これからの「健康で文化的な最低限度の生活」を考えるために
人びとをどん底へと追い落とす社会へのノー!

第Ⅰ部 貧困問題の現場から

第一章 ある夫婦の暮らし

ゲストハウスの新田夫妻

 新田夫妻(仮名)が出会ったのは、二〇〇五年の秋、東京都内のゲストハウスだった。都内に八〇件を展開する大手企業が経営しているゲストハウスで、夫の久さん(四〇歳)は四人部屋に、妻の直美さん(二六歳)は二人部屋に住んでいた。

 ゲストハウスとは、ユースホステルのような簡易旅館のこと。一九九〇年代から外国人のバックパッカー(大きなリュックを背負って、安上がりに旅行する人たち)向けに登場したが、現在では「滞在客の八、九割は日本人」と久さんは言う。一ヵ月単位で契約でき、敷金・礼金・仲介不動産手数料等が不要。お金のない人たちがとりあえず駆け込む居所として活用されている。二人の住むゲストハウスは、毎月の賃料(月額三万八〇〇〇円)の他は、初めに五〇〇〇円の清掃料を支払っておくだけで滞在できた。初期費用四万三〇〇〇円で一ヵ月いられるというのは、たしかに安い。

 しかし、なぜ新田夫妻はゲストハウスに住むことになったのか。久さんは当時三八歳。人によっては一戸建てを構えていてもおかしくない年齢だ。それまで自堕落に生きてきたツケが回ってきたからなのか?

 結果だけを見て結論を急げば、そこには必ず自己責任論が入り込む。「現在の望ましくない結果をもたらした責任は、本人自身にある」という主張だ。しかし、人々の「生」は、そこまで単純なものではない。「知る」とか「判断する」というのは、もう少し丁寧な作業でなければならない。新田夫妻の「生」は、現代日本の貧困がどのように生み出されているのか、そのプロセスを映し出している。横行する自己責任論が見えなくしている影の部分(背景)で何が起こっていたのか、その実態を見ていきたい。

貧困の中で

 久さんが生まれたのは一九六六年、ひのえうまの年だった。一九三〇年生まれの父親は兵庫県で建設業を営んでおり、一時期は二〇人ほどを雇用していた「親方」だった。しかし三〇代半ばで、仕事中に煙突から落ちて片足を失い、廃業せざるを得なくなる。その後、父親は職業訓練校に通い、時計修理工の技術を得る。久さんの母親となる女性とは、その職業訓練校で知り合った。

 久さんの両親は、父親が時計の修理をして、母親が注文取りや配達などの外回りをすることで生計を立ててきた。子どもの久さんが覚えている父親の姿は、いつも仕事をしていた。

 その父が、仕事中に脳溢血で倒れ、亡くなる。久さんが小学校三年生のときだった。遺された母子は、その後他県に移り住み、母親が文具店を経営する。しかし、母親も小学校六年生のときに他界。もともと片肺しかなく、体が弱かった。「働き通しで、心労で亡くなったようなものです」と久さんは話す。

 兄弟のいなかった久さんは、一二歳にして一人になる。母親が亡くなった病院で「漠然と、これから苦しい生活に入っていくだろうな、と思っていた」と言う。

 久さんはその後、伯母の家に引き取られるが、そこでの生活は辛かった。ぜんそく持ちだった久さんが咳きこむのがうるさいと、物置で寝かされたことがある。当時は、中学校の美術部で「絵を描いているときが一番幸せだった」という。

 久さんは美術の高校に行きたかったが、それは許してもらえず、全寮制の高校に放り込まれた。なじめなかった彼は、一ヵ月で高校を中退。誰も住んでいない実家に戻り、一五歳と三ヵ月で一人暮らしを始めた。伯母は両親の生命保険を管理していたはずだが、その話をまともに聞いたことはない。二〇歳ぐらいのとき、数万円渡されたのが残りの全部と言われた。頼んだが、契約の書面すらも見せてもらえなかった。

 最初に勤めたのは、ガソリンスタンドだった。時給六九〇円のアルバイト。まじめに働いていたのが評価されて、向かいのメッキ工場にスカウトされる。そこをやめたのが一八歳。理由は「自衛隊に入るため」だった。

 自衛隊を三年で除隊した久さんは、大阪に帰って、おもちゃ販売、パチンコ、旅館と衣食住完備の仕事を転々とする。二〇〇五年に上京してくるまで、一七年間で約三〇ヵ所の職場を転々とした。総じて暮らしはきつかった。自分でアパートを借りたこともあったが、家賃が払えなくなり、そのときはパチンコ屋の住込みを見つけてしのいだ。

 久さんの記憶にあるのは、苦しかったときに世間から受けた仕打ちだ。寝る場所がなく、教会に駆け込んだことがあった。牧師は「ここはみんなの場所だから、寝させてあげるわけにはいかない。その代り、祈ってあげるから」と言って、追い出した。警察に相談したこともあるが、「こまやままで登って、また降りてくれば夜は明けてるよ」と相手にされなかった。言った本人はとうに忘れているだろうが、久さんはおそらく生涯にわたって忘れることはない。

 三八歳で上京。妻の直美さんと出会う。

 直美さんは、東北の出身。実家は持ち家だったが、生活はとても苦しかった。父親は警備の仕事をしている途中、交通事故にあって働けなくなった。祖母が寝たきりのため、母親も働きに出られなかった。父親の障害年金だけが唯一の収入で、お茶碗にご飯を半分よそって、お湯で膨らませて腹もちをよくする、というような食生活を送っていた。

