だいぶ以前のこと。
ふと聞いたラジオの録音放送ですが、元人力車夫だった男が、さびた声で昔の夢を語っていました。ざっとこんなふうです。
「そりゃあ、なんてったって人力車でさあ。あんないいもなあ、世界じゅうにないね。」
「どういうところがいいんです?」とアナウンサー。
「自動車なんて、あんた。第一、味もそっけもありませんや。そこへいくと、昔ゃよござんしたな。月夜の晩にね、姿のいい芸者しゅをうしろに乗っけて、とばす心もちなんてものは、なんともいえねえ、いいもんでしたよ。」
「それにせまい道を探してあるくときなんか、人力ならどんな路地だってはいっていって尋ねあてますがね、タクシーなんかで、あなた、どうするんです。ハハハハ。
人力ぁ、なんてったって世界一ですよ。」
いかにも真情があふれている。ところで、
「おじさん、いま、お仕事は?」
と聞かれて、
「ええ、中野の駅前で、タクシーの配車係をやってます。」
これがオチです。
私は腹をかかえて笑ってしまいました。そのとき、目の前にポカリポカリと、伝統芸術をカサにきて今日権威になっている評論家連中の顔が浮かんで出てきて、失礼ながら、はなはだ愉快になってしまったのです。
彼らもついこのあいだまでは、やはり人力をひっぱっていたのですが、戦後、時代がかわると、どこかの文化ステーション前でタクシーの配車係をつとめながら、月を眺めてそぞろ感慨にふけっていたらしい。もっとも、近ごろ、御時勢につれて、またぞろ古ぼけた人力車を引っぱりだしかねないありさまです。
まったく、愛嬌者です。彼らがそうであるということは一こうに差しつかえないのですが。これが文化の権威という大へんなレッテルで押しだしてくると、ちょっと、そうはいかなくなってきます。人力車ならだれだって、にやっとしてすごしてしまう。しかし、それが奈良の仏像だったり、「桂離宮」だったり、「能」だったりすると、みんなもう笑わないからです。
もちろん、伝統はわれわれの血液であり、骨格です。それがほんとうに今日生きるわれわれのよろこびであり、日々の原動力であるならば、すばらしいと思います。
だが、事実は──一ぱんに考えられている「伝統」は残念ながらまったく正反対です。
今日、新鮮な世代が伝統だとか、古典などと聞くと、正直にいって、奇妙に居丈高く、ペダンチックでややこしい。暗く、おもく、はげたり、しめったり、沢庵石のように陰気です。
たぶん、うんと勉強して教養をつみ、ゾーケイを深くしたならば、あるいはそうでなくなるかもしれない。が、それだけの努力をする気も、実力もないとすれば──。やはりどうも縁がない。
まったく、かなりのインテリでも、パチンコ、マージャン、歌謡曲、ストリップなどという、根も葉もない方向に糸の切れた凧のように吹きながされて行ってしまうのです。
日本人くらい、一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方を見うしなっている国民はないでしょう。
もちろん、古典自体がそのような性格を持っているわけはない。
伝統主義者が一手販売にして、一ぱんをおどしつけているからです。彼らの趣味的な陶酔と、深刻そうに、観念的に感心してみせる、あの思わせぶりのポーズが、あたかも日本古典の性格そのものであるかのように誤解されているのです。
たとえば、「百済観音の前に立った刹那、深淵を彷徨ふやうな不思議な旋律がよみがへってくる。仄暗い御堂の中に、白焔がゆらめき立ち昇って、それがそのまま永遠に凝結したやうな姿に接するとき、我々は沈黙する以外にないのだ。その白焔のゆらめきは、おそらく飛鳥びとの苦悩の旋律でもあったらう。」(亀井勝一郎『大和古寺風物誌』)(ルビ以外は原文どおり)などとやられると、もうとてもいけません。アスカびとならぬ、二十世紀びと、俗人雑草どもは、そうじゃない、とは言えないし、気の弱いやつはサアえらいことになったと思ってしまいます。
たしかにクダラ観音はすぐれている。だが、「大地から燃え上った永遠の焔」とか、「長い間失ってゐた合掌の気持を、このみ仏がしづかによび醒してくれる。」などという述懐からは、筆者のケイケンな顔つきはほうふつとしますが、かんじんのミホトケのほうは一こうに、実体として刻みだされてこない。
つまり、これはいわゆる美文であるにすぎず、このような才能を持つものこそ幸いなれ、というだけのことになってしまいます。伝統とは関係ないようです。
