「棋士がコンピュータに負かされる日が来るなど、とても考えられない」
棋士vs開発者。松本博文だから描けた、天才同士による真剣勝負のすべて。

第一章

幕を開けた真剣勝負

米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ 伊藤英紀

背水の陣

 出るからには、自信のない姿で会見の場に臨んではいけない。斎藤慎太郎はそう思っていた。多くの棋士の中から選ばれた、5人の中の1人なのだから。

 20141012日。場所は東京・六本木のニコファーレ。ドワンゴ社が運営する「ニコニコ生放送」のイベントスペースである。電王戦FINAL出場棋士発表の場にまず姿をあらわしたのは、斎藤慎太郎だった。

 イケメン。王子。

 視聴者からリアルタイムで書き込まれる多数のコメントが画面を覆いつくし、斎藤の姿にかぶさる。しかし、若くて男前、というだけでは、この場には立てない。電王戦は、プロ棋士とコンピュータ将棋による真剣勝負の場である。

「迷いはまったくなく、出場を決めました。タイトルホルダーの方に私では不足だと思わせてはいけない。自信があると思ったから、今ここにいる」

 PVの中で、斎藤はきっぱりとそう語った。

 タイトルホルダーが出場する前に、コンピュータ将棋を止める役割を担っていることを、もちろん斎藤は意識している。

 第3回電王戦までの結果は、棋士側の大幅な負け越し。その結果を受けて、日本将棋連盟側に対してはタイトルホルダーの羽生善治名人44歳)や渡辺明二冠30歳)をいつ出すのか、という声が向けられていた。

 将棋連盟側は、まだその時期ではない、という姿勢を示した。しかしながら、文字通り、後のない、「背水の陣」(渡辺明)で臨むという姿勢も打ち出した。

 電王戦FINALの出場棋士選考に当たって示された選定基準は、大きく挙げて2点である。まずは、強いこと。そして、若いことだ。

 選ばれたメンバーは以下の通りである。

 斎藤慎太郎五段21歳)

 永瀬 たく六段22歳)

 稲葉 あきら 七段26歳)

 村山 やすあき七段30歳)

 主税ちから八段32歳)

 将棋界には、四百年以上の歴史がある。現在の将棋指しは意識をせずとも、自らが指す一手一手には、その四百年の歴史が反映されている。

 同じように、この電王戦もまた、将棋界四百年の歴史の必然的な流れの中で起きているイベントだと言えよう。

 まずはここに至るまでの人間とコンピュータの関わりを、駆け足で振り返ってみたい。


 電王戦は「でんおうせん」と読むのか、「でんのうせん」と読むのかは、第1回の時点でははっきりしていなかった。記者会見において、どちらが正しいのかと質問されたよねながくには「将棋連盟というところは『どっちでもええやないか』という団体でございます」と答えている。その場では「でんのうせん」にしようかということになったが、第2回からは「でんおうせん」で統一された。

電王戦前史

 人間以外の何者かに将棋やチェスを指させようという空想は、古くからあった。

 18世紀の後半にはヨーロッパでチェスを指す人形が登場し、話題になった。これはもちろん、チェスの強い人間が隠れて操作していたわけだ。しかし優れた奇術のように当時は見破られなかった。そして西洋では、長く語り継がれる伝説となった。

 20世紀に入ってコンピュータが登場すると、西洋では早い段階でこれにチェスを指させてみようという試みが始まった。コンピュータチェスの歴史を詳細にたどっていけば、それだけで壮大な物語となる。

 ここでは黎明期の重要人物として、アラン・チューリングの名を挙げておく。「コンピュータの父」、あるいは「人工知能の父」とも呼ばれるチューリングは、20世紀を代表する知性の一人である。第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツが用いて解読不可能と言われた暗号機「エニグマ」の暗号を解読したことでも知られ、その模様は映画『イミテーション・ゲーム』(日本では20153月公開)でも描かれている。

