3・11を「調べ直す」 震災後1年間に何が起きたか
震災と大津波、原発事故という「複合災害」の中で人々は何を経験したのか。3。11のルポと全体像。

「地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」

(梶原寿子さん、七七歳)

1章 無明の大地

1 被災地へ

上空から見た爪あと

 東日本大震災から一週間後の二〇一一年三月一八日、小型ジェット機で上空から被災地を見た。その翌日から一週間、陸路で被災地を回った。東京からの全走行距離約二三〇〇キロ。途方もない災厄に、戦慄した。

 上空から見るのは、鳥の目で俯瞰し、被災の全体像を知るためだった。事故が起きた福島第一原発の西方五〇キロを北上し、仙台へ。浸水した仙台空港では格納庫から流れた飛行機やコンテナが散乱し、いたるところに車が転がっている。平野が陥没したため、水が引かず、海と陸の区別がつかない。多賀城市、東松島市、石巻市。どこでも大きな船が陸地奥にまで乗り上げ、白い横腹を見せている。橋は流され、橋脚しかない。流れた家屋が凄まじい水圧で押し上げられ、幾重にも積み上げられ、ひしゃげている。

 だが陸前高田市から、景色が一変した。何もない。孤立したコンクリート造りの建物以外、ただ泥土と水。何もない。

 血の気がひいた。

 北上山地が断崖となって海に落ちる三陸海岸は、津波の常襲地帯だ。すぐ先が深海のため、遠地の地震が津波になって増幅する。ノコギリの歯のように屈曲したリアス式海岸の地形で津波の水位が急に高まり、河川沿いに陸深く押し寄せる。一八九六年の明治三陸大津波では死者・行方不明者約二万二〇〇〇人。一九三三年の昭和三陸津波では死者・行方不明者約三〇〇〇人。かつて被害が大きかったのも、その特異な地形ゆえだ。

 だが大船渡や釜石の湾口には堅牢な津波防波堤がある。過去二度の津波で壊滅した宮古の田老地区も、高さ一〇メートル、総延長二・四キロの二重の防潮堤で守られているはずだ。

 その願いも裏切られた。防波堤をあっさり越えた津波は、地上の人々と建物をなぎ倒し、引きずり去って、跡形もない。時速三六〇キロの飛行機で一時間二〇分をかけて北上する間、一言も発することができなかった。

 一九九五年の阪神大震災でも初日に神戸入りし、翌日にヘリで上空から取材した。その後一年余にわたって現地を取材し、雑誌「アエラ」(朝日新聞)にルポを連載した。

 だが今回は、あらゆる面で規模が桁違いだ。阪神では「震災の帯」と呼ばれる長さ約二〇キロ、幅約一キロの都市部の激震地帯に被害が集中した。今回は、長さ五〇〇キロにわたる沿岸に、マグニチュード(M)90のエネルギーが放出された。阪神大震災の一四五〇倍である。もともと高齢化が進む過疎地。しかも被災した都市や集落は孤立している。いったい、地上で、何が起きているのか。

気仙沼で

 上空を飛んだ日、同僚に頼んでカンパを募り、食糧や水、オムツなど救援物資を買い集めてもらった。被災者へのメッセージも寄せ書きにしてもらった。

 現地ではガソリンが不足し、車で移動できない。緊急車両に指定された車なら、給油しながら移動できる。そう聞いて、取材にだけでなく、車を物資や人の搬送に用立てようと思った。

 東北道はがらがらだった。トラックや乗用車、タンクローリーなど、仙台までに追い抜いた車両は一三六台しかなかった。

 まずい、と思った。これでは被災地向け物資やガソリンだけでなく、仙台など支援拠点への物流や車の動きも停まる。

 翌二〇日朝、岩手県藤沢町に入った。自治医大同窓生と、日本プライマリ・ケア連合学会の合同プロジェクトが立ち上がり、先遣隊が藤沢町民病院に前線基地を設けたと聞いたからだ。

 隠岐諸島診療所の白石吉彦医師と会い、情勢を尋ねた。「情報がない。足がない。それに尽きる」。それが第一声だった。

 陸路、緊急車両で現地入りしたが、応援の医師を山形空港に送迎するのに手一杯で、足がないという。地元の車はガソリン切れで、すべて停まった。

 地元医師は、携帯電話を水にさらわれるか、持っていたとしても通じない。どこで、誰が活動しているのか、わからない。

 白石医師によると、ふつう災害では患者に、救急優先度を四段階の色で示す「トリアージ」判定をおこなう。だが、津波では救急不能の「黒」か、救急不要の軽症を示す「緑」だけ。治療最優先の「赤」や、次に処置が必要な「黄」の被災者がいない。中間の救急医療の必要もないほど、「生と死」の領域がはっきりと切断されている。負傷者が多かった阪神大震災との大きな違いだ。

 白石医師らは、電話会社から現地で通じる携帯二〇台を無償で借り、地元医師に配った。さらに、自ら被災しながら、避難所で医療を続け、燃え尽きそうな地元医師を休ませるプロジェクトを始めた。