また、ある評論家のポーズはさらに戦慄的です。一巻の伝統論のトップはまず、こういうところからはじまっています。
法隆寺の中門について、「この空間の中にはどこか一点謎のようなものがある。」とのっけからおどかしつけます。そして、
「この路をまっすぐに行けば、あの中央の柱につきあたってしまう。行手の門は、なかば人を通すようでもあり、通さぬようでもある。門でありながら塞いでいる。招じ入れる入口でありながら拒否している。……さながらこういっているかのようである。──『ここは門である。しかし、なんじがこれを入ることはできぬ。』」
また「これは門であるが、ただの開放的な通路ではない。閉鎖をも暗示している。招きながら拒否している。」(竹山道雄『古都遍歴』)(原文どおり)
私はこれを読んで、まったくギョーテンしてしまいました。いったい、この先生は、どんな仕かけの門をほかに知っているというのだろうか。
「ただの開放的な通路」にはふつう、門はつけないものです。だからとうぜん、あらゆる門が「閉鎖をも暗示している」。どんな門だって、「招く」と「拒否する」という二重の機能をそなえています。それが「門」というものなのです。(こんなバカバカしい説明をしなければならないとは!)
なにも、ありがたい法隆寺の中門にはかぎらぬこと。借金にでも行くときの相手の家の門、ドロボーがこれからしのびこもうとする入口、などというものは、それぞれ当事者にとって、まさに招くがごとくしりぞけるがごとき、緊張の最高潮の相をていするにちがいない。
だが、えらい学者先生が、法隆寺の前に長いあいだたたずんだりしたあげく発見されたことだと、伝統の後光をおびて、意味がありそうに聞こえてくるから妙です。
終始こんな調子で念を入れられる。読者のほうはお経を読まれているようなものです。なんだか分からないが、とにかく大したものなんだろう、と思うよりほかはない。
だが、さてそこから、どんな伝統があらたに生かされてくるというのでしょう。そういうポーズによってますます古典は観念化されてしまうのです。
だから彼ら流に、アカデミックに伝統を誇示し、強調すればするほど、文化の不幸な分裂はいよいよ深められる。つまりわれわれの伝統がまったくわれわれにとって他人ごとになってしまうのです。
現実は残酷です。今日の若い世代に、古典芸術についてたずねてみてごらんなさい。
コーリンとか、タンニュー、トーハク、なんて言ったら、新薬の名前かなんかと勘ちがいすること、うけあい。そうしてダヴィンチやミケランジェロならご存じだということになると、どっちがこれからの世代に受けつがれる伝統だか分からなくなってきます。
さらに一例。──やや古い話ですが、法隆寺金堂の失火で、壁画を焼失したのは昭和二十五年のことです。この年、某新聞社の十大ニュースの世論調査では、第一位が古橋の世界記録、二位が湯川秀樹のノーベル賞、以下、三鷹事件、下山事件などの後に、あれだけさわがれた法隆寺の壁画焼失という、わが国文化史上の痛恨事は、はるかしっぽのほうの第九位に、やっとすべりこんでいた。これは有名な事実です。(法隆寺は火災によってかえってポピュラーになりました。以前には、大仏殿の年間のあがりが十とすると、法隆寺は一、古美術の名作をゆたかに持っている寺でも、薬師寺とか唐招提寺などになると、〇・一という比例だったと聞きました。それが、金堂が焼け、壁画が見られなくなった、と聞いたとたん、法隆寺の見物人が急に四倍にふえたということです。)
伝統主義者たちの口ぶりは目に見えるようです。「俗物どもは」──「アプレは」──「現代の頽廃」──などと時代を呪い、教養の低下を慨嘆するでしょう。
だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
自分が法隆寺になればよいのです。
失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮蔑し、おのれを貧困化することにしかならない。
第一、嘆くという段になれば、過去の人間文化の、失われた膨大な財宝を考えて見ただけで身ぶるいし、狂い死にしなければなりません。
私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安い御用です。
