二〇一五年八月末、実話誌の記者から一報を得た。
「山之内さん、山口組が分裂したという情報が入ってますが、何か御存知ですか」
「えっ! 何ですかそれ。知りませんよ」
耳を疑った。有り得ないことだ。私は山口組の顧問弁護士だが普段組の運営や政治的な話はしないので寝耳に水だった。
でも記者が分裂という言い方をする以上、一つや二つの組が出たということではなかろう。代替わりでもないのに継続中の山口組が割れる等考えられない。
と同時に体から血の気が引いて行く。忌まわしい悪夢が脳裏に甦った。一九八五年一月二六日竹中さんが撃たれた夜、私は大阪警察病院前の混雑の中で、ハンドマイクを持つ岸本さんを見詰めていた。
「山口組組員の皆さん。静かにして下さい。親分は今、手術中です。先生方も最善の努力をして下さってますので今は見守って下さい。追って本部から通達します。今日は解散して下さい。判りましたか」
それでも集まった組員は病院から去ろうとしなかった。私は茫然と立ちすくんだまま、一命だけは取り留めてくれと懸命に祈っていた。
山口組が分裂し竹中正久組長が四代目に就いて僅か半年ほどの凶行だった。
また九七年八月二八日宅見勝さんが殺された夜、私は一人で星を見ていた。誰にも会いたくなくて市内から生駒の山へ逃げた。山の頂上からだと大阪でも少しは星が見える。悠久の夜空に宇宙を想像した。人類など膨大な時間のほんの一瞬。一人の男が殺されたからとて何ほどのことがあろう。
それにしてもむごい。残忍である。どうして殺すところまで行かなければならないのか。殺すことが本当に解決になっているのか。暴力団の世界はとうてい私には付いて行けない。もう嫌だ。そう思った。
私と山口組との付き合いは古く、七六年頃から山口組組員の弁護が漸次増え八一年には当時の山口組本部長小田秀臣氏の顧問弁護士をしていた。
本家山口組の顧問に就任したのは竹中正久組長が四代目になった年、八四年の八月である。親交の深かった宅見勝さんが私を本家の弁護士に推薦した。宅見さんは生涯を通じ最も親しく交際したヤクザだが、知り合った頃(八二年頃)は、まさか山口組の若頭にまで上りつめるとは思いもしなかった。
さて一報を聞いた私だが、山口組分裂が誤報であってくれと願うものの、報道の大きさはもはや動かしがたい真実を予感させた。
組を出たのは入江さん、正木さん、寺岡さん。信じられない。皆、六代目山口組を盛り立てるため懸命に働いた人だ。まさに誕生後の六代目山口組中枢である。特に入江さんはそうだ。そして山健組組長の井上さんも出た。
山口組には直参と言って親分と盃を交わした舎弟(兄弟分の弟)と若中(子供)がいる。六代目発足時には一五人の舎弟と八二人の若中で船出したが、舎弟、若中ら二次団体の皆が山口組の運営に携わる訳ではない。組の運営は役職に就く少数の人が担っている。多くの直参は山菱の代紋で渡世を張るという共通の目的はあるものの、普通は執行部の決定に異を唱えたりしない。
組の規模もまちまちで組員数二千人を超える組から十数名という団体まで経済力に大きな差がある。
入江さんは私が宅見さんと知り合った八二年頃は宅見組若頭補佐だったと思う。入江さんとは古い付き合いで、この度私に六代目山口組の顧問弁護士を要請してきたのが彼だった。髙山清司若頭を全力で補佐し司組長を懸命に盛り立てた。そんな入江さんが一体どうして、と思わずにいられない。よほどの覚悟に違いない。
六代目山口組から出た人は山健組組長の井上邦雄さんを親分として神戸山口組を旗揚げした。だが過去の例からすれば組を割って出た側は圧倒的に不利で、本家側の切り崩しに遭い、戦いの末消滅する。出た勢力が大きければ大きいほど抗争も激しくなり何人もの命が奪われないと先が見えてこない。よりによって入江さん、井上さん、正木さん、寺岡さんと親しい人ばかりだ。そんな親しい人が殺されたり、長い懲役に行くのはもうごめんだ。
第一司さん共々皆んな歳ではないか。今から長い懲役に行く元気などないはずだ。意地を張るうち取り返しのつかない事件に発展したら人生が終るかも知れない。自分が安全な位置にいると思ったら大間違いだと思う。
対立が激しくなってトップクラスの人間を狙うという段階になれば、それは組ぐるみの計画に決っており、狙う側の組長や若頭は共犯であり、組織犯罪処罰法で罰せられる。若衆が罪を背負ってくれると信じるのも甘い。
「親分は関係ありません」といくら供述しても、通用しない時代になってきている。殺害の背景事情を見て組の意向が働いていると認定されたらまずいことになる。
