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Vol.18 ノンフィクション愛好家urbanseaが選ぶ「クセが強い人物ノンフィクション10作品」

作家、ジャーナリストからもそのツイートが注目されているノンフィクション愛好家のurbansea(アーバンシー)さん。週刊誌の知られざる名作記事、珍品記事、あるいはノンフィクションの古典新作をひたすらに読み続けては発信するurbanseaさんが、SlowNews収録作品から異色で一筋縄ではいかない人物を描く作品を10作品、おすすめしてくださいました。

urbansea(アーバンシー)

ノンフィクション愛好家。『特選小説』に「愛人から覗き見た戦後史」を連載するほか、『おすすめ文庫王国2020』に「漢字2文字タイトルのノンフィクション文庫ベスト10」、『つくるたべるよむ』に「許永中、望郷のグルメ」などを執筆。

Twitterは@urbansea

urbanseaさんおすすめの10作品

高橋ユキ「逃げるが勝ち 逃走犯たちの告白」

金成隆一「ルポトランプ王国2

安田浩一「ネットと愛国」

中村計「クワバカ」

立花隆「田中角栄研究全記録(上)」

青木理「誘蛾灯」

牧村康正+山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男」

尾島正洋「総会屋とバブル」

魚住昭「野中広務 差別と権力」

松田賢弥「したたか」

“異色の紀行もの“「逃げるが勝ち」

 吉村昭は『破獄』『逃亡』『遠い日の戦争』などの逃亡者の作品を残す。読者は登場人物が背負った善悪の向こうにある、孤立した人の姿、社会の歪み、運命のアヤを見る。

 高橋ユキ『逃げるが勝ち 逃亡犯たちの告白』(スローニュースオリジナル作品)もまた、”逃亡もの”である。この連作ルポに収められた「松山刑務所脱走犯の『丁寧すぎる犯行手記』」、「松山刑務所脱走犯の手記『海を泳いで島を出る』」は、2018年に起きた脱獄事件を取材したもの。逃亡した男は、愛媛の「塀のない刑務所」(開放的処遇施設)を抜け出すと、四国から道路でつながる離島の向島に潜伏。さらに瀬戸内海を泳いで広島に上陸を果たした後、逮捕される。22日間の逃亡劇であった。

 高橋は、獄に戻った男と手紙のやり取りをし、逃亡ルートを訪ね歩く。

 面白いのは、向島の住人たちだ。男を「くん」付けで呼び、「あの海を泳いで渡ったんだから大したもんや。ここにおったのは、住み心地がいいからやね。犯人が見てもわかるんじゃ」といった調子である。警察の捜索中も、住民たちは男がどこかでお腹を空かせているのではないか、何か食べさせてあげるから出てくればいいのにと語り合っていたという。また高橋は、男が海を渡ったのは偶然にも月に一度、潮の流れが緩む「潮止まり」のときであったとの証言も得る。

 こんなふうに島の風土や、そこに生きる人たちの姿が描写される。だから“異色の紀行もの“ともいえる。

 くだんの事件もストレートニュースからはステロタイプの感想しか出てこないだろう。「脱獄事件、怖い」「泳いで海を渡るって、すごい」と。その向こう側にあるものを読む。これがノンフィクションを読む醍醐味だろう。

取材という「短い出会い」が味わいを出す

 このようにノンフィクションは当事者の話を聞くことで先入観をぬぐい、人の本性や習性、社会の実相を露わにしていくものが多い。続いては現場で話を聞いて回ることに重点が置かれたものを紹介する。

 金成隆一は新聞社の記者として、トランプ大統領を生んだラストベルト(さびついた工業地帯)を取材してまわり、何冊かの書籍を著す。なかでも面白いのは『ルポ トランプ王国2だ。日本には、トランプ支持者に対して「どうせ、こういう人たちだろう」との思い込みがある。あるいは〈トランプには懲役忌避した過去〉があるから、〈ベトナム戦争などの帰還兵はトランプを支持しない〉のではないかなどと図式的に考えてしまいもする。しかし人間はそう単純ではなく、もっと複雑なものだ。本作はその複雑さを通じて、アメリカ社会を描き出す。

