政敵たちを震え上がらせる恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し
冷酷さの反面、弱者への優しいまなざしを持っていた野中広務。出自による不当な差別と闘いつづけ、頂点を目前に挫折した軌跡をたどる

兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剝ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。

(『水平社宣言』より)

第一章 漂流する村

 私がその老人に会うため、京都府船井郡その(現・南丹市)を訪ねたのは二〇〇一年(平成十三年)一月のことだった。京都駅から山陰本線の電車に乗り、保津峡のトンネルを抜けると、やがて丹波の山並みに抱かれた小さな町が見えてくる。そこが園部だ。

 老人の家は町の商店街から少しはずれた、城跡のある丘のふもとにあった。この物語の主人公であるなかひろの生家から百メートルと離れていない。

 老人の名は野中竹次郎。当時八十六歳。広務より十一歳年長である。

 竹次郎は同族の縁で戦前から広務の一家と親しく交わり、広務の成長を見守ってきた。戦前世代の関係者の多くが物故したいま、彼は野中広務という政治家のルーツを語ることのできる、ほとんど唯一の生き証人と言っていいかもしれない。

 竹次郎には過去に二度、取材を断られている。最初に電話で申し込んだときは「話すことなんか何もない!」とにべもなかった。二度目は直接自宅を訪ねて玄関払いをくらった。

 地元で野中広務に関する話を聞こうとすると、多くの人が同じ反応を示した。まるで目に見えない有刺鉄線がそこら中に張りめぐらされていて、それが私のようなよそ者の接近を頑として拒んでいるかのようだった。あまり詮索しないほうが身のためだよ、と忠告してくれる人もいた。

 その理由は、かつてこのあたりが大村と呼ばれる被差別部落だったことと無縁ではない。竹次郎も広務も大村で生まれた。竹次郎にとって広務の生い立ちを語るのは、部落差別という得体の知れぬ魔物について語ることにほかならない。下手にしゃべって誤解を招くより、口を閉ざしたほうがいい、彼はきっとそう思ったのだろう。

 竹次郎には人を介して取材の趣旨を何度も伝えた。決して興味本位ではなく、野中広務という政治家の実像をきちんと描きたいと思っていること、そのためには彼が生まれ育った地域の風土や家庭環境の把握が不可欠なこと、そして彼と深いかかわりを持つ竹次郎自身の体験を語ってほしいと願っていること……。

 野中ほどナゾと矛盾に満ちた政治家はいない。彼には親譲りの資産も学歴もない。そのうえ五十七歳という、会社員なら定年間近の年で代議士になりながら、驚くべきスピードで政界の頂点に駆け上ってきた。「影の総理」「政界の黒幕」と異名をとり、権謀術数のかぎりを尽くして政敵たちをうち倒してきた。ある自民党関係者は声をひそめてこう言った。

「彼のやり方は恫喝そのもの。情報を集めて弱点を握り、それで相手を脅すんだ。そんな場面を何度も見た」

 しかし、その一方で野中はまったく別の側面をもっている。彼のもとには政治に見捨てられた社会的弱者たちが次々と訪れた。二〇〇一年、国を相手に全面勝訴したハンセン病訴訟の原告団が最も頼りにしたのも彼だった。宣房長官時代の一九九八年夏、野中は政府高官としては初めて原告・弁護団に会い、その場で「人権を蹂躙した歴史は承知しています」と国の責任を事実上、認めた。

 その後の彼の周到な根回しがなければ、小泉政権の「控訴せず」という歴史的決断もなかったろう。元患者や弁護団は「信頼するにあまりある政治家」「痛みのなかに身体をおける人」と彼への賛辞を惜しまない。ハンセン病の西日本訴訟原告団事務局長だった堅山勲が言う。

「野中さんには『悪代官』みたいなイメージがあるでしょう。あれは百八十度違うと私は思いますね。素晴らしい政治家です。細やかな気配りがあって人間として温かい。言葉の一つひとつに、傷ついた者をこれ以上、傷つけてはいけないという気持ちがにじみ出ています。今、私は野中さんのことを手放しで信頼できると言いますよ」

 政敵たちを震え上がらせる恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。

 いったい野中の本当の姿はどちらなのだろうか。

 この日の訪問は事前に竹次郎の了解を取りつけてあった。それでもインタビューに応じてくれるかどうか不安を抱えながら玄関前に立った。

 ガラス戸を開けると、彼の姿が見えた。表情は以前のように強ばってはいない。しわくちゃの顔にちらりと人のよさそうな笑みが浮かんだ。ようやく警戒心を解いてくれたようだ。

