わずか65日〝まぼろしの政権〟が日本人に投げかけた謎
昭和史研究の第一人者が65日の短命に終わった石橋政権が投げかけた謎に迫る。日本が自主外交の道を歩むために立ち返るべき戦後史。

序章 七票で決まった新総裁
──昭和三十一年十二月十四日の風景

勝つための秘策

 昭和三十一年(一九五六)は、太平洋戦争の終結から十年が過ぎていた。戦争で荒廃した日本の風景もしだいに整備され、社会全体に新しい世代、新しい動きが加わり、風景そのものが平時にと戻っていった。いわば『経済白書』が言うように、「戦後は終わった」という空気が広がっていく時代になっていた。

 師走のこの日(昭和三十一年十二月十四日)、いしばしたんざんは東京・新橋にある第一ホテルで朝を迎えた。午前七時すぎにホテルの理髪室で散髪を終え、迎えに来ていたいしひろひでとともに自動車で丸の内の東京會舘にむかった。石田がのちに書き著しているところでは、この国の後継総裁を決める重要な日だというのに、石橋はそんな勝敗などに頓着しないという落ち着いた態度であった。

 石田は大正三年(一九一四)の生まれで、昭和十四年(一九三九)に早稲田大学を卒業したあと、『中外商業新報』(現在の『日本経済新聞』)の記者であったが、戦後は政治家を志し、昭和二十二年(一九四七)の新憲法下での初の総選挙に立候補して当選している。石橋と知り合ったのは中外商業新報時代の編集局長だったばまとしから紹介されてである。石橋が東洋経済新報で戦時下でも、自らの意見を発表し続けているのに打たれ、密かに尊敬していた。

 代議士となってからは、ますます尊敬の念を強くし、自ら側近と名のり、石橋のしょう日本主義や戦時下の抵抗の論を紹介する役も引き受けていたのである。

 東京・丸の内にある東京會舘にはこの日の午前八時を期して、総裁選で石橋を支持する代議士、それにやはり総裁選に立候補しているいしみつろうを支える代議士が集まっていた。石橋、石井の両派の懇談会と銘打たれたこの会合は、いわば午前十時から東京・大手町の産経ホールで開かれる総裁選への出陣式だった。立候補者はこのほかにきしのぶすけが名のりを挙げていたが、代議士の半数近くは押さえているだろうといわれ、圧倒的に有利な情勢だった。その岸派が恐れたのは第一回投票で過半数をとれなかった場合、二、三位になる石橋・石井の連合軍であった。

 もとより石橋・石井両派の参謀たちも二位になった者を三位の支持者が、決選投票では支援するようにお互いに調整しあっていた。

 この調整は十三日になっても話し合いがつかず、新聞などメディアでは、両派がそれぞれ自らの推す候補者に一本化しようとするだけで、「両派一本化できず」との報道が流れていた。実際に朝日新聞は十四日付朝刊では「総裁三候補、並列のまま」と一面で報じ、石橋・石井は決選になれば提携するにせよ、どちらに絞るかは決まっていない旨の報道を行っている。

 石田の著した『石橋政権・七十一日』によれば、実はこの日の朝まで両派の話し合いは続いていて、二、三位連合の話し合いがまとまり、二位の者に三位の支持者が投票する方向でまとまっていた。そのことを確認するために両派の代議士たちは午前八時半の「石橋・石井両派合同懇談会」を開くことになったのである。

 この懇談会には、両派を代表する形でざわが立って、「決選投票となった場合、石橋、石井いずれであれ、上位になった者を全力で支援する」ことが決まったと報告している。石井と石橋もそれぞれこの方向で納得している旨、出席の議員たちに伝え、共通の「敵」は岸信介であると確認することになった。

 そこから両派は揃って会場の産経ホールにとむかったのである。

 石橋はこのときとくに興奮していなかった。というのは、自ら総裁になりたいとの感情がそれほど高いわけではなく、同志たちに推されて出馬したという程度の感情だったのである。そういう冷めた感情が、この総裁候補の性格でもあったのだが、実際に石橋はそのときの心境を次のように綴っていた(『石橋湛山全集』第十五巻)。

 「ただ公選が順調にすんでくれることを願っていた。それは日本における保守政党最初の総裁公選に不祥事がおき、汚点を残すことでもあれば、将来に悪影響を及ぼすと考えたからであった」

 このときは、自由党、日本民主党、改進党などいわゆる保守勢力の結集ともいうべき保守合同(昭和三十年十一月)が行われてから一年を経過している。五五年体制の誕生によって、日本の政治状況はいきなり「保守か革新か」と色分けできるようになった。英国の議会政治にならったともいえた。それだけに石橋は、保守政党としては初めての総裁選であり、将来のモデルになるような理想選挙を考えていたというのだ。

