「大和は、見る者の歴史観を映す鏡である」
現存の生還者23人に取材した貴重な記録。
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序章 誕  生

秘密裏の進水式

 早朝の軍港に、空襲警報のサイレンと銃声が鳴り響いた。一九四〇(昭和一五)年八月八日、八時前。広島県・呉では各地に憲兵と警官が立ち、市民の往来を規制した。陸海軍合同の、敵の空襲と上陸を想定しての演習である。だが、真の目的は他にあった。

 そのころ、呉湾に面した海軍工廠こうしょうのドックでは前代未聞の巨艦の進水式が始まっていた。巨艦はこの日、艦名が発表された。「大和」である。演習は大和の進水を隠すためのものだった。

 通常ならば盛大な祝いの場となる進水式である。しかも国運を賭けて建造し、帝国海軍の象徴となる戦艦である。相当の華やかな式がふさわしい。昭和天皇の臨席も内示されていた。

 だが臨席は中止。呉海軍工廠造船部長だった庭田尚三の回想によると、「日米間の雲行きもしだいに険悪にかたむいてきたので、本艦の進水の秘匿がますますやかましくなった」(原勝洋編伝承戦艦大和)』)ためだった。進水式は、こうして秘密裏に行われた。

 庭田はこれを悔やんだ。「人の子の誕生は、その一生の幸多かれと、できるかぎりの祝福をしてやるのが親たる者の愛情である。艦船の進水式もこれとまったく同じ意味で、盛大に行なわれるのがふつうである」として、大和の「生みの親として不愍ふびんでならない」と戦後、振り返っている。

「量より質」

 第一次世界大戦の戦勝国であるアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアは一九二二(大正一一)年、「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、戦艦と航空母艦の保有比率を総トン数でそれぞれ五、五、三、一・六七、一・六七とし、さらに一〇年間の建造中止を決めた。のちに「海軍の休日」(ネイバルホリデイ)と呼ばれる時期である。

 続いて一九三〇(昭和五)年にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、巡洋艦などの補助艦の保有比率が米英一〇に対し日本は六・九七と決まり、主力艦建造中止を一九三六年一二月三一日まで延長した。

 大和型建造の検討が本格化したのは、「海軍の休日」の終わりがみえてきた一九三四(昭和九)年である。

 対米英六〜七割の装備を余儀なくされた日本海軍だが、見方を変えればそれ以上の差はつかないことが保障されたことになる。

 しかし海軍に軍縮条約を延長する気はなく、一九三七年からは無条約状態になることが見込まれた。建艦競争となれば、国力で劣る日本は分が悪い。

 そこで海軍は「量より質」を選んだ。日本海軍の中央総帥機関である軍令部、その第一部長だった中沢たすくの回顧によると「既定艦に似ている戦艦を建造すれば、おのずから量的な建造競争を誘発して、わが国にとって、きわめて不利となることは必至とかんがえ」、「他国の追従をゆるさぬ卓越した戦闘力をそなえた戦艦とする。すなわち量的には競争する必要がないものとする」(同前)方針だった。

 軍令部は一九三四年一〇月、艦船や兵器に関する計画、試験、製造などを行う艦政本部に新戦艦の設計を要望した。主な内容は、武装では口径四六センチの主砲八門以上、副砲は口径一五・五センチ三連装(砲塔一基当たり砲三門を装備したもの)四基。防御は二〇〜三五キロ遠方から放たれた敵主砲弾に耐える。速力は三〇ノット(時速約五五キロ一ノットは時速一八五二メートル)、航続距離は一八ノットで八〇〇〇海里(約一万四八〇〇キロ一海里は一八五二メートル)である。

 米海軍は中米のパナマ運河を通って太平洋と大西洋を行き来する。運河の門の幅は約三三メートル。戦艦の最大幅はそれ以下になる。この制限から主砲は四〇センチ程度で、四六センチ砲を搭載することはできない。海軍はそう予想した。