 直美さん自身は、高校在学中から、精神的に病気がちの生活を送っていた。きっかけは、父親が警備会社に転職する前、二五年間勤めた会社をやめたことだった。失業給付をもらって家にいる父親を、多感な女子高生は受け入れられず、そのころから神経症的な症状が出始める。

 高校卒業後、服飾の専門学校に入るが、二、三ヵ月で中退。その後、家にひきこもる生活が始まる。二〇歳のときアルバイトもしたが、三週間しか続かなかった。二五歳の春、専門学校に入り直すが、そこも病気が回復せずやめた。同じ年の秋、なんとかやり直そうと東京に出て、仕事を探しながらゲストハウスに滞在した。そこで久さんと出会う。

工場派遣で働く

 出会った後も、二人の生活は大変だった。二〇〇五年秋から半年間、二人はウェイターやウェイトレスとして働くが、直美さんの具合がなかなかよくならず、翌春、直美さんの実家に行く。そこで結婚式を挙げた後、久さんは地元での就職を試みるが、主に水産加工業を地場産業としていた地元の求人では、時給七〇〇円未満の最低賃金がほとんどで、それでは手取りで月収八、九万円しか望めなかった。それに対して、派遣・請負業は時給九〇〇~一〇〇〇円。残業もあり、高収入が得られる旨の宣伝文句もあった。久さんは、後者を選んだ。

 製造業請負最大手のN総業から最初に送り込まれたのは、長野の自動車部品工場だった。残業は毎日四時間以上あったが、寮費が二人用個室で七万円かかったため、手取りは月一五万円。

 工場内作業員の大半は派遣・請負労働者で「主力を担っていると言っていい」(久さん)状態だった。三~六ヵ月で多くの人が入れ替わり、一年以上働いている人は一、二割しかいない。序列は明確で、正社員がトップ、その次がパート・アルバイト、派遣はさらにその下の立場で「派遣には休憩がなかった」という。正社員はライン作業にはつかず、管理するだけ。「とにかくラインを止めない、穴を空けないことが(彼らの)一番の仕事だった」。

 そこの仕事は三ヵ月で契約満了。更新はされず、二人は実家に戻って次の仕事を待った。N総業から仕事のオファーは結構あったが、たいていは自動車の車両組立工場だった。しかし会社の人から、車両組立ての仕事はラインのスピードが速く、ついていけないだろうと聞いていたので、それは見送った。

 半年後、再び自動車部品工場へ。今度は愛知県だった。面接の段階では「残業ありで、月収二四万~二五万円」と聞いていたが、実際は残業なしの定時あがり。寮費を引くと、手取りは一〇万円を切った。三ヵ月でやめた。今度は自分からだった。手取り一〇万円を切るようでは、妻の実家に仕送りできなかったからだ。

 それ以外にも不満があった。古株の派遣・請負労働者の士気が低かった。社員がいないと久さんたち新入りに任せて、自分たちはサボる。だが、彼らだけが悪いのではないこともわかっていた。「商品が好きでやってるわけじゃないから、愛着もないんですよね」と久さんは分析している。話によると、給料は自分たちの手元に入る前に、半分近くピンハネ(中間搾取)されているらしい。「サラ金と同じように規制してくれたらいいのに」と彼は願う。

 二〇〇六年秋、サラ金(消費者金融)の高すぎる金利が二〇〇万人を超す多重債務者を生み出していることの反省から、上限金利をこれまでの二九・二%から原則として一五~二〇%にまで引き下げることが決定された(二〇〇九年から完全実施)。久さんはこのことを言っていた。消費者金融の金利のように、派遣・請負業の中間マージンにも上限があれば、もう少し「働けば生活していける」ようになるのではないか。

 派遣・請負業の実態を知った新田夫妻は、その後改めて実家近辺で水産加工業の仕事を探すが、三社面接したものの、全部不採用だった。経験者または外国人が優先だと言われた。仕方なく、再び派遣・請負の仕事を探した。

 二〇〇七年四月、夫妻は東京に派遣された。今度は、東京・武蔵村山市の工場で、コンビニ弁当を作る仕事だった。武蔵村山のコンビニ弁当工場と言えば、桐野夏生氏のベストセラー小説『OUT』で、バラバラ殺人を遂行した主婦たちの労働の舞台にもなった場所だ。小説では多くのブラジル人労働者が働いていたが、新田夫妻が行った工場では二、三百人の作業員のうち、七、八割が中国人学生で、残りが五〇代、六〇代の女性パートだった。

 送り込まれる前、夫妻が聞いていた労働条件は「勤務時間は二四時~六時の六時間で、時給は一〇五〇円。雇用保険・社会保険(健康保険・厚生年金)完備で、休憩あり」というものだった。妻の直美さんは、「それなら調子の悪い自分でもなんとか働けるんじゃないかと思って決めた」と言っていた。今度は二人で働く予定だった。

 しかし実際は、深夜二二時から翌六時までの八時間勤務で、毎日のように残業が二時間ついた。時給は一二五〇円だったが、雇用保険・社会保険はついておらず、休憩は一〇時間に及ぶ労働時間中に一度もなかった。トイレに行くときは、自分から社員に告げなければならないが、その間にラインが止まるはずもなく、同僚にフォローしてもらう必要があった。そのことを考えると、とうてい行けるものではなかった。

 直美さんには、無理な仕事だった。二人は五日間でやめた。

第一章 ある夫婦の暮らし(2)

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