裁判所は「これほど大それた殺害計画を実行するのは組長の了解なしにできることではない。それがヤクザの行動原理であり、本件には黙示の共謀が認められる」と認定して、実行犯より重い刑を親分にうつだろう。
この考えは司忍、桑田兼吉両組長及び瀧澤孝総長の有罪判決に既に見られる。宅見勝暗殺後の三人に対するけん銃所持事件で裁判所が採用するようになった理屈だ。親分たる者「若衆がガードのためにけん銃を持っていることを知らない訳がない」と決めつけ、それが「ヤクザの行動原理」であると言うものだ。
当時の司さん、瀧澤さん、桑田さんと言えば山口組の屋台骨のような中心に居る大物だ。そんな大物が警察にとってまことに都合良く最高のタイミングで犯罪を犯す訳がないのに現に捕まっている。事件当時三人共若い衆がけん銃を所持していた事実など知らないのだ。それでも裁判所は情況から「共同して所持していた」ことにしてしまった。
もし今回の分裂が抗争状態になって、どこかのヒットマンが相手組織のトップを撃ったとしよう。攻撃側のトップが仮に知らなくても、「傘下の組織で暗殺隊が編成されたことは抗争状況下には起り得ることであり、被告人においても認識し得る」と認定される。それがヤクザの行動原理であり、先のけん銃所持事件と理屈は変らないからだ。
実際問題としてもヒットマンを走らせた組の上層部が計画を知らない訳がない。相手組織トップの命を狙うのは単独犯や思いつきでできることではなく、背後に組の強力なバックアップが無いと、目標に近づくことすらできない。そもそも日本のヤクザは短銃一つで厳重なガードに守られた人物を狙うのだから物理的に無理がある。竹中四代目や宅見組長が殺された時は本人と周りに油断があって、とんでもない結果になった。
今の刑事裁判はヤクザが何を言っても通用しない。無罪の主張など弁護士の懐を肥やすだけで何の慰めにもならない。司、瀧澤、桑田ら三組長の有罪判決は捜査当局には画期的新解釈と言って良く、将来に大きな影響を残すだろう。
ヤクザ抗争は両当事者の組と、警察の三つ巴のバランスで推移するものだが、今は警察の力が圧倒的に強くなっている。組を挙げての抗争などそもそもできない。
ちなみに使用者責任と言う言葉はヤクザも使うが、ヤクザ流の解釈としては、抗争で末端組員が発砲した場合、トップまで責任をとらされるという意味で考えられており、刑事責任を問われるというニュアンスだ。
だが使用者責任とは民事責任のことで、発砲によって人を殺した場合等、損害賠償義務が親分にまで及ぶという意味である。懲役刑が及ぶという意味ではないのに、抗争が組ぐるみになると組長も刑事上連帯責任をとらされそうな誤解がある。
思えば五代目山口組組長の渡辺芳則さんは二〇〇四年この使用者責任で気を病んでしまった。その年の四月、改正暴対法が成立し「抗争に巻き込まれた被害者は上部団体トップに損害賠償責任を問える」と法律で明記された。さらに同年一一月「警察官誤射殺」事件の民事裁判上告審で最高裁が上告を棄却し、渡辺五代目の使用者責任が確定した。
渡辺さんは入れ墨を入れたことが原因でC型肝炎を患っており、治療薬の副作用で不眠症に悩んでいた。睡眠薬の飲み過ぎで判断力が低下していた。そんな時かねがね情報をもらっていたある刑事から「使用者責任が刑事裁判でも認められる法律ができますよ」と耳打ちされ、これを信じてしまった。法律ができればトップの組長たる者、傘下組員の不祥事を次々と引責して永遠に刑務所から出られない。組長などやってられない。
思い詰めた渡辺さんは山口組の全ての行事が嫌になった。とうてい執務につける状況ではなくなってしまい、執行部はやむを得ず一一月に緊急直系組長会を開き「五代目休養宣言」を発したのである。親分の休養宣言など前代未聞、結局その年の事始めは中止、翌年恒例の誕生会も中止され、司六代目誕生へ向け一気に政局は動いた。ヤクザにとって使用者責任という名の連帯責任がいかに恐ろしいかである。
抗争を封じ込めるには「抗争における下部組員の発砲は組長にその責任が及ぶ」「下部組員とは破門、絶縁等の処分を受けて五年以内の者を含む」という法律でも作れば、いっぺんに収まる。五年以内を入れておくのはヒットマンとして走らせる時、事件の直前に破門して組員ではないと偽装するからである。
抗争での発砲は当該組のため、即ち組長のためでもあるのだから、組長は刑事上責任を取るべきと言えば言えなくもない。既にちまたでは使用者責任がそのように誤解されている。ヤクザの息の根を止める法律を作ることは可能であり、所詮ヤクザ組織は国家権力の目こぼしの中で生きているにすぎない。
