殺す相手が敵であるにせよ、ここまで堂々と人を殺すことを認めることはなかなかできないものだ
社会運動の歴史においても稀にみる激烈で凄惨な内部抗争の局面を、戦後の学生・労働運動の流れに遡って詳細に跡づける衝撃のレポート

第六章 うち続くエスカレーション

反撃に転じた中核派

本格的反攻への準備

 中核・革マル両派の抗争が〝戦争段階〟に入ったのが七一年暮れ。それから一年半、中核派の〝戦略的防御〟の中で、革マル派の一方的攻勢、中核派の守勢がつづいてきた。そして、七二年から七三年にかけての〝早大戦争〟における中核派の敗退、七三年七月の〝中核村襲撃事件〟を契機として、中核派の一大路線転換が始まるところまで上巻で述べてきた。

 攻撃的テロには攻撃的テロで、〝戦略的防御〟からテロ攻勢へ、というのがその路線転換のこつである。七三年七月以後中核派は本格的テロ攻勢のための準備を二ヵ月にわたってすすめていく。

『前進』の用心深い表現から、この路線転換を読みとっていくと、次のようになる。

〝昨年春(辻・正田事件以後)、対カクマル戦に対しては、「戦争回避論」と「速戦勝利論」とがあったが、そのどちらもとらず、「戦略的防御」でやってきた。しかし、74襲撃を機に、戦略的防御から革命的対峙へ移行すべきときがきた。革命的対峙は、敵の攻撃からの鉄壁防御と敵の攻撃に対する革命的報復とからなる。白色テロには、赤色テロをもって応えねばならない。それを通じ、124(辻・正田事件)以来のカクマルの一方的攻撃者としての位置をうばいとる必要がある。

 これは、中核とカクマルの、お互いの組織絶滅をかけた絶対戦争への突入である。これまでのように、相手から仕かけられた戦争に応じるというのではなく、計画的にこちらから戦争をいどんでいくのでなければならない。いかなる犠牲もおそれず、全党をあげてこの戦争に突入し、カクマルをせん滅しつくすまでは、決してやめることはない〟

 こうした主張が二ヵ月間にわたって、毎号『前進』のへき頭をかざる。その具体的内容は何も書かれていないが、「日夜休むことなく、わが党は革命的報復戦への準備をすすめている」などの表現がある。そして、九月に入ると、報復の準備は成熟してきたという表現がでてくる。

 なにか巨大なことが陰で進行しつつあることは明らかに読みとれるが、革マル派は表面上は相変らず楽観をよそおっていた。『解放』では、〝組織の崩壊的危機にのたうつブクロ官僚──ついに白旗手にしたアンポンタン(中核派書記長本多延嘉氏のこと)〟などという大論文で、

「要するにブクロ派は、わが同盟の党派闘争の前に完全に叩きふせられたのである」

 などと書いていた。

 そして、夏休みが明けると、すぐさま先制攻撃に出てきた。九月九日夜、西武線ほう駅にいた中核派十人を襲撃。そして、こう誇った。

「口先だけであれ〝革命的対峙〟だとか〝組織をかけた対カクマル戦〟などとていなことを口走るならば、それにふさわしいお目玉が彼らの頭上にふりおろされるのである。

 われわれはこの秋こそ、残された二つのクソ壺(法政大と関西大のことか?)をはじめとして、ウジ虫の生息するすべての場所をきれいサッパリ掃除するつもりなのであり、そのための用意はすべてととのっているのである」

 次いで九月十六日の日曜日、子供連れの客でにぎわう日本橋三越の屋上で、二十名の早大行動委の学生が集まっているところを襲撃。レストラン、売店、劇場、金魚売場などにいた五百人の客が〝キャーッ〟と叫びながら逃げまどう中で、学生とまきぞえの客が鉄パイプで叩きのめされた。

 その翌日朝七時、国電うぐいすだに駅で百五十人の中核派が、用意のヘルメット、スネ当てなどをつけて武装しようとしているところへ、五十人の革マル派が不意を襲って襲撃。鉄パイプなどで殴り倒し、一人は内臓破裂で重体、十人が病院に収容された。

 この九月十七日というのは、早大の新学期がはじまる日で、この一連の襲撃は、早大戦争の再発を未然に防ぐ目的を持っていたようだ。実をいうと、この二日前には、革マル派の部隊が、神奈川大学に集結していた解放派の部隊を襲撃し、襲撃そのものには大成功したのだが、外で待機していた二人の革マル派学生が連れ去られ、リンチされて殺されるという事件が起きていた。

