「もうかりすぎて、当時はビールで足を洗ったくらいだよ」
この三百年間、生産はどのように変わり、携わった人びとの生活は、どう変化したのか。
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1章 かつお節は日本の伝統か
  ──たどってきた道

昭和初期のかつお節

 一九三四(昭和九)年に愛媛県松山市で生まれた、筆者(宮内)の母は、かつお節についてさしたる記憶がない。小さいころ、かつお節といえば豆腐やご飯にのせて食べることがままあった程度だという。まだ珍しい食材だったのである。家にはかつお節削り器もあったが、使っていたという記憶はない。母によると、結婚してからも「上品なお吸物」をつくるときには昆布や花かつおを使ったが、それはちょっとぜいたくという感じだった(通常のだしは煮干しだった)。そもそもお吸物を、お客さん用以外につくることはあまりなかった。かつお節削り器を買ったのは、夫(宮内の父)がお中元やお歳暮でかつお節をもらい始めてからではないか、と記憶している。

 東京や京都など一部の地域を除き、戦前生まれの多くの人の記憶は、実はこんなものかもしれない。かつお節は意外にも、日本の多くの庶民にとってそれほど身近なものではなかったのだ。

 昭和初期の記録には、日本列島のなかで、かつお節が使われた場所はむしろ少数だったことが書かれている。

 一九四一(昭和一六)年から翌年にかけて、日本民俗学会の前身である「民間伝承の会」が全国五八か所で食べもの調査を行っている(成城大学民俗学研究所編『日本の食文化──昭和初期・全国食事習俗の記録』)。「だし」に何が使われているかも調べられた。それによると、五八か所のうち「かつお節」が含まれている場所は三三か所(東日本に多い)にとどまっている。つまり、二五か所には「かつお節」が登場しないのである。しかも、「かつお節」が挙げられている三三か所のうち一〇か所は、使ってはいるものの、まれにしか使われていないことが記録されている。

 たとえば、静岡県引佐郡都田村(現在の浜松市)では「だしは、平常はほとんど用いなかった。菜類を煮る時、水油(液状の油。菜種油など)を一、二滴落してだしとした。以前、鰹節はお正月だけで平常は用いなかったという。現今はモン〔紋〕日・客用その他に用いられる」。京都府竹野郡木津村(現在の京丹後市)でも「だしは、じゃこを用いる。鰹や昆布煮出しなどは客用にまれに用いる」。

 はっきりと記述していないところでも、かつお節を常用にしていたところはむしろ少なかったと推測される。「だし」というもの自体が庶民レベルで普通に存在したものではなかった。かつお節はおもにハレの日や客人用に用いられる、あるいは、階層の高い人たちが使う高級調味料だった。

 しかし、同じ記録は、同時に、当時かつお節が徐々に庶民の間で使われるようになってきていたことも示している。長野県南佐久郡川上村の記録では「現在は鰹節・ごまめ・削節などを使う。昔は、だしは何も使わなかった」。

 かつお節の消費は明治以降継続して人口増以上の伸びを示した。通常伝統的な食材というものは、お米でも何でもどこかで消費が伸び悩むのが普通だが、驚くべきことにかつお節は、明治から今に至るまで(戦中・戦後の一時期を除いて)一貫してその消費を伸ばしつづけてきた。

 そういう商品を伝統商品と呼んでよいのかどうか。そもそもかつお節はどういう歴史をたどってきたのだろうか。

北海道でかつお節?

 北海道の魚といえば、誰しもがサケやホッケを思い浮かべる。北海道といってカツオを思い浮かべる人はいないし、実際カツオの水揚げは現在ゼロである。しかしその北海道でカツオを獲り、かつお節をつくっていた時期があった。それは北海道の歴史の中でもすでに遠く忘れ去られた歴史である。

 一九〇八(明治四一)年の小樽新聞に次のような記述がある。

「鰹節は(中略)市場価格じょうこうせるを以て之が製造に従事する者多くなりしが今回浦河郡浦河村鰹節製造業者西川義三郎は静岡県より教師をやとい其の数量を増加すしとなり」(小樽新聞、一九〇八〔明治四一〕年八月二三日)

 うらかわ町は、北海道の太平洋岸に位置する町である。そこでつくられたかつお節は日高節と呼ばれた。

 もちろん北海道で古くからかつお節製造の伝統があったわけではない。しかし、明治の終わりごろ、かつお節製造に従事する者が多くなり、浦河では静岡県より「教師」を雇って生産性向上を試みる。明治から大正にかけて、カツオは確かに北海道沖まで来ていたようだし、いくらか漁獲もあった。しかし、暖流に乗ってカツオが北海道沖まで来るのは夏のごくわずかの期間のみであり、毎年来るとも限らなかった。それでも他県より「教師」を雇ってまで、かつお節製造が熱心に試みられたのである。

教師招聘ブーム

 ところでここでいう「教師」とは何だろうか? 実際、かつお節に関する明治期の記録を読むと「教師」という言葉がよく出てくる。

 ここの「教師」とは、学校の先生ではない。今風にいうとかつお節技術指導員だ。

 たとえば、茨城県のみなと(現在のひたちなか市)では、一八八六(明治一九)年、高知県から「教師」を呼んでかつお節の製造技術を学んだという記録がある。読売新聞(一八八九〔明治二二〕年八月二五日)によると、茨城のかつお節は従来「はなはだ粗悪」だったので、改良のために高知から「教師」を招いた、その結果、かつお節職人も増え、技術も向上して、ついには土佐節に匹敵するくらいになったという。

