日銀前総裁・白川方明が語る、「中央銀行とはなにか」
1972年に日本銀行入行後、セントラルバンカーとして過ごした39年を振り返りつつ、日本銀行のみならず中央銀行という存在自体の意義や役割を論じる書。

1部 日本銀行でのキャリア形成期

1章 日本銀行でのキャリアのスタート

 1972年に私は日本銀行に入行した。以来、39年という職業人生活の大半の期間をここで過ごし、多くの良き先輩、同僚、後輩に恵まれた。どの組織でも同様だろうが、キャリアの早い段階で仕事の進め方を学ぶことは重要である。私の場合、経済理論を重視する、実務家とのコンタクトを重視する、銀行の実務を出発点に考える、グローバルな関係を大事にすることなどの重要性を学んだ。若い頃に学んだこれらのことは、私がのちに理事や総裁として仕事をする際の指針ともなった。

経済学との出会い

 19723月、私は東京大学経済学部を卒業し、41日に日本銀行に入行した。この年、大学を卒業して日本銀行に入行した同期生は総勢30名。就職先として日本銀行を選んだ理由のひとつは、大学で学んだ経済学を何らかのかたちで活かせる公共的な仕事に就きたいという漠然とした思いからであった。

 経済学との出会いはまったくの偶然である。684月に東京大学に入学した時は、法学部に進学するコースである文科一類に入ったが、入学後間もない6月に全学学生ストライキが始まり、翌年2月までの長期間にわたり授業がまったく行われない状態が続いた。そうした時、クラスの友人であった黒田康夫(故人。大蔵省に入省)にサムエルソンの『経済学』を読む読書会への参加を誘われた。サムエルソンは70年に第2回ノーベル経済学賞を受賞した世界的に著名な経済学者であり、この本は何十年にもわたって世界中の多くの国で読まれた標準的な経済学の教科書である。読書会には、東京大学教養学部の村上泰亮助教授(故人)という、新入生にはもったいない立派な先生がほぼ毎回指導に来てくださった。その読書会に参加して経済学の一端に触れるうちに、次第に経済学に興味を持つようになった一方、本来専攻するはずだった法律学には一向に興味が湧かなかった。進学すべき専門課程を決めなければならない直前に、思い切って村上助教授の研究室を訪ねコース変更について相談したところ、「ヒックスの『価値と資本★1』を読んでおもしろいと思ったら経済学部に進んではどうか」という助言をいただいた。ジョン・ヒックス(72年にノーベル経済学賞を受賞した英国の経済学者)の本は初学者がすべてを理解するには難しい内容であり、実際、全部を読み通せたわけではなかったが、論理の展開を美しいと感じた。その結果、専門課程では経済学部に進むことを決断した。

 東京大学の経済学部では、伝統的にゼミナールが大きな役割を果たしている。私は3年生の時は米国から帰国して間もない浜田宏一助教授のゼミに参加したが、4年生の時は先生がMIT(マサチューセッツ工科大学)での研究のために渡米されたことから、小宮隆太郎教授のゼミに参加した。お二人には学生時代に大変お世話になったが、特に小宮教授からは卒業後も圧倒的に大きな影響を受けた。当時の日本ではマルクス経済学の影響が強く、近代経済学(今では死語に近い用語であるが)による現実の経済の分析や政策提言は少なかった。そのような状況にあって、小宮は標準的な経済理論を使って日本が直面する現実のさまざまな経済問題を鋭く鮮やかに分析し、政策提言も行っていた。「通念の破壊者」とも呼ばれ、その論理展開は非常に明快であり、現実の経済におけるさまざまな事実を細部まで踏まえたものであった。学生時代に小宮の多くの著作を読んだが、経済学とはこんなに切れ味が鋭いものかと興奮した。最も興味を覚えたのは国際金融である。ブレトンウッズ体制崩壊直前という当時の時代環境もあって、小宮のこの面での一連の論文は特に強く印象に残っている★2。当時は、日本国内では貿易黒字が拡大する中で1ドル360円の固定為替レートの切り上げの是非が論じられ、また、世界に目を転じると、望ましい為替レート制度のあり方が活発に議論されていた時期であった。