 この事件で、革マル派内部はかなり動揺をきたしたらしい。何よりも、またも死者が出たという点においてである。七〇年の海老原君事件以後、ここまでで、計十人の内ゲバによる死者が出たが、そのすべてが革マル派がらみだった。整理してみると、革マル派は四人殺して、六人殺されている。殺された六人の内訳は、解放派によって三人、中核派によって二人、民青によって一人である。

 中核派が発表した革マル派の内部文書によると、学生間では、なぜ党派闘争でこれほど死者を出さねばならないのかといった疑問、殺されなくてもよいのが殺されたのではないかという戦術的失敗論などが出、また、労働者側からは、「『学生の問題だ』との感覚で一定の拒絶をもってうけとめ、評論する傾向、殺し殺されることへの恐怖感、ニヒル感をもって受けとめる傾向」などがでてきたらしい。

 ともあれ、この事件の直後は、中核派に対してより解放派に対して、各地でより激しい攻撃が行なわれていた。その渦中の九月二十一日、中核派が二ヵ月余にわたってつづけていた不気味な準備が何であったかを示す事件がはじめて起きた。

中核派による連続的〝鉄槌〟

 九月二十一日朝、東京外国語大学でビラ配りをしていた革マル派数名を、中核派のテロ部隊が襲う。

「泣きわめくカクマルの頭上に、まず正義の鉄槌のひとふりが下された。その場にヘナヘナとくずれ落ちるカクマル。だが、容しゃするわけにはいかない。無慈悲な報復の鉄パイプが、ここぞとばかりにふりおろされた」

 この事件を伝えた『前進』は、〝反革命カクマルに正義の報復〟という大見出しで一面トップをかざり、

「九月二十一日の東外大におけるたたかいをもって、わが党と革命勢力のいっさいの力をかけた正義の報復の最初の一撃が反革命カクマルの頭上にさくれつした。激烈な歴史的戦闘の火ぶたがついに切っておとされたのである」

 と書いた。この日以後『前進』の記事はプロレス新聞まがいの大見出しと戦果の書きっぷりで紙面を埋めていくことになる。

 その次の号は、〝反革命分子に連続的鉄槌〟の大見出しの記事。

 九月二十五日、千葉大正門前で電話をしていた二名に鉄槌。

 九月二十六日、教育大学生寮で二名。

「一名はそくにもわが報復の刃から逃げのびんと、血まみれの仲間をも見捨て、金切り声をあげて寮内を逃げまわり、ついには寮食堂の机の下に逃げこんだのである。助命嘆願のため土下座し、われわれをおがみたてる醜悪な反革命カクマル。だが……」

 この時点でも、革マル派は事態を楽観していた。この連続攻撃を軽くこういなしていた。

「ウジ虫どもは東外大でビラまき中の全学連の活動家一名をコソ泥的に襲撃して、かすり傷を負わせ、以降闇討ち的な襲撃をわが戦士たちにかけはじめた。九・一七鶯谷駅事件で壊滅的打撃を受けたウジ虫どもは、みずからケチな闇討ちによって辛うじてそのうっぷんを晴らすという、まさに〝反革マル〟殺人妄想、闇討ち集団へと転落しさったのである」

 そして、その殺人妄想の実例として、九月三十日の中核派の集会での、女性活動家のこんな発言をあげている。

「頭をカチワレ、肋骨をヘシオレ、内臓をエグリダセ。あくまで残酷に、徹底して残虐に!」

 しかし、やがてこのことばが現実となってくるのである。

 革マル派はそんなことは夢想だにせず、解放派の主要武装部隊は九月十五日神奈川大学で、中核派の主要武装部隊は九月十七日鶯谷で壊滅してしまったから、両派の軍事力はもはやないも同然で、〝小ブル雑派の解体の闘いがいまや文字通り「詰め」の段階にきている〟として、「残存反革マル分子の一掃を宣言」したりしていた。

 十月に入ると、中核派のテロ攻撃はいっそうすさまじいものになり、これが一時的な報復攻撃ではなく、完全な路線上のものということがハッキリしてくる。はじめの一例をあげれば、

 十月一日、埼玉大革マル最高幹部が自宅近くの風呂からの帰り道に。大阪市大の生協事務室で二名の活動家が。

 十月二日、大阪経済大でビラまきをしていた十数名が襲われ、一名重傷。横浜国大で三名の活動家。うち二名は重傷。東邦大(千葉)でも二名重傷、一名負傷。また、関西革マルの最高指導部の一人が、早朝、自宅を出るところを。

