「微力だけど無力じゃない」 児童虐待を防ぐために
「悪者探し」では、奪われる命を救えない。

序章 社会を揺るがす子どもの虐待死

苦い経験

 いきなり私事にわたって恐縮だが、大学を卒業して京都府職員となり、以後三二年間にわたる全ての期間を、私は心理判定員(児童心理司)や児童福祉司として京都府の各児童相談所に勤務した。そして誘われるまま、児童虐待問題にかかる全国的な研修や研究を行う「子どもの虹情報研修センター」(神奈川県横浜市)で働くことを決めたのは二〇〇六年夏のことだ。児童虐待が社会の関心を集め、児童相談所の取り組みも注目されつつあった時期で、そうした関心に応えるべく、私は児童虐待についての基本を示した岩波新書『児童虐待──現場からの提言』を著したところであり、新たな職場で新しい役割を発揮するよう決意したのである。

 ところがその直後、京都府長岡京市で三歳男児の虐待死事件が発生した。虐待死といっても暴行によるものではなく、満足な食事を与えられず餓死したネグレクトによる死亡であった。本事例に児童相談所が関与していたことがわかると、当該児童相談所には全国各地から一斉に抗議の電話、ファックス、メールなどが殺到し、その数は瞬く間に一〇〇〇件を超えた。ひっきりなしにかかる電話に当該児童相談所職員だけでは応じきれず、同じ京都府の児童相談所で勤務していた私も、応援のために出向いた記憶がある。

 「おまえも一週間食事抜きで暮らしてみろ」

 「職務怠慢だ、即刻辞めてしまえ」

 「花を手向けたいと言ってるのに、この子の住所も教えてもらえないんですか」

 「所長を出せ、所長に直接言わないと気が済まん」

 よりにもよって平成の時代に子どもが餓死するという事実を前にして、多くの人が黙っていられなかったのであろう。

 この事件に衝撃を受けたのは一般市民に限らない。というより、より深刻に受け止めたのが、「児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」(児童福祉法)国や自治体であった。京都府では、こうした事件を二度と繰り返さぬよう検証委員会が立ち上げられ、私も、児童相談所の現状や課題について、検証委員会から二度にわたってヒアリングを受けた。そして提言がまとめられ、京都府は児童虐待対応にかかる体制の充実、強化に注力したのであった。さらに言えば、事件発生から早くも三カ月後、厚生労働省は本事件も念頭に、「児童虐待により子どもの尊い命が失われるなどの深刻な事件が頻発し」と前置きした上で「児童相談所運営指針」を改正し、全国の児童相談所に対応の強化を求めている。

 一つの事件、一つの虐待死が社会を揺るがす姿を渦中で目の当たりにし、命の重みを再確認させられた私は、虐待死をなくすにはどうすればいいのかという問題意識を背負って、横浜にある新たな勤務地に向かったのであった。

 児童虐待について考える上で、また児童虐待対策を考える上で、死亡事例は特別な位置を占めている。今述べたとおり、たった一つの死亡事例が、その後の施策のあり方に大きな影響を与えることもしばしば見られ、時には児童虐待についての社会の認識を変え、時にはソーシャルワークの方法を改めるよう求め、さらには法改正につながることもある。

 とはいえ、児童虐待の存在自体が社会の認知を得るのに多大な時間を要したように、虐待死やその持つ意味を把握し、理解するためには、官民問わず多くの人のさまざまな努力が必要であった。本章では、私たちの社会が死亡事例に対してどのように向き合ってきたのか、また児童虐待対策に対して、死亡事例がどのような影響を与えてきたのか、戦後の歴史をさかのぼって振り返っておきたい。

寿産院赤ちゃん大量殺人事件

 最初に報告するのは、「寿ことぶき産院事件」として知られる赤ちゃんの大量殺人事件である。時は折しも、児童福祉法が施行された一九四八年一月。助産婦の院長と元警官の夫婦が、もらい子を次々に死亡させた疑いで逮捕されたのである。彼らは戦中の一九四四年頃から、養育費を取って多数の赤ちゃんを貰い受けながら、食事も与えず餓死や凍死させていた。一説によれば、貰い子の数は二〇四人、死亡した子どもは一〇三人にのぼったという。夫婦は、配給されたミルクや砂糖もヤミで売って大儲けしていた。