 教師としての小宮は近寄り難い「恐い先生」であり、ゼミでは他の多くの学生と同様、しばしば厳しいコメントをいただいた。学生時代に小宮から学んだことは数多くあるが、経済理論にもとづいて論理的に考えること、事実を細部に至るまできちんと調べること、明晰な文章を書くこと、この3つを徹底的に叩き込まれた。

日本銀行入行

 日本銀行に就職することを決めたもうひとつの理由は、採用面接で最初に会った日本銀行の担当者が魅力のある方だったことである。もし別の人に出会っていたら、日本銀行には入行せず、私の人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。

 日本銀行での最初の配属先は外国局(現・国際局)総務課調査係という部署であった。この部署の最も重要な任務のひとつは、IMF理事会の議論をフォローすることであった。IMF(International Monetary Fund: 国際通貨基金)は1944年に米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズで開かれた会議で創設され、日本も52年に加盟した。日本は大蔵大臣(現・財務大臣)が総務として、日本銀行総裁が総務代理として参加している。日常的な決定はワシントンの本部での理事会で行われており、その理事会に提出される膨大な資料が日本銀行にも送られてくる。

 当時の重要なテーマは国際通貨制度の改革であった。国際通貨制度自体は大蔵省の管轄であったが、日本銀行も中央銀行の立場から議論をフォローしていた。国際通貨制度に関しては、私が日本銀行に入行する前年の718月に世界中に激震が走った。いわゆるニクソン・ショックである。これにより、ブレトンウッズ体制が崩壊し、円を含め主要国通貨は変動相場制に移行した。同年12月には多角的な為替平価の調整を目的とした、いわゆるスミソニアン合意が成立し、円の対ドル為替レート平価は戦後長く続いた360円から308円へと、1688の切り上げが行われた。

 私が日本銀行に入行し、よちよち歩きながら仕事を始めたのは、そうした決定が行われた数カ月後のことであった。もっとも、仕事といっても新人に割り振られるのは補助的な作業であり、朝一番の仕事は前日の主要通貨の為替レートの変化を表にするという単純なものであった。当時の記憶で鮮明なのは、西ドイツ、フランス、イタリア等、欧州6カ国の為替レートの変動を一定範囲に収める、いわゆる「スネーク」が726月に始まった時のことである。大学で国際経済学を学んだばかりの人間にとっては、各国の物価上昇率に格差が存在する中で、固定為替レートの枠組みにトライすることは無謀なことのように思えた。事実、「スネーク」は失敗し、その後も同種の仕組みに何度もトライしては失敗するというプロセスを繰り返した。しかしそのような紆余曲折がありながらも、92年には欧州通貨統合に向けたマーストリヒト条約が調印され、99年にはユーロが発足する。発足後10年近くは当初の予想に反してユーロは成功するが、2010年以降、欧州債務危機が深刻化する(詳しくは11章「欧州債務危機」を参照)。しかし、1972年の時点では、その後の曲折は知る由もなかった。

 外国局調査係で約半年を過ごした後、今度は、同じ外国局の中で日本の外貨準備の運用にかかわる事務を担当する業務課運用係へ異動した。当時の日本の外貨準備は急増していたとはいえ、723月末で167億ドルにすぎず、1兆ドルを超える今日の外貨準備高から見ると、じつに少額であった★370年代初頭までの国際通貨制度は、金に交換できる米ドルに対し固定為替レートを設定し、国際収支の「基礎的不均衡」が大きくなった場合に固定為替レートを調整するという枠組みであり、管理通貨制度としてはまだ中途半端であった。今日の目で振り返ってみると、私が日本銀行に入行した時は、まさに先進国が望ましい通貨のコントロールを人智に委ねる管理通貨制度に全面的に乗り出し始めた時期にあたっていた。この方面ではその後、マネーサプライ・ターゲティング、インフレーション・ターゲティング等、さまざまなアイデアが生まれ実際の政策にも反映されることになる★4

 19735月に岡山支店に転勤になるまで、外国局には1年強の期間、勤務した。この期間は中央銀行員としての広い意味での研修期間であり、何か「仕事をした」ということではなかったが、若い時に国際通貨制度や国際金融市場とかかわりのある仕事を垣間見ることができたのは非常に幸運であったと思う。

第1章 日本銀行でのキャリアのスタート(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01