 トランプの大統領就任式に招待された女性は、20年ぶりにドレスを着る。それは高校のプロム以来のことであった。そんな彼女の人生にとってトランプはなんなのか。あるいは帰還兵はなぜ一般に比べ、トランプ政権を高く評価するのか。金成はバーやダイナー、帰還兵病院などに足を運んでは、いろいろな人たちにトランプに対する心情と、その背景にある生活やこれまでの人生を聞いてまわる。こうした「短い出会い」からにじみ出す滋味、これが本書の魅力である。

 安田浩一『ネットと愛国』は、在日韓国・朝鮮人への攻撃的なデモを行う在特会を書いたもの。彼らに対して、多くの者は見て見ぬ振りをし、小賢しい者は論じるに値しないものだと軽視した。しかし安田はそうでなかった。デモの現場に出かけは、彼らに罵声を浴びせられながらも執拗に取材する。あるいが参加者たちを訪ね歩いては、話を聞くことを重ねていく。もちろん攻撃に怯える人たちの声もだ。

 こうした真っ向からの取材によって見えたものは何か。

 作中、「在特会だけが僕を日本人として認めてくれた」と言い切る者が出てくる。日本人とイラン人の両親の間に日本で生まれたが、「この外見のせいで」日本人と認められずに生きてきた青年だ。「安田さんもそうですよね。僕がまず、ハーフであるかどうかを聞いてきた。僕はいつも、そこから答えなければならないんです。子どもの頃からずっと」と語る。この青年の言葉が、安田に、そして読む者に突き刺さってくる。

 在特会とは何かと聞かれたら、安田は「あなたの隣人ですよ」と答えるという。日常に潜む偏見や憎悪を増幅させて顕在化したのが彼だからだ。すなわち誰しもが世間の成員として、差別主義、排外主義と地続きでいるのである。

 強烈な当事者が次から次へと出てくるのが中村計『クワバカ』だ。本作品はクワガタに人生を捧げた者たちを取材したルポである。クワバカのひとりはこんな言葉(書籍版の帯にも使われている)を吐露する。「(クワガタ採集の)あまりの衝撃に、ドロップアウトしちゃったんですよ、人生を。予備校も通ってましたが、途中から、ほとんど行かなくなってしまいました。とんでもない人間なんですよ、僕は」。太宰治や葛西善蔵といった破滅型の私小説に通じるものがある。

 本作は、いわばバカへの讃歌だ。中途半端に生きるよりほかない自分の平凡さを噛み締めながら、好きの熱量を狂気の領域にまで高め、それを保ち続ける者への憧憬が読後に残る。

田中角栄年表の「空白」を埋める、隠れた秀作

 立花隆は、なにかの取材を始める際、人物などの年表をつくることを勧めている。均一な時間軸でそれをつくると「空白の部分がたくさん生じてくるだろう。その空白にも意味がある。年表を見ているとその意味がやはり見えてくる。あるいは、空白を見ているうちに、ここは空白であるはずがないと思う場合がある」(『「知」のソフトウェア』)。

 なにも書き込みがない期間――その空白のときとは、何者でもない者が何者かになろうと煩悶していた時期だったかもしれない。あるいは表沙汰できないことをしていたのかもしれない。

 立花の『田中角栄研究全記録(上)』に収められた「戦中~戦後期の田中角栄」も、空白期を書いたものといえる。立花は、田中の自伝くらいからしか窺いしれない、すなわち彼の自己申告でしかわからない期間を取材して洞察し、そこから田中のその後の人生を支配するものを見つけ出す。どこか松本清張的で、面白い。