 十月六日には、三班十五人の部隊により、ついに革マル派の最高指導部、土門政治組織局員が小田急線きようどう駅から自宅に帰る途中を襲われた。

 以上いずれも鉄パイプで殴りつけるというスタイルの襲撃で、土門氏の場合は、全治十日間の傷を負っている。

 当時は、これがすさまじいテロの爆発ととられたが、いまにしてみると、このときはまだまだ平和だったんだなと思えてくる。なぜなら、土門氏は、黒田寛一、松崎明の両氏とならんで、現在中核派から必ず殺してやると名指しで殺人宣告を受けている革マル派の最高幹部だからだ。いま十五名の襲撃隊に捕捉されたら、土門氏が全治十日間の傷を負っただけですむとはとても考えられない。

 それでもこのテロ攻撃を受けたことは、革マル派にとっては大ショックだったらしい。革マル派が中核派の政治局員をテロったことはすでに三度もあるのに、革マル派の最高幹部がテロられたのは、これが最初だったからだ。

 最近中核派の手によって発表された、革マル派の内部文書によると、

106同志D(土門氏)〝撃沈〟という決定的事態を生み出してしまった。我々はこれを機に、中核派のスイカワリ行為(鉄パイプで頭をなぐること)がのっぴきならぬO(組織)延命の〝カケ〟としてとり行なわれていることを厳密に分析し、指導体制の強化、何よりも精神的警戒=武装、〈常〉(常任幹部)の団子生活(ボディ・ガード付きで歩き、単独行動はしない)を確認していった。106以前のいわばたいぜんじやくたる姿勢と態度を、姿勢においてはともかくも、現実の生活態度とスタイルにおいては根本的にあらため〝今回はまだしも今度〈常〉がやられたら、R(革マル派)指導部の権威、政治生命は地に落つ故、それは絶対に許されないことであることを、お互いに肝に銘じよう〟という提起をお互いに確認しあったのは107未明の緊急指導部K(会議)の場であった」(『121文書』)

 結局、この事件によって、革マル派は中核派が全面対決テロ路線に踏みきったことを悟り、

「わが同盟はここに重大な決意をもって、ブクロ中核派の最後の解体=絶滅の闘いに着手する」

 と宣言し、中核派のテロ攻勢は、

「組織的解体寸前にまで追いこまれたブクロ派が、恐怖のどんづまりにおいて狂乱化し、ついになりふりかまわぬ〝最後の賭け〟にうって出たものである」

 と判断した。そして、

「これへの回答は、彼らを一人のこらず叩きつぶし根絶する具体的実践である。そのための準備はすでに完了し、またそのための第一歩は十月八日、彼ら前進社官僚の頭上にはっきりと印された。だがそれがほんの出発点にすぎないことをも、ほどなく彼らは痛いほど知らされるであろう」

 と不気味な予告を与えた。

 ここに述べられた十月八日の事件とは、中核派の機関紙『前進』を印刷していた毎夕新聞社への襲撃だった。校正に出むいていた五人の編集者が襲われ、

「ある者は〝殺される〟などと叫んで、空中を浮かぶ能力があるとでも錯覚したのか、ともかく二階の窓からとびだし、気がついたときには真逆さまに地面にたたきつけられるというあわてぶりであった。

 編集局指導部の藤掛某にいたっては、われわれの姿をみるや動転し、二階の階段から頭を下にしてころげおちるという姿であったのだ。あろうことか、『命だけは助けてくれ』などと泣きごとをならべて。

 われわれは無慈悲な鉄槌を下し、官僚ども五人はその場で完全に粉砕され、うち二人が救急車に運ばれたのである」

 これに対して、中核派はその日のうちに反撃。国際基督キリスト教大学で二名、東工大で二名を血まつりにあげた。

 反撃はさらにつづく。十月十三日、大東文化大で二名。十月十八日、革マル派関西地方委員会のキャップ。翌十九日にも関西の幹部。

 ここまでで、中核派は十六件のテロを行ない、計二十三人の革マル派を血まつりにあげたことになっている。しかし、革マル派にいわせると、うち三件は人ちがいテロで、一般市民、一般学生が襲われたという。その他に、戦果としては発表されなかった人ちがいテロが一件、襲撃はしたが逆襲されて逃げ帰ったテロが一件あるという。

 これ以後、お互いに相手のテロを〝人ちがいだ〟〝いや活動家だ〟といいあったり、〝血の海に沈めた〟〝いや、かすり傷も受けなかった〟というような珍妙な論争がしばしば行なわれることになる。

第六章 うち続くエスカレーション(2)

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