 「チェスは知の試金石」(ゲーテ)という言葉が示す通り、チェスは人工知能の研究対象としては格好の題材だった。チューリングはハードとしてのコンピュータが実際に作られる以前から、紙にチェスのプログラムを書いていた。プログラムはコンピュータではなく、チューリング自身が時間をかけて実行した。チューリングはそれほど強くない知人を相手に、紙に書かれたプログラム通りに指してみた。しかし、勝てなかった。ちなみにチューリング自身も、各分野における多くの天才と同じように、意外なほどに、チェスはとても弱かった。

 1964年、日立製作所は国産初の大型汎用電子計算機「HITAC 5020」を開発した。67年にはその後継機「HITAC 5020F」に詰将棋を解かせる試みが成功している。観戦記者のひがし公平は詰将棋を解く機械の記事を書いた。中には、信じられないという人もいた。東の記事に対して「インチキではないか」と言う声もあった。東はそれが悔しくて、50年近く経った今まで、機械が詰将棋を解いた証拠のプリントアウトを、ずっと大事に保存していたという(東公平『近代将棋のあけぼの』河出書房新社)

 コンピュータに将棋を指させようという試みは、1974年、当時大学の大学院生だったたきざわたけのぶ(現コンピュータ将棋協会会長)らによって始まった。NEC広報誌からの依頼で、コンピュータによって幕末の棋聖・天野そうの指し方を現代によみがえらせ、それをもとに作家の斎藤さかえが推理小説を書く、というプロジェクトの一環だった。できあがったプログラムはルール通りに動かせる程度のもので、強さを語るレベルではなかった。コンピュータと斎藤との対戦は『将棋世界』誌にも残されている。ただし、コンピュータ側はじようせきをはずされると途端に指し手が乱れ、途中で打ち切りになっている。

 コンピュータ将棋れいめい期、少しでも事情がわかっている人間にとっては、将棋でコンピュータがプロに勝つ日が来るとは、夢物語のようなものだった。

 1980年代に入ると、家庭向けのコンピュータが次第に普及しはじめた。これらの小型コンピュータはパソコン(パーソナル・コンピュータ)とも、マイコン(マイクロ・コンピュータ)とも言われた。多くのパソコン用ゲームソフトとともに、オセロや将棋など、コンピュータが思考するゲームの開発も行われるようになってきた。コンピュータ専門誌でこれらのソフト同士を対戦させる試みも行われた。オセロは当初からレベルの高い戦いが繰り広げられた。一方で将棋はまだまだ弱かった。さらにはあまりに反則が多いので、企画者はプロレスにたとえ「ヒール(悪玉)の横行ばかりが目立つ」と嘆いた。

 1985年には「森田かずろうの将棋」が発売された。この森田将棋はそれ以前のソフトに比べれば格段に強く、将棋ソフトの代名詞となる。

 1990年には第1回コンピュータ将棋選手権が開かれた。6チームが参加した。使用されているコンピュータはPC9801シリーズや、ファミコンなど。このコンピュータ将棋選手権は開発者たちにとっては公式戦的な位置づけとなり、この大会に参加し、勝つことを目的としてソフトの発展が加速するようになった。

 90年代前半に至って、ソフトはようやくアマチュア初段程度の実力を認められるようになった。多くの人々にとっては既に楽しく遊べる段階にあったが、上級者にとっては、考慮時間が長いばかりで弱い、という域を脱していなかった。

 1996年、将棋連盟が発行する『将棋年鑑』において、

「コンピュータがプロ棋士を負かす日は? 来るとしたらいつ?」

 というアンケートが取られている。

2010年」(森内俊之)

2015年」(羽生善治)