 実は、こうした貰い子殺しは、戦前においては決して珍しいものではなかった。一九三〇年には、東京の板橋で六人の住民が計三三人の子を貰い、一名を除いて全員が「変死」したとされる「岩の坂貰い子殺し事件」が発覚しているし、(戦前の)児童虐待防止法が制定された一九三三年には、五年前に貰い子殺しで有罪を宣告された男が、再び貰い子殺しで逮捕されている。彼は、主人が女中に産ませた子や職業婦人の赤ん坊を、産婆から一人数十円をつけて貰い受け、二五人を殺したのであった。

 それはさておき、『厚生省五十年史』(厚生省五十年史編集委員会編、厚生問題研究会、一九八八年)によれば、「寿産院事件を契機に、「児童福祉施設最低基準」が制定、施行された」という。新しく制定された憲法が基本的人権の尊重を掲げ、「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」(制定時)と謳った児童福祉法施行直後の事件として、やはり、当時の社会を揺るがすものだったのであろう。ただし、こうした大量の貰い子殺し事件は本件を最後に見当たらない。こと貰い子殺しに関しては、戦後の社会情勢の変化などもあって犯罪の基盤そのものが突き崩され、私たちの社会はそれを克服したものと言えよう。

戦後初の「子殺し」調査

 もちろん、それで子どもの虐待死がなくなったわけではない。戦後における子どもの虐待死に関する初の全国的な調査は、厚生省児童家庭局育成課(当時)が一九七四年に報告したものであろう。公表された「児童の虐待、遺棄、殺害事件に関する調査結果」によると、調査対象は「昭和四十八年度中に児童相談所が受理した三歳未満児に対する虐待、遺棄のケース並びに各児童相談所管内で発生した三歳未満児の殺害事件のケース」とされており、児童相談所が調査票に必要事項を記載し、厚生省が集計を行っている。

 なお、「殺害事件」とは「三歳未満の児童が殺害されるか、または、殺害されようとしたもの」と定義されており、それを0-1のように区分けして分類・集計している。本調査結果によると、一九七三年度一年間に殺害された三歳未満の児童は二五一人。加害者は、殺害遺棄の事例では不明が多いものの(七九人)、全体では実母一四四人、実父二八人となっていて(加害者数が被害児数を上回るのは父母がともに加害者となっている場合があるため)、圧倒的多数は父母によるものであった。

図表

 もともと一九七〇年代前半は、「コインロッカーベイビー事件」が社会的な関心を呼んだ時期であった。一九六四年一二月に、日本初のコインロッカーが新宿駅地下に設置され、各地で普及するようになると、それが、嬰児死体を遺棄する恰好の場所として利用されたのである。マスコミ等が注目するようになった発端は、一九七〇年二月、東京都渋谷区の東急デパートに設置されたコインロッカーで生後間もない女児の死体が発見されたことだ(新聞報道によれば、本件の容疑者は、別件で指名手配されていた二一歳の女性とされている)。そして七月には、東武鉄道浅草駅のコインロッカーでも風呂敷に包まれた男児の嬰児死体が発見され、以後、同様の事件が七一年三件、七二年八件、そして七三年には四六件と急増する。厚生省が三歳未満児に限定して調査を行ったのも、こうした社会情勢をふまえ、乳幼児の殺害事件の実態を明らかにする必要があったからであろう。

 一九七〇年代は、コインロッカーベイビー事件にとどまらず「子殺し」の報道が多くなされた時代であったが、こうした事象は、「女性犯罪」「母性喪失の時代」といった論点で取り上げられることが多く、死亡した子どもの立場に立った論考、児童虐待といった観点からの見解はほとんど見当たらない。厚生省の調査自体が、殺害事件とは別に「虐待」という項目を設定しており(該当事例は二四件)、本調査をふまえて児童虐待対策が始まることはなく、児童虐待に対する社会的関心が高まることもなかった。そもそも厚生省の調査自体もこの年限りで終わり、以後、同種の調査は行われていない。

