騙すほうも悪いが、騙されるほうはもっと悪い
緊急出版! 第99代内閣総理大臣・菅義偉を知る一冊。秋田から出てきた若者は裸一貫から、いかにして最高権力の座を射止めたのか

 戦後の分岐点となる安全保障関連(安保)法案が混乱を極める国会で成立した、その三日後。二〇一五(平成二七)年九月二二日、安倍晋三総理は母・洋子を伴って静岡県駿すんとうやま町の冨士霊園を訪れ、一九六〇(昭和三五)年に安保条約改定を遂行した祖父・岸信介元総理と父・安倍晋太郎元外務大臣の墓前で、同法案の成立を報告した。八七歳の洋子は岸の長女である。

安保法案の影の主役

 岸の終生の念願は憲法改正だった。しかし、それは並大抵の事業ではないことも岸は知っていた。岸が企図したのは「解釈改憲」だった。岸の言う解釈改憲こそが、今回の集団的自衛権の行使を巡る安保法案の底流にある。それは、『自由民主党党史 証言・写真編』(八七年一月)に収められた岸の言葉からもうかがえる。

「改憲には国会の三分の二を制することが前提となるが、実際問題として三分の二を占めることはきわめて困難だ。まあ、実情に照らして解釈のうえで現憲法を運用していくしかない」

 この時、岸は九〇歳。八七年八月に死去する約半年前の「遺言」だった。

 岸から孫・晋三へと改憲の意志は受け継がれ、二人は「安保」に手をつけ、その大きな改革をやり遂げた。安保法案の成立は、岸を頂点とする一族にすれば溜飲が下がる思いだろう。安倍と洋子は、岸の見果てぬ夢をかなえようと、「次は憲法改正です」と墓前に誓ったのかもしれない。

 しかし実は、安保法案を巡る自民党の主役は安倍ではない。勿論、同法案の最高責任者は安倍だが、六〇年安保を改定した岸に連なる一族を導いた影の主役がいる。内閣官房長官・菅よしひで、六七歳、その人である。菅が傍らにいたからこそ、安倍は総理であり続けることができたと言っても過言ではない。そのことを誰よりも深く知っているのは、他ならぬ安倍本人だろう。

 安倍は二〇一五年一〇月から第三次改造内閣を発足させたが、〇六年からの第一次内閣で、大臣の「政治とカネ」問題や参院選(〇七年)の惨敗、自身の体調(持病のかいようせい大腸炎)悪化などにより政権を放り投げたことはいまだ記憶に鮮明だ。その時、しようすいした安倍に再起を促し、支え続けたのは菅だった。そして安倍は一二年九月の自民党総裁選に出馬し、勝利する。

「俺は、誰も相手にせず、何もない時から安倍さんを支えた。その気持ちは今でも変わらない」

 菅から時に口をついて出る言葉だ。菅だからこそ言える言葉であり、一方の安倍自身、菅が自分を支え続けてくれたことに尽きせぬ恩義を感じているという。菅がいなかったら、安倍は再び総理の椅子に座ることはできなかった。では、なぜ菅は安倍に白羽の矢を立てたのだろうか。

 そこを紐解くことは菅という政治家の卓見に迫ることにもなるが、菅は早くから安倍が持つ独自の強みを見抜いていたと言うしかない。それは菅が、安倍が岸信介に連なる家系の子だということと、自民党を作ったのが岸だということの意味をしつしていたからだ。

 自民党が結成されたのは、六〇年前の一九五五年一一月だ。そこに至る保守合同を主導したのは岸だった。その功績もあって岸は自民党の初代幹事長に就任する。そして岸は、「党の政綱」の中でこううたった。

「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」

 つまり、憲法改正を「党是」に据えたのである。そして五年後の六〇年、総理の岸は安保改定にまいしんしていく。

 岸は、自民党六〇年の礎を築いた、いわばオーナー的存在だ。その孫の安倍は岸の作った自民党の申し子だと、菅の目に映るのは自然だろう。一年も前から菅は、安保法案について「安倍政権でなければできない」と執念をたぎらせていたが、それは岸の孫だからこそなしうる大事業と見越していたからに他ならない。

梶山静六の遺言

 二〇一五年九月の総裁選で安倍は、「私は(衆参)三回、国政選挙で大勝した。それなのに代えるのか。その大義名分は何ですか、という話だ」と漏らしたという。自らの権力に対する傲然たる自信とも言えるだろう。だが、一方で菅はかなり以前から「党内で向かってくる敵がいないんだよな」と物足りなげに口にしてやまない。

 菅は、自民党に権力闘争がなくなぎのような状態であることに決して満足していないように思える。それは、菅の政治家としての原点に総裁選の権力闘争があったからだ。九八(平成一〇)年の総裁選で菅は、橋本龍太郎内閣で官房長官を務めた梶山静六を担ぎ出した。渋る梶山に対し、菅は「政治家は評論家じゃないんですから」と言って口説き、梶山は最大派閥の小渕派(旧経世会)を離脱し総裁選に身を投じた。

 梶山は菅の政治の師匠だった。菅は当時当選一回ながら、梶山選対の事務局次長を担っている。梶山は「死に場所を見つけたよ」と言って総裁選に挑んだ。総裁選とは、政治家として国民のために何をしたいのか、あるべき国家の理想の姿とは何か、自らの政治信条を全身全霊を傾けて発することにしのぎを削る場でもあった。それはもう一面、権力闘争の場でもある。総裁選は権力の正当性を占う試金石であり、総裁選がなければ自民党はせつたくするところがないのである。それを菅はこの時に身をもって知ったにちがいない。