 玄関わきの畳敷きの部屋でインタビューが始まった。竹次郎は私が聞くより先に自分からこう切り出した。

「ここらが昔、大村と呼ばれとったことはご存じやね?」

「ええ」

 と答えると、竹次郎は代々語り継がれてきた村の由来を語りだした。

「大村の始まりは昔、いでさんという殿様が国替えで園部にやってきたことや。小出さんは武具を作る職人たちを引き連れてきてここに住まわせたんやが、それがわしらの先祖というわけや。言い伝えでは当時、このあたりは木々がうつそうと茂っておって、地面は落ち葉で深く覆われ、日の光も届かんほどやった。そんな深い森にわしらの先祖が入って木を切り倒し、大変な苦労をして村を開いたんやそうな」

 竹次郎の話は地元に残るもんじよの記述と一致する。

 それによるとたじまのくに(兵庫県)出石いずし藩の藩主だった小出よしちかは、徳川幕府成立から十六年後のげん五年(一六一九年)の国替えで園部に入り、初代園部藩主となった。その際、国許から連れてきた「かわた」たちを城の南側に住まわせたという。

 戦国大名は軍事上の必要から皮革生産にあたるかわたを優遇した。皮革はよろいやかぶとなどの原材料だったし、骨や皮などを煮てつくるにかわも、当時としては最も良質な接着剤として武具の製造に欠かせなかったからだ。戦国大名が新たに城下町をつくる際には自分の出身地のかわたを呼びよせ、彼らに特権を与えて皮革の納入などを義務づけることもしばしばあったという。

 大村の先祖たちも各地に点在するかわた集団の一つだった。ただし、彼らの故郷とされるのは兵庫県北部の出石町ではない。そこからさらに直線距離で百二十キロ近く南南東に下った大阪府岸和田市周辺である。

 それというのも、彼らが仕えた小出氏がもともと和泉いずみ(大阪府南部)の岸和田城を本拠とする一族だったからだ。小出氏の始祖で岸和田城主だった秀政は豊臣秀吉の側近として知られた。秀吉の母の妹を妻とし、豊臣家の跡継ぎ・秀頼の養育を託されるほど秀吉の信頼が厚かった。

 このため秀政の長男・吉政はぶんろく四年(一五九五年)に出石藩六万石の領主に抜擢された。以後、岸和田と出石は本藩・支藩の関係で結ばれ、小出氏は後に岸和田三万石と出石六万石を合わせて九万石と称するようになる。

 だが、秀吉が死に、豊臣家が滅びた後の元和五年、徳川幕府は西国支配の強化に乗りだし、親藩や譜代大名で大坂周辺の守りを固める大がかりな国替えを行った。この国替えで豊臣家にゆかりの深い当時の岸和田城主・小出吉英(吉政の長男)は支藩の出石城に追いやられ、出石城主だった吉親(吉政の二男)は園部にほうされた。

 大村の先祖たちが園部にやってきたのはこのときである。かわた集団と領主一族の密接な関係からすると、大村の先祖たちは小出氏の出石統治が始まった文禄四年以降に岸和田から出石に移住し、そこに定住するまもなく園部への再移住を余儀なくされたとみていいだろう。

 丹波地万の方言とは少し異なる大村の年寄りたちの言葉がそれを裏付けている。地元の研究者によると、たとえば「○○ですか?」と言う代わりに「○○け?」と言ったりする独特の言葉遣いには泉州なまりが色濃く残っているという。

内部告発

「これは広務君自身も知らんことやと思うがな、昔、この村で大変な差別事件があった。広務君の母親がからんだ事件や。これが表沙汰になったらけが人が出る騒ぎにもなりかねんと思うて、長いこと誰にもしゃべらず秘密にしてきたんやが……」

 竹次郎がそう言って、広務の母・のぶの身の上に起きた事件について語りだしたのは、インタビューをはじめて一時間ほどたってからだった。

 竹次郎が一九四六年(昭和二十一年)初め、中国山東省の戦地から復員してまもなくのことである。敗戦の虚脱感のなかで職もなく、カネもなく、町をぶらつくだけの日々が続いていた。そんな竹次郎を見かねて、ある日、友人が声をかけてくれた。

「仕事があるんやが、いかへんか。当分の間、働けるで」

 母校の小学校でストーブの燃料に使う薪を割る仕事だった。

 早速小学校に出向くと、思いがけない人物に出くわした。尋常小学校の高等科時代の担任教師・山本利一である。山本は校長に出世していた。

 彼は竹次郎の顔を見て少し驚いた様子で言った。

「おう、野中か。戦争から戻ってきたか。元気で復員してよかったな。これからはきばれよ、きばらなあかんで」

 それからしばらくして突然、野中広務の母・のぶが家にやってきた。

 のぶは村で際立って知的な女性だった。世の中の動きにも詳しく、毎朝配達される新聞を読むのは夫の北郎ではなくのぶだと言われていた。だが、彼女は知識をひけらかすこともなく、控えめだったから、村の女性たちから信頼されていた。