目こぼしされている理由は生かしておいた方が良いと思われているからで、例えば売春業を見ても判るが、日本では違法なのに各都道府県で目こぼしされて商売が存在する。しかも違法なのにかなり大きな資本投下の店舗が見られる。つまり売春業は安心して継続し得る違法業種なのだ。ヤクザも必要悪とされる意見があるのだから、売春業を見習って安心して渡世を張れる優等生にならなければならない。国民や権力から嫌われたら存続できない。なのに昨今のヤクザは嫌われ追い詰められて「絶滅危惧種」と言われている。若者に全く人気が無く若い人が就職して来ない。
思えばその昔一九六四年、暴力団に対する第一次頂上作戦が始まった頃は、ヤクザ人口が史上最大にまで膨らんだ時代だ。第一次頂上作戦は猪野健治氏の著書に詳しいので要約、引用させていただくと、それは日本の刑事警察始まって以来の暴力団殲滅大作戦だった。二年足らずの間に検挙した組員は延べ一七万人、解散、離散した団体は七〇〇団体に及ぶと言うから、警察がその気になればすさまじいものだ。
広域七団体中解散しなかったのは田岡一雄三代目山口組組長だけだった。その田岡でさえ盟友に去られ、正業から身を引き、組の主要幹部、古参のことごとくが逮捕され、心身共に満身創痍となっている。それでもなお兵庫県警は病床の田岡を四つの容疑で追い詰めた。
ここまで国に嫌われた原因はヤクザが勢力を伸ばし過ぎ、遂に政治にまで口を出したのが理由である。六三年松葉会、住吉会、国粋会、錦政会、東声会、義人党、北星会の七団体名で自民党の衆参両議員の自宅に「自民党は即時派閥争いを中止せよ」とする警告文が送られた。この警告文は中立の立場ではなく、河野一郎を擁護する内容になっておりヤクザが自民党の選挙に口を出していた。しかも背景に暴力の臭いをさせながらである。
いくらヤクザが暴力の専売特許を持っていると言っても国会議員に圧力をかけたのはやり過ぎだ。政府の怒りを買って徹底的に弾圧を食らった。今回の分裂も警察の出方次第では鎮圧も可能で、分裂したら必ず大抗争になるというものでもない。
当事者である六代目執行部も神戸山口組の執行部も警察の顔色をうかがいながら加減を取っており、マスコミにあおられて動くほど単細胞ではない。
確かに六代目側にすれば盃を放棄して勝手に組を割った人間が、同じ代紋を使って渡世を張る等天地がさかさまになっても容認できない。
だからどうすると言われたら、やることは一つと答えざるを得ない。「誰がやるの」となれば「そりゃー名古屋でしょう」となってしまう。今回の分裂は山一抗争と違い皆んなでやるムードがない。だからそういうことは傷口を広げるので口にしない。
出た側にもあんなにまで身命をなげうって六代目体制作りに励んだのに、と評価される人がいる。当時と今は考えが全く違うということになるのだが、何の総括もなく盃をほったらかしにして「やめました」ではあまりに収まりが悪いと思う。極道の盃はもっと真剣な契りだったはずだ。
分裂後六代目山口組に残っている一般直参組長の感想は「親方が勝手に割って出たら若い者が可哀想」と言うのが多くの意見だろう。山口組から離れ一から代紋の権威を築いて行くなど事実上、今は不可能である。
過去の例からすれば新組織はいずれ頓挫し組員達が元のサヤに戻る可能性が考えられ、その間殺したり殺されたり、食うや食わずで肩身の狭い思いをしながら挫折を味わうことになる。懲役に行かず生き残れて元の山口組に戻れたらラッキーだろう。
例えば四代目誕生前の山口組大分裂だが、この時は組員達にまだ選択の時間があった。当時私が顧問をしていた小田秀組でも一和会に参加しようとしていた小田秀組長に配下が反対した。かなり騒然とした組内だったのをよく覚えている。結局小田秀さんは皆んなに反対され組員に出て行かれて、一和会結成の記者会見に参加しなかったし、我が身は引退せざるを得なかった。
司六代目の弘田組も同じだ。組長が一和会に行こうとしていたのを六代目が阻止した。余談だが小田秀親分は若衆が離れてしまい、仕方なく貸金の回収方法を私と二人で相談したことがある。
ヤクザもトップになると実質はヤミの貸金を収入源にしている人がいる。しのぎの元手をヤクザに貸すのだが、貸す親分の座布団と組員あっての貸金業で、両方無くしたら金を返すヤツがいない。ドライなものである。
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