 九八年の総裁選については後で詳述したいが、投票日を翌日に控えた七月二三日、自民党本部八階ホールで立会演説会が開かれた。梶山は党改革、不良債権処理を中心とする金融の健全化などの政策課題を訴えた後、「私なりの人生観を申し上げたい」と、立候補を決断した理由を述べた。これが、今に至るも梶山という政治家を印象づける名演説としてつとに知られる。

「私はお二人(注・小渕恵三、小泉純一郎)と比べますと、年齢は正味七二歳になっております。かつて戦争中、命を懸けても悔いがないという思いで軍籍に身を投じ、敗戦を満州で迎えた人間であります。どんなことがあってもあの戦争だけは避けなければならない、これが私の根幹にあります。

 そして戦後、兄貴と一緒に零細企業をやり、その後、昭和三十年に県会議員に出ながらも、私たちの社会は、国家は、今年よりは来年、来年よりは五年後、一〇年後、間違いなく活力があふれて、豊かで幸せな国になれるということを確信してやってまいりました。しかしこの数年、果たしてこれで良かったのかという反省が湧いてまいりました。

 そして今、目の前を覆う真っ黒な雲、雷雲にも似た悲鳴と実情を見る時に、私の人生は正しかったのか、私の政治活動はこれで良かったのか。五〇年を経ますといろんな変遷がある。しかし、あまりにも坦々たる道を歩んで、その先にある崩落に気がつかなかった。

 先輩・同志の皆さん、お互いに素朴な情感を抱きながら今日まで生きてきた人間であります。私が申していることは、いわば私の政治的な遺言でもあります。これから命を懸けてでも、あるいは途中で倒れるかもしれない、この私の屍を乗り越えて、皆さん方に日本の将来を築き上げてほしい」

 菅は、「梶山さんは国民の食いのために身体を張った政治家だった」と語るが、総裁選の時の「私の屍を乗り越えて」という梶山の遺言が菅の脳裏から消えることはなかったのではないか。

平和主義か憲法改正か

 満州で終戦を迎えた梶山は、再び戦争を繰り返してはならないという平和主義を信念として抱き続けた。これは梶山の偽りない原点だった。

 しかし、その一方で梶山は、自民党の中枢にあって安保を中心とした現実の外交・防衛問題に当たる別の顔も併せ持っていた。梶山は著書『破壊と創造 日本再興への提言』(二〇〇〇年四月)の中ではこう書いている。

「日本の有事となれば、だれしも日米安保条約第五条にしたがって、米軍が出動すると考える。ところが現実には、そのとき、自衛隊が米軍を支援する協定も法律も存在しない。周辺事態が日本有事に発展したとたんに、対米支援のための根拠がなくなるという奇妙な事態になるのである。(中略)

 自分の国を自分で守ろうとしない国を、他国が守ってくれるなどありえない。『われわれには制度、法律の限界があるから、日本のために米国の若者に血を流してほしい』などと、だれがいえるだろうか。

 米国も自国の国益のために日米安保体制を選択しているわけだから、日本人から見れば、ときには『これは米国のための行動だろう』と映るケースもないわけではあるまい。そのとき、われわれは日本の国益に照らして、冷静に総合的な判断を下す必要がある。

 もともと日米安保において、米国は日本を守る義務があるが、日本に米国を守る義務を課せられているわけではない。この片務性に、国家間の約束の基本である双務性を与えるためには、日本よりも米国の利益のほうが大きいと思われる場面でも、国際社会の正義に反しない限り協力していく姿勢が重要だ」

 梶山は、安保条約を前提に、米国は日本を守る義務があるが、日本は何もしなくてもいいのかと、日米同盟の矛盾を突く。──そこには今回の安保法案に通底する主張があり、その考えを菅は、梶山から引き継いでいたと言えるのではないか。

 それを菅に確かめると、彼はボソッと私にこう言うのだった。

「梶山さんと俺のちがいはひとつあった。梶山さんは平和主義で『憲法改正』に反対だった。そこが、俺とちがう」

 憲法改正を訴える安倍を総理に仰いでいるから、菅はそう言うのだろうか。菅は言葉少なに語る政治家であり、そこから本心をうかがうことはむずかしい。その真意はまだ見えてこない。

 吹雪の晩、雪あかりだけを頼りに、外灯もない暗い夜道を歩く人の足跡は、右へ左へとジグザグ模様を描き、真っ直ぐには続いていない。

 菅の足跡も、あの時まではそうだった。秋田の豪雪地帯にある高校を卒業し、上京してから二年、そして大学を出てからも二年、計四年のブランクの間、菅は板橋の段ボール工場や新宿の雑居ビルの飲食店での皿洗いなどに従事し、また電気設備会社に身を置いて働いていた。神奈川・横浜のこのひこさぶろう衆院議員の秘書として仕えたのは二六歳の時である。それから一一年、秘書を務めた後に横浜市議から衆院議員に転身。官房長官として今や誰もが目にする菅であるが、その道程はほとんどの人が知らない。

 政治家になった理由を尋ねると、菅はとつとつと語る。

「秘書になった当時、政治家になろうとか、なれるとかは思っていなかった。ただ、この世の中は、社会は、政治が動かしているんじゃないかと思った。そこに身を置いてみたいと。俺の育った所は出稼ぎの村だった。出稼ぎで家族が離ればなれになる。それが俺は嫌だった。そういう出稼ぎのある社会も結局、政治が動かしているんだと思った」

 いったい、菅義偉という人間は、どこから来た何者なのか。その原動力はどこにあるのか。

 政治によって今の日本をどのように動かそうとしているのか。菅という政治家の本当の姿が知りたかった。

第一章 血涙の歴史の落とし子(2)

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