 当時、土佐節は最も品質のよいかつお節という評価を得ていた。その技術を学ぶために、各地が高知から「教師」を招いた。

 こうした教師招聘は、当時各地で流行のように行われていた。三重県でも、一八九〇(明治二三)年から高知の教師を招聘した。その結果、かつお節の品質が向上した、と新聞には書かれている(読売新聞、一八九二〔明治二五〕年一月一七日)

 こうした「教師」の招聘事業では、多くの場合地方税や郡村組合費といった公金が使われた。和歌山県では、一八九五(明治二八)年にやはり高知から教師を招聘していたが、これには地方税が充てられた。山口県では、県費でやはり高知より教師を呼んでいる(農商務省『第二回水産博覧会審査報告 第二巻第一冊』)

 こんなふうに、各県が競って教師を招き、かつお節産業の育成を図った。

 遠方から技術者を招き、かつお節製造の技術を学んだ様子はどのようなものだったろうか。言葉の問題などなかったのだろうか。いろいろ想像力をかき立てられるが、そうした記録は残念ながら残されていない。記録からわかるのは、明治二〇年代から大正にかけて、かつお節産業という有望な産業をめぐって、各地が激しい産地間競争を繰り広げていたことだ。

焼津の台頭

 かつお節をめぐっては、常に品質が争われた。それがそのままマーケットを左右した。たとえば、一八八四(明治一七)年の新聞には、銀座で最近売られている屋久島のかつお節が「土佐節と少しも替らず然も値段はめちゃめちゃに安い」という記事が載っている(読売新聞、一八八四〔明治一七〕年八月九日)。一八九二(明治二五)年には、かつお節の品薄状態が続き、高知・鹿児島・千葉・伊豆等の「上等節」が高騰している、という記事が載っている(読売新聞、一八九二〔明治二五〕年七月一日)。「上等」と評価されればされるほど、価格は上がり、マーケットが獲得できる。各生産地は、高い評価を狙って産地間競争をしたのである。

 そうした明治の産地間競争にいち早く参入し、成功したのが焼津だった。焼津は今でこそ鹿児島県の枕崎市、指宿市(旧山川町)と並ぶ日本三大かつお節産地の一つだが、明治の前期には、高知や同じ静岡のに及ぶべくもなかった。焼津は、江戸時代からかつお節の産地の一つではあったが、明治初期においては生産量も多くなく、「全国的」な産地ではなかった。この「全国的」というのがかつお節の場合重要だった。全国的なマーケットでどう評価されるのか、もっと具体的には東京や大阪の市場でどう評価されるかが、明治のかつお節産業にとってはたいへん重要だった。そこで焼津のかつお節産業は、明治にはいってから意識的に技術の向上に力を入れはじめた。

村松善八

 キーパーソンは村松善八という男だった。一八五二(嘉永五)年、海産物問屋の次男として生まれ、のちにかつお節業者の村松家の養子となった善八は、三二歳という若さで、焼津の魚商人たち四〇〇名を束ねて魚商組合(のちに焼津水産会)を結成した。一八八四(明治一七)年のことである。魚商組合は、仲買人に比べて力の弱かった地元の魚商人たちが団結して力を出せるよう結成された。とくに魚商人たちの売り上げから掛け金を出し合い、誰かが支払い不能に陥ったときはこれを使って弁償する。こうした連帯保証の制度を設けることによって、焼津の魚商人たちの足腰をしっかりしたものにし、また信頼を得られるようにしようとしたのである。以来村松はこの組合の中心として活躍し、その先見の明で、圧倒的な統率力を発揮した。地域社会が力を出そうと思うなら、力を結集することが必須だ。そのことを村松も焼津の人たちも知っていた。

 村松はかつお節の品質向上にも力を尽くした。仲間とともに、先進地である田子村(静岡県西伊豆)へ研修に出かけ、また、一八八九(明治二二)年からは高知の教師を招き、かつお節の製造工程を改善していった。村松は、カツオの煮熟(かつお節製造の最初の工程)の際、滑車を使って効率よく出し入れを行うことを考案し、実用化させる。また、カツオを置くせいを針金で編んだものにすることで強度をもたせることにも成功した。さらに、魚商団体の組合員は、つくったかつお節を必ず魚商組合の「調査委員の検閲」を通すことに決めて品質管理にも力を入れた。こうした細かな改良や努力が、焼津のかつお節の品質を徐々に上げていった(村松善八が起こした会社は柳家本店として現在も焼津のかつお節産業を支えている。『焼津水産会沿革史』『焼津水産史』『焼津鰹節史』、柳屋本店『かつお節一筋に生きる』)

 焼津は、地域の資源を生かしながら、地域の中で団結して、産業の育成を図った。かつお節産業の育成は当時各県ともに力を入れていたが、焼津がそのなかで頭一つ抜けたのは、地域の人びとの自主的な努力があり、また、地域の団結力があったからだ。

 焼津節の評価は急速に上がっていき、全国区へ躍り出ていった。そしてこれまで田子や高知に教えを請うていた焼津は、一八九四(明治二七)年、反対に他地域に教師を派遣する地位を獲得することになった。最初に派遣されたのは村松善八自身で、派遣先は岩手だった。北海道が他府県に遅れて教師を招聘したころにはすでに焼津がその地位を確立していたのだった。一九〇一(明治三四)年、やはり村松善八自身が北海道浦河町に教師として赴いている。

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第1章 かつお節は日本の伝統か――たどってきた道(2)

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