 年表の空白を事件が埋めていく。青木理『誘蛾灯 鳥取連続不審死事件』はそんな犯罪ノンフィクションだ。2009年に発覚した事件を捜査するうち、容疑者として浮上した女の周辺で6年のあいだに複数の男が不審死していたことがめくれ出る。その男性たちの多くは、女の勤めるカラオケスナックの常連客で、彼女を「援助」をするなどしていた。

 疑惑の女は5人の子をもつシングルマザー。男におごらせるといっても高級レストランではなく国道沿いのファミレスや焼肉店。貢がせたカネで買い物をするといってもブランド品を買うわけではなく、格安量販店やコンビニで大量買い。それらも女のゴミ屋敷のようなアパートに埋もれていく。――こうした女の散財ぶりを、青木は疲弊し切った地方の心象風景のように捉えていく。そんな本作品を読み進めるうち、誘蛾灯に吸い寄せられた男をからめ取る、嘘と欲情の糸がもつれるようにしてできた人間模様が読む者の前に現れてくる。

「愛とロマンと冒険なんて語ってた奴が、裏では銃刀法違反と覚せい剤だ」

“アウトローもの”のノンフィクションの面白さは、一世一代で成り上がっていくがゆえの劇画的な過剰さと、身ひとつで生きていくがゆえの、人対人の機微に通じる様にある。

 牧村康正+山田哲久『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』は、映画のエンドロールで「製作総指揮」を初めて名乗った男の評伝。映画の世界では、大げさな肩書の者ほど何もしていないものだ。だから一見、見栄と虚飾のそれに思える。しかし西崎はほんとうにすべてに関わり、すべての責任を負った。西崎がそこまでやれたのは狂気によってであり、そこまでになれたのは悪党だからである。

 テレビ局や映画会社は番組枠や映画館を抑えていることを強みにして、制作会社から旨みを横取りする。しかし西崎は独立系プロデューサーとして、それを突っぱね、さらに映画も当てて大儲けする。それだけをいえば英雄である。しかし「自分のフトコロで勝負」する器量は、厚顔無恥の人柄と背中合わせにあった。豪遊するが支払いはケチるような性格で、トラブルも絶えず、彼によって人生が破綻した者は大勢いる。

 没後、「愛とロマンと冒険なんて語ってた奴が、裏では銃刀法違反と覚せい剤だ」と元盟友は罵り、一方で「なにもかも嘘だらけの西崎さんですが、『ヤマト』への愛情だけは本物だったのでしょう」と彼の会社にいた者は述懐する。

 こうした強烈な正邪の二面性が、彼のバイタリティの源泉であったのだろう。

ソニー株主総会の「しびれるような逸話」

 尾島正洋『総会屋とバブル』は新聞社の社会部記者だった者によるもの。総会屋は有価証券報告書からスキャンダルまで調べあげて、掴んだ弱みをネタに便宜供与を求め、企業は株主総会で暴れられると困るのでそれに応じる。そんなふうに、企業の組織防衛が同時に宿痾を育て、ときに事件として表沙汰になる。本作はそうした総会屋の生態と事件簿による戦後資本主義裏面史だ。

 ここには総会屋たちの栄枯盛衰のみならず、彼らとの交際費に7年間で10億円を使った大物総務社員や、総会屋との付き合いを断ち切ると宣言したソニーの13時間半も続いた株主総会(全国から総会屋が集結して妨害するが、ソニーの根性に感服したのか、総会屋のほうから議案審議の提案をし、最後は拍手のうちに終わる)など、しびれるような逸話が詰まっている。そうしたなか、こんな言葉もある。

「今でも昔でも、対等合併というと聞こえはよいが、実はそれぞれ出身企業の派閥が温存されてしまうから、こういう企業はいつまでたっても派閥争いが絶えないものだ。(略)社内で派閥争いがあると、不祥事などの情報が漏れてくるから、総会屋にとっては“良い会社”と言える」――総会屋による第一勧業銀行(現在の、みずほ銀行)評だ。