 など一部の回答を除けば、「来ない」「わからない」という回答が多かった。

1回電王戦

 しかし、後述するように、コンピュータ将棋は次第に強くなり、特にBonanzaボナンザというソフトが現れて以降、その空気は変化した。

 そして2010年、女流棋界の第一人者である清水いち女流王将が、強豪将棋ソフトの合議体である、あから2010に敗れた。

 次は男性棋士の登場、という流れの中、まず舞台に上がったのは、米長邦雄永世棋聖。

 1943年生まれの米長は現役時には名人1期、棋聖7期など、合計19期のタイトルを獲得するなど、大きな実績をあげた名棋士である。

 前述の1996年『将棋年鑑』誌のアンケート、

「コンピュータがプロ棋士を負かす日は? 来るとしたらいつ?」

 という問いに対して、米長は、

「永遠になし」

 と答えている。

 1997年、チェスで世界チャンピオンがコンピュータに敗れた後、チェスやオセロ同様、将棋もコンピュータに負ける日がくるおそれはないか、という問いには、

「そういう声が高まっていますが、私は二十一世紀になってもその日はこないと思っています。コンピューターが解明できないもの、それは日本の将棋と女心のふたつですね。(爆笑)

 冗談はともかく、プロ棋士はだれもがコンピューターには負けないの信念をもっていなければ将棋の神様に申しわけがありません」

 と答えている(『近代将棋』199711月号)

 米長は2003年に引退した後、2005年からは将棋連盟会長に就任。その間に、コンピュータ将棋が一気にプロレベルにまで駆け上がってくるのを、目の当たりにした。

 2012年にボンクラーズと対戦した時、米長は68歳になっていた。米長はボンクラーズと指してみて、率直にその強さを認めた。勝てない理由は、米長が弱いというよりは、ボンクラーズが強すぎた、というべきだろう。なにしろ現役の棋士を自宅に招いて、ボンクラーズと指させても勝てないのだから。

 その上で米長は、対コンピュータ戦独自の対策を立てようとした。事前の振り駒によって、後手番ということは決まっている。そこで、江戸時代からの棋譜に残る限り、誰も指したことのない後手番の1手目を指すことにした。

 森下たく九段はそうした米長の事前対策の内幕を、ニコニコ生放送の解説中に明かしている。森下は米長に向かって、

「失礼ですけれど、とても先生に勝ち目があるとは思えません」

 と言った。米長はなんと答えたか。

「それは言われなくてもわかっておる。それでどうやって勝つかを考えておるんだけれども、結局これ(誰も指したことのない初手)が勝つ率が一番高い。普通にやって勝ち目はない」

 棋士であり、また将棋界を語る著述家としても名高い河口俊彦八段は、ある席で米長に会った際に、以下のような会話を交わしている。

米長が来て「今度、コンピュータと戦うんだ。その対策は十分に考えてある。」と熱っぽく語った。そこで私は「大天才の真価が見られるね」と言ったまでは良かったが、その後がいけなかった。「だけど、あんたが負けるよ」(第2回将棋電王戦 第4局 電王戦記(筆者:河口俊彦) http://news.nicovideo.jp/watch/nw588820

 河口がうっかりそう口走ってしまったのは、米長が必勝形になっても、体力が続かずに、最後は逆転を許してしまうのではないか、と思ったからだ。米長も河口の真意を察してか、特に不愉快な顔を見せなかったという。

 対局の日が訪れた。米長は「奇策」と言われた序盤作戦を採用した。手厚い防御態勢を築き、優位に立ったかに見えた。しかし長い中盤戦、米長が根負けする形で、ボンクラーズに攻めの手がかりを与えてしまった。ボンクラーズのきようじんな攻めが通り、最後は大差でボンクラーズの勝ちとなった。はからずも、河口の心配がなかば当たってしまった、ということだろう。

 引退棋士とはいえ、米長の敗北は大きな話題となった。では、米長を破るほどのコンピュータ将棋を開発したのは、どのような人物だったのだろうか。

第一章 幕を開けた真剣勝負 米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ 伊藤英紀(2)

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