し、自らの富を極大化させた結果、世界的な富豪の仲間入りを果たした。その商法は社会的なバッシングの的となり、国会の場でも厳しい追及の矢面に立たされることとなったが、裏返せば日本中が注目するヒールとなったこの時の大島はそれだけ押しも押されもせぬひとかどの経営者に成り上がったということでもあった。

 世紀末の前後、二人がそれぞれの高みに立った領域はまったく異なり、金融におけるメインストリームとマージンという対極にあったわけだが、「失われた十年」にもがき苦しむ日本において独自の光彩を放った彼らの絶頂期だけは微妙に重なり合っていた。

 それからの数年、二人の人生はそれぞれの見込み違いやある種の不可抗力によって暗転する。そして、それぞれが己ばかりの生き残りに執着した結果、異なる方角を向いていたそれらはにわかに針路を変え、短時日のうちに複雑な絡まり合いを見せた。

 大島が一代で築き上げたSFCG(旧商工ファンド)が経営破綻したのは二〇〇九年二月のことである。当時の公表額だけでも負債は三三八〇億円に上った。かつて社会から激しく指弾を受けるほどの冷酷にして強力無比な営業力を誇り、大島に莫大な富をもたらした巨大な収益マシーンは、末期ともなるや略奪の無法地帯と化し、無惨な張りぼてとして打ち捨てられた。

 金融コンサルタントであったはずの木村が身の丈に余る私財を投じてのめり込んでいた日本振興銀行は、二重に譲渡されたカラのローン債権を大量につかまされており、SFCG破綻の時点で自らの命脈を絶たれたも同然だった。ところが、その後、一年余りにわたって狂気の経営が繰り広げられ、やはり法律無視の暴走機関車と化した。二〇一〇年九月、預金カットを強いるペイオフが日本で初めて発動され、振興銀もついには経営が破綻し、その汚名のみを後世に残すこととなる。

 長男・長女に勝る「三人目の子供」として溺愛したはずの会社から資産を掠め取っていたことが民事再生法違反(詐欺再生)などに問われた大島、そして、監督当局を敵視するほどの独善に陥り銀行法違反(検査忌避)に問われた木村──。相次いで刑事被告人の身となった二人から、最後、我々に回されてきた勘定書はずいぶんと高くつくものだった。

 日本振興銀行の経営破綻から三カ月後、無惨な廃墟の後片付けに入った預金保険機構はこんな数字をとりまとめている。

 それによれば、破綻直前に六四〇〇億円あったとされた日本振興銀行の資産額は親密企業群に対する資産査定を真っ当なものに是正したことなどによって三分の一の二二〇〇億円へと評価し直され、同様に六一〇〇億円とされていた負債額は覆い隠していた不都合な債務を計上した結果、八九〇〇億円へと膨らんだ。差し引きで六七〇〇億円という途方もない額の債務超過である。

 ペイオフの対象となる一〇〇〇万円を超えるお金を預けていた預金者は都合三千四百二十三人を数え、その対象額は合計約一一〇億円に上るとされる。それらに対する概算払い額は元本のわずか二五パーセントにとどまるという。対象となる預金者は最終的になけなしの預金の半分以上を失うことがほぼ確実である。

 そして、ペイオフの対象とならない一〇〇〇万円以下の預金五七一〇億円を保護するため、おそらく四〇〇〇億円前後の預金保険が穴埋めに充当されることになるであろう。

 その原資は全国津々浦々六百近い大小金融機関から薄く広く集められる保険料である。二〇〇九年度の場合、一般預金に課せられた保険料は〇・〇八一パーセントで、預金保険機構の一般勘定にプールされた保険料は六四一一億円である。日本振興銀行の破綻処理には、年間保険料収入の六割ほどを注ぎ込まなければならない計算となる。

 それらの最終負担者が何ら落ち度のない一般預金者であることは言うまでもない。

 ここで仮に「振興銀・SFCG事件」と名付けることとする一連のスキャンダルは、金融史上かつてない特異なものであった。長期不況の徒花的に勃興したノンバンクの一角と、一見したところ高邁な理念を掲げて出発した新銀行とがいつしか同質化し、ありとあらゆる奸智がめぐらされた結果、それは稀に見る詐欺的な打撃を片方に与え、一方は金融当局をも敵に回して自らの失敗を糊塗しようとあがき、必要以上に惨禍ばかりが広がった。そして、それらすべてが二人の絶対権力者によりもたらされたものであったという点で事件の特異性はここに際立つ。

 日本振興銀行とはすなわち木村そのものであり、SFCGとは大島そのものであった。

 これから見ていく一連のスキャンダルに至るストーリーには多くの関与者が登場することになるが、言ってみればそれらは木村と大島の圧倒的な存在感を浮き立たせる背景画の一部にすぎない。日本における企業スキャンダルは、多数のか弱き関係者による意図せざる共同不法行為の予期せぬ結果であることがしばしばだが、「振興銀・SFCG事件」は木村と大島がいなければ起こり得ない性質のものであった。

 SFCGの資金繰りが綱渡りの状態に陥っていた最中、大島は自らの報酬を月額二〇〇〇万円から九七〇〇万円へと大幅に引き上げている。混乱するばかりだった現場で呻吟する従業員を尻目に、倒産間際の会社からひと月に一億円近い報酬を受け取ることができる神経は並大抵の図太さではない。

 しかも、のちに債権者の申し立てにより自らの破産手続き開始が決まると、大島はその取り消しを求めてこう抗弁してみせた。

 「抗告人(=大島)の報酬額は東証1部上場企業の創業かつオーナー社長としては破格に安いものであった」(カッコ内は引用者)

 そして、数年前に空前の報酬を受け取った投資顧問会社の有名ファンドマネジャーを引き合いに出し、本来なら月額二億七〇〇〇万円をもらってもおかしくはなかったとの主張まで行っている。

 これは大島を物語るエピソードのほんの一例にすぎない。SFCGはこうした大島の超個人主義的な独自の思考によって急成長を遂げ、そして破綻した。

 金融庁による立ち入り検査が進行するなか、不都合な電子メールを隠蔽していたことがばれた木村は翌日、代表執行役社長に据えていた西野達也と行内電話で善後策についてやりとりしている。木村は西野に対して、検査官を丸め込むため、すべての電子メールをあらためて提出するよう指示を与えていた。そうすれば、過失によるものとの抗弁で乗り切れると踏んだからである。

 「作業中で要はこぼれたんでしょっていう話でやるわけだよね」

 木村は西野に対して、そう念押しした上でこう続けた。

 「そんなすぐ(すべての電子メールが)出るのもおかしいし、そこでちょっと渡す時はよくよく考えた上で渡さないと。引っかけてくるからさ、検査忌避でね」

 この物言いからは、検査官のことを、天才と謳われた自らの足下にも及ばない木っ端役人程度にしか見ていなかった木村の傲慢な姿が透けて見える。そして、これも木村を物語るエピソードのほんの一例にすぎない。日本振興銀行はこうした木村の超個人主義的な独自の思考によって破綻し、わずか六年ちょっとというその浅い業歴に比べればあまりに巨額の損失をあとに残した。

 これから本書が辿ろうとするのは、二人の男がいかにして一時の成功を収め、そして、破滅したかの数十年にわたる航跡である。最後にはちょっとしたどんでん返しが待っている。その時、我々はこの時代の正体を垣間見ることができるかもしれない──。

第1章 上野アメ横の戦後(1)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01