 艦政本部は要求に基づいて研究に着手。二〇種以上の案が検討された。主砲塔の数や配置をどうするか、機関をタービンにするかディーゼルにするかなどの議論を経て、一九三六年七月に基本計画がまとまった。

 しかし海軍内部には、反対論もあった。のちに連合艦隊司令長官として大和の水上特攻を指示した、豊田副武そえむもその一人である。当時、軍備一般を管轄する軍務局長だった。豊田は、巨艦の建造には部品製造で全国の工場がかかわり、また建造には数年かかることから機密保持が難しく、漏れてしまったらアメリカは対応措置をとり、「量より質」の構想は崩れると考えた。

 豊田の回想によれば、ほかにも、①相手は生産力が日本と比較にならないほど大きなアメリカで、巨大戦艦を一隻や二隻建造したところで、すぐに追い越されてしまう、②巨砲大艦一隻の損失は全戦闘力の低下率が大きい、③不死身の戦艦はできない、④建造のために巨額の施設費を余分に必要とする、などといった意見が噴出した。

 豊田は、永野修身おさみ海軍大臣ら上層部に計画撤回を申し入れたものの「軍備計画に大穴があくことになる」と容れられず、「泣寝入り」したという。

 一九三七年八月二一日、海軍大臣から呉鎮守府長官に建造命令が発令され、一一月四日、呉海軍工廠で起工した。当時、大和クラスの大型艦を建造できるのは呉と横須賀の海軍工廠、長崎の三菱重工、神戸の川崎重工の四カ所である。呉は高い技術力と大型施設が集積し、山と海に囲まれた立地で防諜上も有利だった。

 このころ、対外関係は緊張が続いていた。一九三七年七月、「盧溝橋事件」の衝突をきっかけに日中戦争が始まった。翌年一月、第一次近衛文麿内閣は「国民政府を対手とせず」という「近衛声明」を出し、自ら和平の道を閉ざした。七月にはソ連と満州国の国境で日ソ両軍が衝突した(張鼓峰事件)。

 一九三九年九月一日、ドイツがポーランドに侵攻、英仏が宣戦布告し第二次世界大戦が勃発。進水直後の一九四〇年九月にはフランスがドイツに降伏した間隙を狙い、日本軍はフランスの植民地「北部仏印」(現ベトナム北部)に進駐。さらに同月、アメリカを仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟が成立。アメリカは中国を軍事的、経済的に援助する一方、対日経済制裁を強めた。

 当初の計画では、海軍への引渡しは一九四二年六月一五日である。しかし国際情勢の緊張を受け、海軍は再三繰上げを注文した。

 その結果、竣工は一九四一年一二月一六日。計画より半年前倒しとなった。起工から丸四年で、のべ三〇〇万人が動員された。

 費用は、艦政本部が一九三六年にまとめた試算によると、一億三七八〇万円。実際にいくらかかったかは関係資料が焼却されたため不明だが、この試算をもとにすれば、当時の国家予算(一般会計歳出)の六%にあたる。現代の国家予算をもとにすれば四兆円以上である。

世界最大・最強

 竣工時の主要データは、全長が二六三メートル、最大幅三八・九メートル。基準排水量(戦時態勢を念頭に乗員を乗せ兵装弾薬食糧真水などを定量積んだ状態ボイラーで蒸気発生に使う予備缶水と燃料は対象外)六万五〇〇〇トン。

 大和と同時代の一九四〇―四一年に完成したアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア各国の主力戦艦のなかで、基準排水量と大きさ(全長×全幅)が最大なのはドイツの「テルピッツ」で、それぞれ四万二九〇〇トン、二五一メートル×三六メートル。大和はそれをはるかにしのぐ。

 主機械タービンは四基で、出力は一五万馬力、速力は時速約五〇キロ。重油満載量は六三〇〇トン、航続距離は時速約二九キロで一万三〇〇〇キロである。艦橋の最上部は艦底から五一メートル、海面からは四〇メートルもあった。

 艦体は上から順に最上甲板かんぱん、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、船艙甲板、艦底と七層に分かれていた。