七票差の逆転勝利

 自由民主党の総裁選挙(それは首相を決めるのと同義語なのだが)は、午前十時五十五分から始まった。長老議員を仮議長に選び、そのあと個々の代議士の資格を名簿で確認したのちに、議長にすなしげまさが選ばれた。副議長には各派を代表する形で六人が選ばれ、まず幹事長の岸信介による党務報告が行われた。保守合同によって党勢は伸びているとの内容であった。いわば五五年体制が緒についた段階だったが、自由党を中心とする保守勢力の結集は戦後日本の柱になるとの自負もうかがえた。

 次いで壇上に立ったのははとやまいちろう首相である。鳩山は脳溢血で半身不随の身であり、その姿はまさに自らの五十年余に及ぶ政治生活への別れでもある。前年四月に総裁に就任してから一年半、国際連合への加盟も成功したと述べたあとに次のような別れの挨拶を行った。

 「私はこの夏以来総理大臣としての職務が激しいので、やめたいと親友達と話し合ってきたが、いよいよやめる時がきた。私は本日総理をやめることを諸君に明言する。諸君は新進有為の総裁を選んでほしい。新総裁にはわが党がいままでとってきた外交、経済政策を大体その方向に進めてくれる人になってもらうことをお願いする」

 鳩山にとってわずかの期間とはいえ、総理としての実績を積んだことはその経歴に花を添えることになったのである。鳩山はおおばんぼく(本名・ともちか)の謝辞を受けたあと、秘書に肩を支えられて杖を手に会場の拍手の中を退場していった。そこには「戦前」が少しずつ消えていくおもむきがただよってもいた。

 そのあと砂田議長は選挙管理委員を任命したのだが、会場の空気を読みながらその空気に歯止めをかける発言を行った。今回の総裁選はわが憲政史できわめて厳粛、かつ公正に行いたいとの内容を伝えたあと、あえて「総裁が決定したあとは、感情的なシコリが残らないようにしてほしい」とつけ足したのである。換言すれば、岸、石井、そして石橋の三派の闘いはそれほど激しかったといってよかった。五五年体制下で初の総裁選はまさにルールなき闘いでもあったのだ。

 午前十一時四十三分から新総裁を決定する投票が始まった。単記無記名で衆参両議院の議員、それに地方代議員の順で行われた。その結果は次のようになった。

岸 信介  二二三票

石橋湛山  一五一票

石井光次郎 一三七票

 過半数の二五六票を獲得する者がなく、岸と石橋の間で決選投票が行われることになった。石橋派の参謀役の石田は、一五一票に内心で首をひねった。予想より二十票少なかったというのである。石井票が予想より多く、そちらに流れたのだろうか、と疑った。それらの票が石橋に流れてくることを願いながら、石田ら石橋の側近は決選投票を見守ることになった。

 午後零時三十分すぎに、決選投票に入り午後一時には投票も終わり、すぐに開票に入っている。この開票時にひとつの政治ドラマがあった。選挙管理委員でもあった石田がのちに著書にも書き、新聞記者にも語ったために知られることになるのだが、その顚末は主に石田の著作をもとに復元してみたほうがわかりやすい。

 管理委員は壇上で集計を行う。石田はその集計結果を見ると岸票が二五一、そして石橋票は二五〇になる。わずか一票差である。石田の表現では「思わず目の前が暗くなる」という状態だった。ところが隣を見るとたけ派で石橋支持の選挙管理委員いちろうがふるえる手で残りの投票用紙をにぎっている。

 「君、その手の中は石橋票か……何票ある?」

 「八票だよ」

 石田は内心の笑みを隠して、議長席に近づいた。

 「議長、この際ちょっと休憩したらどうですか」と砂田の耳元で囁いた。砂田は岸支持である。砂田は、石田がそういうのであれば石橋が敗れたに違いないと判断して、「いや休憩はしない」と石田の申し出をはねのけた。石田は一世一代の大芝居に勝ったと実感した。もし休憩していたら、そして岸が負けているとわかったら、投票用紙の中には無効投票があるとの声が起こったりして、結果はどうなったかわからなかったと、石田はしたためている。

 砂田はぼうぜんとした表情で、投票結果を発表した。石田は前方から二列目に座っている石橋に人指し指を立て勝利の合図を送った。

石橋湛山  二五八票

岸 信介  二五一票

無効投票  一票

 会場にはどよめき、ばんざいの声、さらには複雑なうめき声も発せられた。大方の者は、岸が鳩山の後継者になるのだろうと想定していたのだが、その実態はまったく異なった形になったのである。

 この日の朝日新聞の夕刊は、次のような記事を書いている。

 「午後一時十五分石橋通産相(注・鳩山内閣ではこのポストに就任していた)が当選。ニュースフラッシュをあびた石橋氏は笑いがとまらぬといった具合。会場に拍手がわく。だが、半分近くはひっそり静まったまま。そして月余にわたった〝総裁争奪劇〟も複雑な幕切れとなった」

 この記事にもあるように、党内の半分は石橋に決して笑顔で応じなかったのだ。

 砂田が石橋新総裁の登場を告げると、石橋のもとに岸や石井が歩み寄り、三人はそれぞれ握手を交わしている。場内には一斉に拍手が起こったと各紙の記事には書かれているのだが、それでも党内挙げてという空気にはほど遠かった。やがてそのことは、現実に組閣を進める段になって明確になっていくのである。