児童相談所の現場では

 ただし、社会的関心の有無とは別に、子どもや家庭からのさまざまな相談に応じている児童相談所にあっては、しばしば深刻な虐待事例に直面し、苦慮していた。そうした状況の一端を明らかにしたのが、大阪市中央児童相談所(当時)が一九八九年六月に発刊した『紀要──特集児童虐待の処遇について』である。当時は児童虐待の統計すらなかったが、過去二〇年間に、虐待その他により児童の福祉を著しく害することから児童福祉施設への入所等が必要であるにもかかわらず、保護者が反対するため家庭裁判所に入所等の承認を求めて申し立てた一三件の事例に加え、援助の過程で死亡した三事例を取り上げ、「このようなケースを勇気をもって提示し、個々の事例の背景や具体的対処の実情、あるいはその問題点等」を振り返り、「児童虐待ケース処遇における検討課題」を提示したのであった。

 本報告によれば、「虐待死した事例は、ともに乳児期に親子分離の経験をもち、後に引き取りとなった乳幼児」であり、「施設から家庭に引き取られた直後から虐待が始まって」いたという。そのうち二事例は、「強引な引取りであったとは言えるが、こうした不幸な結果を予測できなかった、児相の見通しの甘さがあったことは否定できない」と総括されている。

 すでに三〇年以上前の事例ではあるが、現在の課題を考える上でも貴重なものと言えるので、簡単に紹介しておこう。

 その一つ、家庭引取り後に児童相談所が取り扱うことになった事例は、「機関連携がいかに重要で、かつその迅速性が求められているかを示唆している」「長期間面会のなかった父母の強引な引取りであり、虐待事実が判明した時点で、速やかに児相間の連携がすすめられるべきであったし、警察の協力も遅きに失した感がある」とされている。

 また、施設から連れ出したまま死に至らしめた事例は、「面会を繰り返すなど施設の指導に従っていただけに、虐待死を予測することは困難であったかもしれない。暴力的な親の強引な引取り要求に対して、細心の配慮で臨み、親子関係の改善を目指してきた施設関係者の落胆は計り知れないが、こういったもともと関わりが望ましくない親についての対策は、今後法的にも実務的にも具体的対応の検討が急がれよう」と結論づけている。

 最後は、家庭引取り後の虐待に児童相談所が関わりながらも死亡した事例。「(本事例は)被虐待児処遇が一時的な親の改心で解決するものではなく、根の深い決して侮れないものであることを如実に語っている。親が引取るという常識的な安心感があったろうが、引取りについて様々な不安を訴えていた母をサポートし、父や親族に働きかけるなど、ケースワーク機能を充分発揮していたなら、別の展開にならなかったであろうか」と振り返っている。

 虐待統計すらなかった時代、一冊の紀要全部を児童虐待の特集に当て、思い出すだに苦しいはずの虐待死事例を取り上げて総括し、次に生かそうとしているのだから尊敬に値する。実は私は、本紀要の編纂に携わった津崎哲郎氏にインタビューしたことがある。彼は、当時を思い出して次のように述懐した。

 「この冊子はすごい反響がありましてね。全国の児童相談所から送ってほしいという要望が続いて、急遽増刷したんです」(川﨑二三彦・鈴木崇之編著日本の児童相談──先達に学ぶ援助の技明石書店、二〇一〇年

 驚いた。行政機関が発刊するこうした冊子が増刷されることなど、ほとんどないからだ。しかしあらためて考えると、この紀要が発刊された頃というのは、私自身、新人の児童福祉司として初めて虐待通告を受け、まさに命が危ぶまれるような事例への対応に暗中模索、四苦八苦していた時期であった。つまり、児童虐待、虐待死の問題は、社会の誰にも知られず、関心が寄せられることがなかったとしても、全国各地の児童相談所は困難な課題として認識し苦闘を続けていた。だからこそ大阪市中央児童相談所の紀要は、それに応える貴重な冊子として増刷され、多くの児童相談所が参考としたのではないだろうか。

 だが、このような取り組みも注目を集めることはなく、虐待死は依然として社会の片隅に埋もれたままなのであった。

序 章 社会を揺るがす子どもの虐待死(2)

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