 気仙沼の最大避難所、市総合体育館「ケー・ウエーブ」に、当直に向かう内藤俊夫・順天堂大准教授をお連れした。内藤医師は、昼は安置所で遺体を検視し、夜は当直に入って地元医を休養させている。遺体は警察が泥土を清め、医師が見る。半数ほどはポケットに財布があり、身一つで逃げたと知った。

 前夜の災害対策本部では、地元消防団から「遺体収容は、勘弁してほしい」という声があがった。遺体の大半が友人や顔なじみだ。泥にまみれ、砂をのんだ死に顔を見るのはつらい。警察や消防庁が引き受けることになった。灯油や重油がなく、に付すことも難しく、土葬が始まったという話も流れた。

 三連休明けの午前五時四六分に起きた阪神大震災では、ほとんどの人が自宅で寝ていた。生死にかかわらず、家族の安否はわかった。今回の震災は、午後二時四六分。人が活動し離れ離れになっている時刻に起きた。

「お年寄りや子どもを避難させようと車で家に向かい、渋滞に巻き込まれて押し流された人が多い」と内藤医師はいう。

 地震から津波襲来まで約三〇分。それだけの時間があったのに、なぜこれほど多くの人が……。

 私も被災地に来るまで、疑問を抱いていた。だが、気仙沼の場合、内湾から深くV字に切れ込む奥の高台まで、大人が全力で走って三〇分。

 首都圏で今回の地震を経験した人なら、三度の大揺れで一〇分近く、なすすべもなかったことを思い出してほしい。まして親や子を救おうとすれば、自らを顧みるゆとりはなかった。

 避難所の壁に、そうして生き別れた人々が安否を問い、元気を報せるメモがはってある。

──寛子へ 母は助けられ、大沢にいます

──小野寺寛和、真喜代、しづかを探しています

──愛は元気でケー・ウエーブの駐車場にいます

──中華・高橋水産で働いている方、みんな無事ですか? 心配です。いる人は下記へ名前記入して下さい

 その伝言板の傍らで、被災後に再会した人々の声が弾む。

「だいじょうぶだったか、おめえ」

「や、あいつもやられたか」

 そんな声に混じり、寒い体育館で喉をらし、えるように泣く女の子の声が響く。髪や頰が、小麦粉をまぶしたように白く、埃だらけの顔で放心している男性。髪がほつれ、虚脱したように毛布にくるまったままの女性。疲労やひもじさより、愛する人々の喪失で、体の芯が抜かれてしまったかのようだ。

 丘の上にある避難所から、長い坂を歩いて市街地に出る人が多い。ガソリンがないため、肉親を探して、安置所や他の避難所を訪ね歩くしかないのだ。

 この日、私たちと医療救援に入った三阪高春医師は、奥さんが地元に近い出身だった。給油所で働く義理の弟は、やはりガソリンがなく、仕事場までの一七キロを、自転車をこいで通勤しているという。

押し波、引き波

 避難所で、気仙沼漁協水揚計算課長の吉田みちのりさん(五三歳)と会った。地震の時は、内湾に近い漁協ビル二階で仕事をしていた。大津波警報の放送を聞いてすぐに屋上に逃げ、夢中で避難する人々を誘導した。

「私たちは、津波ではまず内湾の水が引き、すっかり底が見えると聞かされていた。実際には、引ききらないうちに押し波が来て、渦になった。遠洋はえなわ船や大型の巻網船などが次々に押し寄せ、タンクも流された」

 夕方、流れ出た重油に火がついた。津波は一〇〇波以上も寄せては返し、そのつど、燃える船が陸地に火をつけて回った。気仙沼は大火に包まれ、震災、津波に次ぐ追い討ちをかけられた。

 吉田さんは自宅、娘夫婦の自宅、父親の実家のすべてを失った。父親は今も行方不明で、毎日安置所を歩いて回る。家族全員、身一つで逃げ、財布以外はすべて失った。全壊しても家財道具を取り出せた阪神大震災とは、そこが違う。被災者は、文字通り無一物なのだ。

 二〇一〇年一二月、『津波災害』(岩波新書)を出した河田惠昭・関西大学社会安全学部長によると、津波は陸地にぶつかって複雑に反射し、何度も繰り返す。深さ五〇センチの波打ち際にいて五〇センチの津波が加わると、速さは毎秒二メートル。体に〇・三トンの力が加わり、立っていられない。東北大の調査では、今回の津波の高さは一〇メートル。「水面全体が一〇メートル上がり、堰きとめられると、運動エネルギーが位置エネルギーになって、水が一気に駆け上がる。局所的には高さ五〇メートルに到達してもおかしくない」

 その言葉に納得するような光景を見た。気仙沼市からくわ地区。平地から二十数メートル高台の電線や木の梢に、浮きのガラス玉や海草がぶら下がっていた。近くの大型スーパーの屋根には、海の怪物が運んだかのように、黄色い乗用車が載っていた。

 近くを、杖をついたお年寄りが通りかかった。梶原寿子さん(七七歳)。「あそこにおったの」と、数キロ先の高台を指した。

「すぐ近くまで黄色い水が押し寄せてきた。すぐ後ろを青い水が追ってきて、大きな家や施設があったのを、静々と持っていったの。大東亜戦争の時よりひどい。地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」