 兵装は主砲が四五口径四六センチ三連装砲塔で、三基九門。「四五口径」とは、砲身が口径の四五倍あることを意味する。大和の砲身は約二一メートルである。砲身は長い方が初速が速く、貫徹力が増す。五〇口径とする案もあったが、砲身が重くなりすぎて機動性が劣るため四五口径となった。

 副砲は一五・五センチ三連装四基一二門。この副砲塔は軽巡洋艦「最上もがみ」級の主砲を転用したものだが、防御力が弱く、不安材料の一つとなった。

 対空兵器として一二・七センチ連装高角砲六基一二門、二五ミリ三連装機銃八基二四挺など。

 「大艦巨砲主義」の時代だけに、対空火力である高角砲と機銃の装備が乏しい。開戦後、航空兵力の脅威を悟らざるを得ず、相次いでこれを補強することになる。

 水上機(水上で離発着できる航空機)六機を収納した。乗員は約二二〇〇人である。しかしこれは徐々に増え、最後は三三三二人(副長能村のむら次郎)が乗っていた。一艦で小さな村のようである。

 戦艦の存在価値は主砲にある。前述の五カ国の主力艦の主砲で最大のものは、アメリカの「ワシントン」型が四〇・六センチ砲九門。主砲の威力は口径の三乗に比例する。つまり大和はワシントン型の一・四倍以上である。

 主砲弾の長さは約一・九メートル、重さ一・五トン。一般に砲弾は重いほど貫徹力が増す。砲弾は一門当たり一〇〇発、計九〇〇発が定数であった。砲弾一発を撃つのに火薬三〇〇キロが必要である。約四〇秒ごとに一発撃つことができた。

「アウト・レンジ」戦法

 水平線の向こうにいる敵艦への射撃を各砲塔が各自の判断ですることはない。艦橋最上部にある射撃指揮所と一五メートル測距儀が、彼我の距離や敵艦の針路、速度などのデータを砲塔の下にある主砲発令所に送る。ここで大気の温湿度や風速、砲身の消耗度、使用砲弾、弾薬の種類などの諸データを加味し、砲身の仰角と方向を決める。引金を引くのは射撃指揮所にいる射手である。命中しない場合、着弾地と敵艦の距離を見て、砲身の方向と仰角を調整する。

 どんな巨砲でも、命中しなければ意味は薄い。大和の命中率はどうか。実際のデータは残っていないが、海上自衛隊海将補、防衛大学校教授などを歴任した平間洋一が試算している(平間洋一編戦艦大和』)。

 それによれば距離三〇キロで、米主力戦艦「ミズーリ」級を相手にした場合、大和が主砲弾を敵艦に命中させるまで約五分かかる。全体の命中率は「五パーセント程度」。大和の主砲によって「一〇分間に敵の勢力は半減される」としている。

 主砲塔は一基、実に二七七九トン。駆逐艦一隻分である。水圧で動き、艦底から旋回する砲室までの七階建てで、火薬庫や弾薬庫、給弾室などがあった。

 最大射程は約四二キロ。東京都心から大船、あるいは大阪から京都までの距離に匹敵する。他国の戦艦は四〇キロに届かなかった。計算上、大和は敵艦の主砲弾が届かない距離から、最強の威力を持つ主砲を一方的に打ちこむことができる。「アウト・レンジ」と呼ばれた戦法だ。

 主砲弾には大別して徹甲弾と三式弾がある。

 前者は対艦用で、装甲板を突き破って艦内で爆発する大和の徹甲弾は、砲弾が敵艦の手前に着弾した場合、海中で魚雷のように進むように調整された特別なもので、秘密保持の必要性が最も高い「軍機」扱いであった。

 三式弾は対空戦闘用のものである。あらかじめセットした時間になると破裂し、中の小さな弾丸約一〇〇〇発が、半径二四〇メートルに飛び散るものだ。この三式弾はのち、戦艦「金剛」「榛名」がガダルカナル島を砲撃した際にも使われた。

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序章 誕生(2)

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