「彼らに世界はどう見えているのだろう」重症心身障害児施設に勤務する医師の記録
「生きているのがかわいそう」な人なのか

1 はじめて「びわこ学園」を訪れる

すえた臭い

 わたしが、はじめて「第一びわこ学園」を訪れたのは一九六六年(昭和四一)、びわこ学園開設から三年目である。わたしはその頃、京都大学の医学部小児科学教室から病院への派遣というかたちで大津赤十字病院の小児科で働いていた。ある日、大学の教授から「第一びわこ学園が医師不足で困っているから、週に一回手伝いに行くように」と指示があった。

 大津赤十字病院は、JR京都駅から一〇分の大津駅を降り、そこから一〇分くらい歩くと着く街のなかにある。第一びわこ学園はこの大津赤十字病院のすぐ近くの「なが公園」に入り、そこから樹木が繁茂する山に取り付けられた、めったに人に出会わない急な土のままの階段を五分くらい登る長等山の頂上にあった。すぐ近くにおんじょう(でら)があり観光客が多いのであるが、びわこ学園の周囲には数軒の民家がひっそりとあるだけで、白い壁のびわこ学園の建物とプレハブの園長舎宅、古い木材を使った職員家族宿舎、それに別建ての独身寮が、樹木を切り開いた空間にあった。

 重い障害のある子がいる部屋に入ったとき、何ともいえないすえた臭いが鼻をついたことを覚えている。ベッドに「ねたまま」の子もいるし、畳の部屋で横になっている子もいた。異次元の世界が広がっているように感じた。子どもたちは上肢(腕)や下肢(脚)をあらぬ方に向け、硬く突っぱっていた。声はなく、うめき声に似たものがあった。

 診察を始めると、くびのすわっていない子もいるし、寝返りのできない子も多いことがわかった。四肢は硬く変形もあった。食事時間になると、看護婦(現・看護師)と保母(現・保育士)、それに指導員(現・生活支援員)と呼ばれる人たちが、抱っこしてスプーンで食事をさせたり、時間がくると洗面したり、おむつを替えたり、抱えるようにして湯船の外から風呂にいれたり、それらが終わると輪になって歌をうたったりしていた。

 わたしは、職員から診てほしいといわれる子を診察して、状態が悪ければ検査のために採血したり必要な薬を処方していたはずである。しかしいま思い出すのは、その子らにスプーンで食べさせていたり、うしろから抱えて歩く練習をしていたことである。というのも、職員の数が少なくて保母であれ看護婦であれ、一人の職員が二人か三人の子をまわりに寄せて食事をさせていたので、見かねて手伝ったのだった。

もう一つの世界

 わたし自身は、病院の小児科の病棟で脳性まひの子や筋ジストロフィーの子の主治医になったこともあるし、「ねたきり」の状態の子が入院していたことも知っていた。しかし多くのばあい、大学病院であろうと一般病院であろうと、病気の検査をしたり治療をするのが仕事であった。治って退院する子もいるし、白血病などで死亡する子も多かった。特別なばあいを除いて、障害そのことのために長く入院していることはなかった。

 しかしびわこ学園では違っていた。びわこ学園は医療法で規定されている病院であるとともに児童福祉法上の施設で社会福祉法人でもあり、そこでは「障害」そのことのために入園していたし、生活そのものがあった。そして、わたしは病院では病気を診ていたが、びわこ学園では子どもを見るようになっていた。おそらくこれからもずっと一生歩くことができない、あるいは周囲のことが何もわからない状態で過ごしていく、このように重い障害で生きていくであろうことに圧倒されていた。

 わたしは、びわこ学園で重い心身の障害のある子どもたちに接して、地球の表面を覆っている土壌の裏側に、それまで知らなかったもう一つの世界があり、足を踏み入れたのはその世界であるという実感をもった。こうした世界があることを、わたし自身は考えもしなかったし、世間のほとんどの人は知らないであろう。ただ私たちが知らないだけで、この世界に住んでいる住民と家族は、地上に世界があることを知っていて、そこに住んでいる住民に対してえんの心を宿しているように感じた。