 石橋は新総裁として登壇し、その心がまえを述べている。月並みな内容であり、石橋の心中にはまだ総裁としての心がまえができていないとも見られた。

 「私は党則による選挙により、わが党の総裁に推薦をうけました。時代の声望を一身にうけた鳩山首相のもとですら、時局はなかなか容易でなかったことであり、私がこの地位について果して期待にそえるか心中恐々としている。どうかこの上は本日候補として挙げられた岸、石井両氏をはじめ、党長老などの絶大な支援をうけて党運営を円満に図り、国家のため保守党の神ずいを発揮したいと思います」

 口ぶりは淡々としていた。石橋はこのとき七十二歳になっていた。

リベラリスト政権の〝まぼろし〟

 この党大会は最後に、岸が「石橋新総裁萬歳」の発声で党内融和を誇示するような形で終わった。

 石橋の選挙事務所は東京・日比谷の日活国際ホテルの中にあった。午後二時すぎに石橋は支持者に囲まれながら、この事務所に入った。郎党や支援者からなんども萬歳の声援を受けながらも、石橋は「自分ではちっともうれしくない。エライことになったと思っている」と笑顔のまま応じた。実はそれが石橋の緊張しているときの表情でもあった。

 石田は石橋の前に進みでて、「まことに(票差が)少なくて……」とびている。石田の記述では、石橋はこの言にも黙って頭を下げたという。「平常と少しも変らない。小春日和の陽ざしをうけて、先生の顔が輝いていた」と師の表情を書き残している。

 この期に石橋総裁を誕生させた意義について、もっとも適確に語ったのは野党である社会党の中央執行委員ひろであった。和田は朝日新聞(十二月十五日付朝刊)に寄稿し、歴史的な重みについての分析も試みていた。

 「石橋君はオールド・リベラリストである。彼が占領軍によって追放されたのは占領政策に抵抗したためだったといわれるが問題には正面からぶつかり、正しいと思えば抵抗するという彼の性格を端的に物語っていよう。石橋君が新総裁に選ばれた理由のひとつには、戦争に協力しなかったという汚点のない経歴をもっていること、つまりリベラリストとしての信念が本物であったことが挙げられるのではなかろうか」

 和田も戦前には農林省や企画院の官僚として革新官僚の側にいて、軍部とは一線を画していた。昭和十六年には、統制経済を掲げて日本の社会主義化を図ったとして逮捕されている。戦後に無罪判決がでている。そのあとに政治家に転じていた。石橋に通じているきずなを、たとえ野党の側にあっても信じていたのである。リベラリスト石橋の登場が理解されたのは、歴史への透視力をもつ者の支援を受けたからであった。同時に岸が敗れたとはいえ、まさに歴史への視点を欠いている者の数も相応にこの国では力をもっていたことを逆説的に示している。

 あえてふれておくが、石橋と岸の七票差は、四人が、「石橋湛山」ではなく、「岸信介」と書いていたら、総裁選は逆転していたのであるとすれば、「鳩山・岸」という流れになり、昭和初年代の閣僚がそのまま首相の座を継いだことになった。戦後の日本社会は、軍事主導路線(鳩山も結果的にその役を担っているのだが)を完全にふっきったわけではないとの見方がされるはずであった。

 鳩山と岸の間に、石橋が挟まることにより、戦後の日本社会が一定の範囲で自省の姿勢を見せたことになった。そういう〈歴史〉を四人がつくりあげたのである。石橋に投票した個々人には、歴史への姿勢を明確にしたとの評価が与えられてもいい、と私は考えている。

 こうして総裁の座に就いた石橋はわずか六十五日間でその役を降りてしまう。健康にすぐれなかったためでもあったが、しかし石橋の存在は今なお私たちにさまざまな問いかけを行っている。その問いかけのもっとも大きな点は、〈はじめに〉でも指摘したように、もし石橋が首相としての在任期間が長かったら、戦後の昭和史はどれほど大きく変わっただろうか、である。その答えは後世の人びとの昭和史検証能力にかかっているともいえるだろう。

 その後の岸信介政権の国内政治の反動化と対米癒着、自主性なき外交に比べて、石橋は国内政治の民主化や自主外交を旗印にしていた。わずか七票とはいえ、石橋総裁の誕生は、石橋の説く日本の歩むべき道への共感と共鳴が少なくなかったと記録されるべきだろう。

 政治評論家のうちけんぞうが著した書(『戦後日本の保守政治(政治記者の証言)』一九六九年刊)の中で、石橋政権が続いていたらと仮定し、岸政権とは異なったであろうと言って、「それは、政治指導者の個性が政治路線をどこまで左右しうるかという興味あるテーマをかかえて、〝まぼろしの政権〟がいまもわれわれに投げかけているナゾである」と書いている。

 このナゾを解くためにも、石橋湛山の言論人から政治家への道筋を改めて辿ってみることが必要になるだろう。

第一章 戦後政治家としての出発点(1)

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