避難所で

 東京から持参した物資はすぐ尽きて、毎朝、後背地で果物や食糧を仕入れ、避難所にお届けするのが日課になった。

 八割近い世帯が水没し、震災一週間後には約一〇〇〇人が亡くなり、一三〇〇人が行方不明と伝えられた陸前高田市。一〇〇〇人近くが避難した市立第一中学校は、訪ねたうち、最も組織だった動きをする避難所だった。

 被災当日には行政区別の名簿を作り、仮設トイレを建て、ロウソクで通路を照らした。二日目に発電機を回して暖をとり、コンビニから寄付されたお握りを支給。四日目からは炊き出しなどで三食をとれるようになった。市職員OBが代表を務め、地区代表、食事班、物品班、医療班、施設管理・電気設備などの組織を作っている。一日三回、定時に記者会見までして、レンタル店員の山崎亮さん(二六歳)がメディアを取り仕切る。

「地区や町内会単位にしたのがよかった。被災者が炊き出しなどでボランティアをして、よく動いています」

 そう語る山崎さん自身、被災者だ。学校裏手の崖下から、父親と二〇メートルを這い上がって助かったが、母安子さん(五八歳)は逃げ遅れた。

 道路の両脇に数キロの瓦礫の山が広がる大船渡市。コンクリートの柱がねじ切れ、中の鉄線がむき出しだ。ソファーや布団、濡れた縫いぐるみのクマ。そのすぐ近くまで、コンテナが迫る。ここではオランダチームが犬を連れて救助活動を続けていた。生存の望みは細りつつある。だとしても、自衛隊が重機で瓦礫を撤去する前に、何とかご遺体を発見したい。大船渡地区消防組合が捜索を続ける。

 津波は道路ひとつを隔てて、大鉈のように生と死、平穏と破壊を断ち切った。大船渡町に住む佐々木正さんの自宅は無事。すぐ前の道路を、横倒しに流れた木造家屋がふさぎ、目の前に二台の乗用車が重なり、電柱にもたれかかっている。

「人が、油断したかな。津波、早かったもの。こんなになって」。前日買った灯油の買い置きがあり、ストーブで暖をとる。ロウソク生活だが、しばし過ごした避難所より自宅がいい。

 雪の降りしきる釜石市では、物資仕分け係の男性が、厚いジャンパー着で足踏みをしていた。市議会事務局長の小林俊輔さん(五六歳)だ。近くの災害対策本部で寝袋生活を送る。海岸から五〇〇メートルの実家は流され、二キロの自宅も二階まで浸水した。

「小さなころから、明治大津波はここまで、昭和津波はここまで来た、と教えられてきた。それを考えて自宅を建てたが、まさかあそこまで来るとは」

 早朝から夜中まで物資の仕分けに追われ、体力も限界だ。「雪の降った日は、凍死するかと覚悟しました」

 小林さんに限らず、避難所を運営するのは、市職員だ。釜石中学校では、統計係長の栃内宏文さん、資産税係主査の松下隆一さんが、不眠不休で五〇〇人を世話してきた。自ら被災者でありながら、公務員であるばかりに、家族のもとにも帰れない。

 兵庫県初の防災監として、阪神大震災の復旧復興にあたった斎藤富雄さんは、現地を視察したうえでこう話す。

「二週間たっても、避難所の環境は阪神大震災の三日目くらい。とにかく人手が足りない。厚労省は、応援保健師らを個別に送っているが、すべて縦割りで、どこにニーズがあるか把握していない。政府が割り振って、全国自治体が個別に、特定の市町村を徹底的に支援する。全国が三~五年支えない限り、被災地が立ち直ることは難しい」

 自然災害では、直近の最大被害を基準に防災対策を立てることが多い。一応の目安に過ぎないのに、絶対安心という「安全神話」が生まれる。専門家にとっては「想定外」であっても、被災した人々はその現実に向き合うしかない。

 まして同時進行している原発危機は人災である。事故は、「想定外」だからこそ起きる。免罪符にはならない。必死で作業に勤しむ人々を励まし、粛々と各持ち場を守るしかない。

 西日本の人々は、阪神大震災や豪雨を経験し、被災地にいる人々の境遇を肌で実感している。この国で、津波被災の実感を欠く真空地帯は、目前の放射線に怯えて萎縮する首都圏だけなのではないか。

 二三日夜、宮古市まで、海岸沿いの夜道をひた走った。前後左右、車のライト以外に、どこにも光はない。横殴りに降る粉雪が、廃墟に積もる瓦礫の山を白紗で覆い、すべては白々としている。これほどの無明を、見たことはなかった。

 明治の三陸大津波の年に生まれ、昭和の三陸津波の年に逝った詩人がいる。後者の災厄の四日後、友人あての葉書きにこう記した。「被害は津波によるもの最も多く海岸は実に悲惨です」。

それでも彼、宮沢賢治が残した「雨ニモマケズ」の詩を心の支えに、被災地の人々は、凍てつく無明の夜に耐えている。

第1章 無明の大地(2)

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