怨嗟の声

 二年あまり経って、大津赤十字病院から大学の医学部小児科に戻ることになった。大学病院の外来や病棟で診療を続けてさらに二年経ったころ、仕事を終えての深夜、帰宅途中の車で信号待ちをしているときに、考えごとをしていたという車に激しく追突されるという交通事故に遭い、長期の療養に入った。

 二カ月の入院から退院したのであるが、とても診療の仕事に戻れる状態ではなく、体力の回復に努めていた。一年後、体力が回復してきて京都のきっしょういん病院小児科に非常勤(数年後に常勤)で勤めながら、大津赤十字病院で働いていたときに知りあった滋賀県の障害児の家族や障害児問題にとりくむ施設職員、学校教師、大学教官、福祉関係者、そしてびわこ学園職員などと交流するようになった。一九七〇年頃からである。

 その少し前の一九六七年に結成されていた「全国障害者問題研究会(全障研)」にも参加するようになり、いろいろな人たちに会い、障害児関係の研究集会、報告集会にも参加した。そして障害のある人や関係者から、医療に対する怨嗟の声をたくさん聞かされることになった。

「脳性まひのために歩けない子が足の骨折をしたので、整形外科に行ったら、どうせ使いものにならん足だから、痛いめをさせるよりそのままにしておけ、と言われた」

もう少し大きくなるまで様子をみようとなにもしてくれず、大きくなってから行ったら、もっと小さいときから訓練していたらと言われた」

「脳性まひと診断が確定しているのに何をしに来た、と言われた」

 また施設で働いている人たちの声も貴重であった。

「自分は知的障害児施設の保母であるが、入所している子どもたちにかぐや姫が月へ帰ったと話をしても、お日さまだと言う。夜になると寝かされて月を見たことがない。医師が夜は外へ出さないようにと制限しているためであるが、お月さまを知らない子どもがかわいそうだ」

「自分の施設でも風邪を引くといけないということで外出を制限している、これでは生活のうるおいがないだけでなく、外に出て身体を鍛えるということがない。医療が子どもたちの健康を守るのでなく、健康増進を妨げていることになる」

「検便をするときに、男の子も女の子もパンツをおろさせて、肛門から直接便を採取している。子どもらはにんげんどうぶつえんやと自嘲的に言っている」

 こうしたことを多く見聞きし、障害のある人にとっては、医療というのは病気を治したり障害を軽くするために存在するのではなく、本人から生活を奪う存在になっているのではないか、ときには人権を侵害しているとの実感をもった。

「障害焼け跡」論

 そのころ「障害焼け跡」論がどこからともなく言われていた。消防車は火事のときに出動するが、完全に焼け落ちて「焼け跡」になってしまっていれば出動しない。つまり医療は火事の最中のような「病気」に対しては出動して病気を治そうとするが、燃え尽きて焼け跡「障害」になれば、医療は出動しない、必要がないというわけである。

 これは、医療をごく狭く位置づけているという医療自身の問題であるとともに、「役に立たない」障害者を社会から排除する「しくみ」と「思想」が、このような「理屈」となって医療界にも浸透したと考えられる。わたしは、障害者の医療に対する怨嗟の声を多く聞き、障害者医療にどういう問題があり、どうあらねばならないのかを考えるために研究集会をもつ必要があると考え、全国障害者問題研究会滋賀県支部で「障害者医療合宿学習会」を提案し開催することにした。全国に呼びかけ、予想を超える一七〇名の参加申し込みがあり、きゅうきょ宿泊施設を増やし会場を変更することになった。

 一九七〇年一二月二六日と二七日におこなった「合宿学習会」では、主催者からの「基調報告」に基づき活発な討議がなされた。参加者は、保育者、教師が多く、医療従事者(看護師、医師)は少なく、障害児の家族は「びわこ学園」関係者だけであった。この「学習会」で、わたしたちが何をどのように考え、討論してきたかの概略を記したい。