 のぶは沈痛な面もちで一通の手紙を竹次郎に差し出した。

「こんな難儀なことを書いてよこした人がいるんやけど、どう思われます?」

 竹次郎がのぶあての手紙を開くと、そこにはこう書かれていた。

〈大村の人々は小学校で大村の地区担当をしている女教師のN子に信頼を寄せているが、彼女は先日、あなたの家で開かれた父兄との懇談会ですき焼きをごちそうになったとき、それまで部落の人と一緒にご飯を食べたこともなければ、一つの鍋にはしを突っ込んだこともなかったので、すき焼きの肉がどうしてもノドを通らなかったそうだ。だから食事の途中に何度も席をはずし、口の中の肉をこっそり外の畑に吐き出したと学校で話していた〉

 差出人の名前はなかった。匿名の内部告発である。当時のぶは村の子供会の会長をつとめており、懇談会はのぶの家の前庭にある大きな野小屋の二階で行われていた。

 事実とすれば露骨な差別事件である。のぶが負った痛手の深さは計り知れない。彼女はN子に少しでもうまいものを食べてもらおうと、なけなしのカネをはたいてすき焼きの準備をしたはずだ。それをこっそり吐き出してしまうような教師に、我が子の教育を任せなければならない辛さはいかばかりだったろう。

 竹次郎は手紙を持って小学校の校長室に乗り込んだ。

「何の用だ」

 と山本に聞かれて竹次郎が言った。

「あんたが一番心配せなあかんことや。この学校の先生からこんな手紙が来とる。当然あんたにも責任がかかってくるぞ」

 竹次郎は山本に手紙を渡した。山本は手紙を読み進むうちに真っ青になった。そしてガタガタと震えだした。

「これは大問題やで」

 竹次郎が畳みかけると、山本はようやく口を開いた。かすれ声だった。

「すまんけど……この手紙を預からせてもらえんやろか」

 竹次郎ははねつけた。

「そんなわけにはいかん。改めて見たいなら、また持ってくるわ」

 竹次郎ははなから山本を信用していなかった。竹次郎が高等科二年のとき、こんなことがあった。修身の授業で山本が「卑怯ということについて考えてみよう」と言いだした。

「たとえば、一人を大勢が寄ってたかっていじめるのは卑怯なやり方だ。君らはお父さんやお母さんから何かそういう話を聞いたことはないか」

 生徒が順番に立って発言した。山本はその一つひとつに論評を加えた。しばらくしてある生徒が言った。

「父から聞いた話ですが、新平民が大勢カマやナタを持って地主の家を襲うことがよくあるそうです。これは卑怯だと思います」

「新平民」とは、一八七一年(明治四年)に政府が賤民廃止令を出してから使われるようになった、旧賤民身分を蔑む言葉である。

 竹次郎は山本の顔をじっと見つめた。地主を襲うのには理由があるはずだ、それを卑怯と決めつけるのは間違いだと彼は思った。もしかしたら山本もそう言ってくれるかもしれない。

 だが、期待は裏切られた。山本は、

「よし、わかった」

 と言っただけだった。その時、授業時間の終わりを告げる鐘が鳴った。

 竹次郎はやりきれぬ思いを抱えて席を立ち、廊下に出た。そこに山本が待っていた。

「おい野中、ちょっと来い」

 言われるままに職員室に入ると、山本はいきなり怒鳴った。

「お前は何で先生の顔をじっと見ていたんだ。なんぞ言いたいことでもあるんか! 言いたいことがあるなら、ここではっきり言わんかっ」

 竹次郎は口をきかなかった。心の中には怒りが渦巻いていたが、どう言葉にしていいかわからなかったからだ。

 学校から帰って父に教室での出来事を告げた。父も何も言わなかった。人間以下の扱いを受けるのが宿命だとあきらめていたのだろう。その日から竹次郎は学校に通わなくなった。

 差別したのは山本だけではない。「新平民の子は物覚えが悪い」と平然と言い放つ教師もいた。町で買い物をして代金を差し出すと、じかに受け取らず、ひしゃくで受けて水瓶に放り込む商店主もいた。部落外の者が部落の人間と結婚することなんてあり得なかったし、そもそも部落の人間と口をきくのさえ嫌がった。

 明治初年の流行病で村から死亡者が続出した際には、村から少し離れた山際にあった共同墓地の移転を隣村から強制された。隣村の人々が、大村の葬列が自分の村を通過するのを忌み嫌ったためだった。

 年に一度は園部に回ってくるだい神楽かぐらの一行も村を避けて通った。

 竹次郎の耳には小学校の同級生たちのはやし言葉がこびりついている。

「シンペイ(新平民)、シンペイ、

どシンペイ。

なに食うて肥えた。

カエル食うて肥えた」

第一章 漂流する村(2)

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