 こうしたアウトローならではの含蓄のある見識も、ノンフィクションの魅力のひとつだろう。

「梶山静六」で検索すると

 ノンフィクションはジャンルの特性として同じ人物が複数の作品に登場する。そのため作品と作品が勝手に結びついていく面白さがある。スローニュースの検索機能は、そのための機能とも言えるようか。試みに「梶山静六」で検索すると、魚住昭『野中広務 差別と権力』と松田賢弥による菅義偉評伝『したたか』が出てくる。

『野中広務 差別と権力』は、講談社ノンフィクション賞を受賞するなど、政治家の評伝として高く評価され、また麻生太郎による野中への差別発言の出典として取り上げられることが多い。しかし本作の真価は、今に続く自民党と公明党の結託の始まりが書かれることだ。

 90年代半ば、自民党は公明党(公明)を揺さぶろうと、支持母体の創価学会への攻撃を始めた。そのとき、野中は学会の施設内で池田大作が外国の要人と会見する写真に目をつける。それが載る機関誌を創刊号から調べ上げ、背景に映るルノワールやマチスなどの高価な絵画を資産リストと突き合わせては届け出漏れを見つけ出していったのである。あるいは公明党の幹部が暴力団組長と密会するビデオを手に入れる。そうこうするうち、野中を恐れた公明党は、彼にすり寄っていった。

 こうして彼らとのパイプが出来た野中は、自民党の重要法案への協力を公明党に求め、その見返りに彼らが主張する商品券のバラまき(地域振興券)を呑む。このとき、野中は自民党の若手議員を前にこう言い放ったという。「天下の愚策かもしれないが、七千億円の国会対策費と思って我慢してほしい」。これがやがて自公連立につながっていくのである。

 野中は今日、「信念の政治家」などと持て囃されることが多いが、果たしてそうなのか。

 こうした野中を、くだんの梶山は次のように評する。「お前ら、見てろよ。小渕内閣は必ず公明と組むぞ。その窓口には野中がなる。あいつがみんな牛耳るんだ。公明票がなければ当選できないから、みんな野中に頭を下げなきゃならなくなる。だからこれから野中が政界を支配する時代がつづく。そうなったら自民党は国民から見放されてしまう」。

 この梶山の予言は、森内閣によって証明される。野中は自民党幹事長として、歯向かう者を恫喝しながら、不人気を極める森政権を支えるのであった。

『したたか』は、この梶山や野中らをからめながら菅義偉を書いた評伝である。竹下派内で梶山と野中が対立するなか、菅が梶山についたため、野中は「菅だけは絶対に許さない」と公言する。こうした往時の大物と一年生議員時代の菅の関わりが読みどころである。

 ここに梶山の森喜朗評が登場する。「政治は結果責任なんだが、誰も責任を取らなくなっている。そういう点では森さんは天下一品だ。彼はいままで責任を取ったことがない。いつもこれから全力を尽くすと言うばかりだ」というものだ。

 20年以上前のこの言葉は、年月を経れば経るほど説得力を増していくが、当選を重ねてすっかり永田町になじんでいった菅には、この師の言葉はどんなふうに響くのだろうか。

 登録作品が増えていけばいくほど、検索機能による発見が生まれよう。たとえば山際淳司『江夏の21球』収録の同名短編を、キャッチャーの視点から書いた「水沼四郎の21球」(織田淳太郎『捕手論』に収録)というものがある。後者はまだここにないが、前者を読んだ者が「江夏豊」で検索して後者を発見する。

 あるいは瀬島龍三のような、断片の集積でしか全体が見えてこない人物がいる。「瀬島龍三」の検索結果で出てきた作品群を読み進めるうち、新たな瀬島龍三の姿が読者の前に立ち現れることもあるに違いない。

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