「健康管理」と「健康増進」

 医療は、発熱や下痢などの「症状」の「改善」をおこない、その原因である「病気」を「治療」する。しかし本人が生活するのに困っている脳性まひや自閉症などの「障害」について、あるいは障害がある人の「健康増進」「障害の改善」や「成長・発達の問題」については何もなしえていない。実際には医療の専門家でない保育者や教師などによって「障害」の「改善」「軽減」、「健康」などの努力がなされている。その家族や保育者などのとりくみに対して医師が、「外出すると感染症に侵される」「健康を害する」「てんかん発作を誘発する」など「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。

 そうした医療の現状に対して、参加者からの多くの怒りを伴った報告がなされた。てんかん発作を抑えるために薬が多用され、本人はいつもぼんやりしている。便秘はひきつけをおこすからとかんちょうを三日に一回というように習慣的におこなっているが、これでは腸の機能を低下させるのではないか、腹部マッサージとか運動が大事なのではないか。

 医療は、てんかん発作や便秘などの「症状」をみて、それがおこらないように「治療」しているだけであって、「人間」が不在になっているのではないか。さらに、感染症を防止するということで外出を禁止するなど、さまざまな「管理」が医療の名においてなされているのではないかと、その現状批判も多く出された。

 これでは障害のある子がますます虚弱になっていくという、保育者などからの実感による「告発」であった。

 一方で、びわこ学園などで具体的にとりくまれている「健康増進」についての報告があった。「健康管理」の名の下に虚弱になっていくことに対する反省から、「健康増進」という目的をもって意識的・計画的にとりくんできた内容で、「日光浴」「水遊び」「散歩」などの軽いとりくみから順序を決めて具体的に進めていった内容の説明、やがてそれが「運動会」へと結実していった報告であった。これらのとりくみは障害のある子どもたちの喜びとなり、子どもたちの生活を豊かにし、主体性を引きだすことになり、身体を鍛えることにもなった。

「健康増進」は本来、医療が目的とすべき人間の健康へのとりくみであり、同時に生活を豊かにし、さらに子どもたちの喜びになるとりくみでもあった。

 当時、重い障害のある多くの子どもたちは「就学免除」という制度によって、教育を受けることができなかった。びわこ学園のとりくみは、実は教育のとりくみでもあるという「発見」があり、全国でおこりはじめていた障害のある子の「教育権」を求める運動と結びつきながら発展していくことになった。

医療への「ラブコール」

 この集会での討議のまとめは、次の三つのことに要約された。

 一つは本人の成長・発達を考慮し、本人の気持ちに配慮した医療、二つめは個々の「患者」としてだけでなく、患者組織、障害児家族会などとして医療に参加することの大切さ、三つめは生活のなかで治療するという観点であった。

 わたしは、障害児にかかわっている人びとの医療への怨嗟の声を聞きながら、これは「恨み節」ではなく、医療への「ラブコール」であると感じてきた。障害児(者)に対する医療の現状を「告発」しながら、障害のある子や成人に対する医療を「希求」している声であった。

 二つ目の問題については、医療は医師など医療従事者と患者(障害者・家族)とが向きあって「治療」がなされているが、これでは治す者と治される者の関係だけということになってしまう。そうではなく「病気」あるいは「障害」を対象にして、医療従事者と患者が横に並んで協力しながらとりくんでいくというのが医療のあり方ではないかと強く思った。

 主催者の「基調報告」には、創立一年後からのびわこ学園で「心理」を担当してきた加藤直樹の医療に対する問題提起とわたしの経験や意見を中心にして、実行委員会で討議した内容を入れた。この集会で討議してきた内容は、加藤直樹・髙谷清編『変革の医療』(鳩の森書房、一九七一)として出版した。

 京都の吉祥院病院で非常勤医師として数年間働き、体調が改善してから常勤医となり数年が過ぎて、わたしは四〇歳に近づいていた。自分のライフワークは何なのか、今後の仕事をどうしていくのかを考え、「障害のある人」にかかわる仕事をすることに決めて、「びわこ学園」に就職した。一九七七年四月であった。びわこ学園に週一回非常勤で行きはじめてから一一年が経っていた。

第1章 重い障害を生きる(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01