それはこれから盛りあがってくる世代に、とらわれない新しい目で伝統を直視するチャンスをあたえる。そうさせなければなりません。私がこの、「日本の伝統」を書く意味もそこにあるのです。つまり、だれでもがおそれていまだにそっとしておく、ペダンチックなヴェールをひっぱがし、みんなの目の前に突きつけ、それを現代人全体の問題にしようと考えるからです。
先日、竜安寺をおとずれたときのこと。石庭を眺めていますと、ドヤドヤと数名の人がはいってきました。方丈の縁に立つなり、
「イシダ、イシダ。」
と大きな声で言うのです。そのとっぴょうしのなさ。むきつけな口ぶり。ふつうの日本人ではあり得ない。二世じゃないかと思ったのですが、さすがの私もあっけにとられました。
彼らは縁を歩きまわりながら、
「イシだけだ。」
「なんだ、タカイ。」
なるほど。わざわざ車代をはらって、こんな京都のはずれまでやって来て、ただの石がころがしてあるだけだったとしたら、高いにちがいない。
シンとはりつめ、凝固した名園の空気が、この単純素朴な価値判断でバラバラにほどけてしまった。私もほがらかな笑いが腹の底からこみあげてきました。
私じしんもかつて大きな期待をもってはじめてこの庭を見にいって、がっかりしたことがあります。ヘンに観念的なポーズが鼻について、期待した芸術のきびしさが見られなかった。
だがこのあいだから、日本のまちがった伝統意識をくつがえすために、いろいろの古典を見あるき、中世の庭園をもしばしばおとずれているうちに、どうも、神妙に石を凝視しすぎるくせがついたらしい。用心していながら、逆に、うっかり敵の手にのりかかっていたんじゃないか。どうもアブナイ。「裸の王様」という物語をご存じでしょう。あの中で、「なんだ、王様はハダカで歩いてらぁ。」と叫んだ子どもの透明な目。あれをうしなったら大へんです。
石はただの石であるというバカバカしいこと。だがそのまったく即物的な再発見によって、権威やものものしい伝統的価値をたたきわった。そこに近代という空前の人間文化の伝統がはじまったこともたしかです。
なんだ、イシダ、と言った彼らは文化的に根こぎにされてしまった人間の空しさと、みじめさを露呈しているかもしれません。が、そのくらい平気で、むぞうさな気分でぶつかって、しかもなお、もし打ってくるものがあるとしたら、ビリビリつたわってくるとしたら、これは本ものだ。それこそ芸術の力であり、伝統の本質なのです。
戦前、私がフランスから帰ってきたばかりのときでした。小林秀雄に呼ばれて、自慢の骨董のコレクションを見せられたことがあります。まず奇妙な、どす黒い壺を三つ前に出され、さて、こまった。なにか言わなきゃならない。かつて骨董なんかに興味をもったこともないし、もとうと思ったこともない。徹底的に無知なのです。だが見ていると、一つだけがピンときた。
「これが一等いい。」
とたんに相手は「やあ」と声をあげました。
「それは日本に三つしかないヘンコ(骨董として大へん尊重される古代朝鮮の水筒型の焼きもの)の逸品の一つなんだ。今まで分かったような顔をしたのが何十人、家に来たか分からないけれど、ズバリと言いあてたのはあなたが初めてだ。」というのです。私のほうでヘエと思った。つぎに、白っぽい大型の壺を出してきました。「いいんだけれど、どうも口のところがおかしい。」というと、彼、ますますおどろいたていで、
「するどいですな。あとでつけたものです。これはうれしい。」とすっかり感激し、ありったけの秘蔵の品を持ちだしてしまいました。えらいことになったと思った。しようがないからなにか言うと、それがいちいち当たってしまうらしいのです。だが私にはおもしろくもへったくれもない。さらにごそごそと戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿を見ながら、なにか、気の毒なような、もの悲しい気分だったのをおぼえています。
美がふんだんにあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。
しかし、美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。
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